様々な制度や方法論が行き詰っている。やみくもに前に進んでいればそれなりにつじつまが合う時代は過ぎ去った。
時代は「編集」を求めている。
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順番数寄・その3 ~あの世めぐりこの世めぐり(1)~

 もう一つだけ、子供の頃の話を。

 物心がつくかつかないかぐらいの時分に、親に連れられて高野山に行ったのです。
 と言いますか、行ったはずです。もう高野山の様子がどんなだったかなどはきれいさっぱり忘れてしまっていて、買ってもらったお土産のことだけ覚えている。

 僕には兄が一人いるのですが、その時に親は兄と僕に一冊ずつ、絵本を買ってくれたのです。僕には刈萱上人の絵物語を、兄には地獄と極楽の話を。

 今回話そうというのは僕の絵本ではなく、兄の絵本のほうの話なのです。
 なぜかというと幼い頃の僕には刈萱上人の物語がさっぱり、ピンと来なかったからです。誰だかやんごとなき方が家の中の愛憎劇に嫌気がさして出家してとかいうような話で、きっと今読めばそれなりに趣きも感じるのでしょうが、そのころの僕にはどうでもよい話でした。
 ひとコマだけ覚えているのは障子に映る女性二人の影を描いたコマで、一見仲良く向かい合っているのに、二人とも長く伸びた髪の毛が蛇の形になっていて、それがお互いに牙を剥いているという絵柄で、主人公はそれが出家のきっかけになったとかならないとかいう話だったかなと。

 それはまあどうでもいいのです。刈萱上人には失礼ですが。

 子供の頃は兄と同じ部屋で寝起きしていて、兄さえいなければ兄の本棚の本も読み放題でした。
 だいたい僕はなぜか所有観念についてのしつけが希薄なまま育った子供で「面白いのは全部僕の本、面白くないのは誰の本でもない」ぐらいの気持ちで、兄の本棚だろうが父の本棚だろうが勝手に引っ張り出して盗み読みしていました。今もその感覚は根強いようで、今書いていてもさっぱり反省の念が湧いてきません。いけませんな。

 兄の絵本のほうは地獄と極楽とを巡っていく話だったわけですが、物語の狂言回しとして一人、名もなき亡者が登場します。他の亡者と同様、彼も閻魔大王の裁きを受けて行き先が決まるはずなのですが、なぜか彼の番になった時、閻魔大王以下裁定スタッフ全員がはたと困ってしまう。

「う~む。こやつ、良いことも悪いこともしておらぬ」

 この「良いことも悪いこともしてない」という中途半端な人物設定が、わけもなく子供時代の僕の心をひどくひきつけました。
 スタッフ一同しばらく困ったあげく、閻魔大王が苦肉の策を思いつきます。

「……お前、とりあえず地獄を一回り見て来い」

 そんなわけでその亡者クンはとぼとぼと自分の足で地獄一周見学ツアーに出かけます。見学者用の乗り物なんざありゃあしないという所がさすがは地獄で、やっぱりディズニーランドや姫路セントラルパークとは違う。
 とは言え地獄というところは上記のテーマパークに負けず劣らずバラエティーに富んでいるのです。火炎地獄だの黒縄地獄だの阿鼻地獄だの、いろんな責め苦の情景の中をその亡者クンはうわあとかひゃああとか言いながら見学ツアーしていく。

 それも安穏と見学するだけでなく、時々その責め苦を体験しそうにもなってしまう。
 どうも地獄という所はあんまりスタッフ間の連絡が徹底していない所らしくて、閻魔大王の「コイツは見学者だ」という意向がいまひとつ現場レベルまで行き渡っていないのです。ですから現場スタッフ、つまり赤鬼や青鬼ですが、一般の亡者と勘違いして「次はお前かぁ!」とかその亡者クンに言ったりする。
 そこで亡者クンは「あ、いえ、私は結構です」とか気弱に言い訳しつつスタコラ逃げたりと、適度なスリル感があってなかなか楽しいのです。いや地獄ですからあまり楽しんじゃいけないんですが、とにかく子供の頃の僕にはそれが刈萱上人のさぞありがたいお話なんかよりも理屈ぬきに面白かった。

 別に責め苦のいろいろを楽しんでいた訳ではないのですが、地獄という一つの世界のあちこちであれやこれやのイベントがあって、その中を参加者のような傍観者のような、中途半端な立場のまま順に経巡っていく、その感覚が僕にとっては非常に「いとおかし」だったわけです。

 何でこんなことを思い出しているかというと、最近、何だか自分のやっていることがあの亡者クンに似ているような気がしてきたのです。
(つづく)

順番数奇・番外 ~お侍と問答~

 前回に続いて、脳内遊びをもう一個書いてみます。これは幼少時ではなく、高校~大学ぐらいの時によくやっていました。
(編集学校に入ったら、これと良く似たお題が出てきたので、ちょっと懐かしかったです。)

 何かというと脳内に一人「お侍」を呼び出すのです。

 べつに何時代とか江戸の何々年間とか限定しなくていい。時代劇に良く出てくるいかにもお侍という感じのお侍、でいいのです。素浪人でもどこかの藩士でもかまわない。必要条件というのは、いかにもお侍らしくしゃべること――つまり我々の日常語とは少し違った言葉を持っていること――と、知的好奇心があって質問を連発してくること、この二つです。

 誰でもいいからそういうお侍を彼の時代から無理やりタイムスリップさせて、自分の脳内に呼び出す。そうしておいて外に出ます。
 家の中でもやれなくはないのですが、戸外の方がもちろん偶発的なことに出会いやすいわけで、そのへんが絶好なのです。

 外へ出ればもちろん現代のさまざまな事物が目に入ります。例えば目の前を自動車がすっと横切る。我々には見慣れた光景です。ところが脳内のお侍にとっては生まれて初めて見るものです。何しろ昔の日本からタイムスリップしてきたんですから。当然、

「あれは何でござるか」

 とくる。
 あとはだいだい察しがつくかと思いますが。このお侍の素朴な疑問にどこまで答えられるかが、このお遊びの面白味を決めます。

「あれは自動車というものでござる」
「いやはや、目にもとまらぬ速さじゃった。なぜあのように早く走れるのでござるか」

 こっちまでお侍口調でしゃべるかどうかはお好み次第ですが、とにかくそうやって問いと答えとで遊んでいくことで、いろんな物事が内包している仕組みとそのつながり具合を順繰りに引き出せるわけです。自動車はもちろんタイヤが駆動力を地面に伝えることで早く走ります。ではその力のみなもとは何か、どこから来るのか。シャフトがあってギヤがあってエンジンがある。エンジンには大抵ピストンがあってがんがん上下している。その上下させているのは何かといえばガソリンか軽油、そしてプラグのスパークです。もちろんもっと細かく噛み砕くこともできますが、そこはやっぱりお侍がついていける範囲内でないといけない。

――ここまで書いてみて自分で気づいたことですが、脳内の異者というのは、文章の明快さにとっては欠かせない存在です。常にその質量なき異者を抱え、時には異者そのものにならなければならない――

 上記では自動車を例にしましたが、電車でやるとより「つながり」が意識できるかもしれません。電車にはパンタグラフがあって、つねに上の電線に触れています。そこから電気を取り入れているのですが、その電気は電線を伝わってやってくる。そのみなもとへと辿っていくとまず電車用の変電所に行き、そこから野を越え山を越えして発電所へ行き着く。発電所では水力だの火力だの原子力だので電気を作っています。そのことをお侍のわかりそうな言葉にして説明する。

 何がこの遊びの面白味かというと、普段は「自動車」とか「電車」とかいう単語でくくられてしまっている、つまりそこからは思考が展開しすぎないようにある種の鍵がかかっている何ものかを、鍵をちょっと外して扉をあけて見ることで、実は小さくくくられたものの中に膨大な順番が潜んでいることが見えてくる、そこなのです。
「お侍」というのは、いわばその鍵をあけるための触媒です。だからちょっと我々の日常語からは逸脱している必要がある。逆に言えば、上記した二つの条件を満たしてさえいればお侍でなくても、南洋の小島の原住民でもかまわないでしょう。
 ただし、その「触媒」の日本語力を低く設定すればするほど、このお遊びは難易度が高くなります。言葉を覚えたての子供にものごとを説明するのはとても難しいというのはそういうことです。

 上記のようなことで取り出せる「仕組み」や「つながり」が我々の日常を下支えしていて、しかも普段我々はそのことをほとんど意識していないわけですが、ある不幸なきっかけがその「つながり」を強く意識させることがあります。それは何か巨大な災害がその「つながり」を一瞬にしてずたずたに破壊してしまうような時で、僕の場合それは阪神淡路大震災だったのです。その時のことはまた改めて書くことになるでしょう。

順番数寄・その2 ~幽体の指先~

 そもそも僕は運動神経が足らないせいもあって、子供の頃はあまり活発ではなく、一番の遊び場は自分の脳ミソの中でした。今でもある程度そうですが。

 子供時代にやっていた「脳内遊び」を思い出したので、ちょっと書いてみます。名前のついていない遊びなんですが、今ここで「壁さわり歩き」と命名しておきましょう。もちろん実際に歩くのではなくて、脳内で歩くのです。

 あまり寝付きの良くない子供だったので、布団にはいってから眠りに落ちるまで、あれこれもやもやと空想をしていました。その空想の中で生まれた遊びです。やり方は簡単、今自分が寝ている体勢のまま空想で幽体離脱して、寝室の壁に手を触れて、壁から手を離さないでずっと歩いていく、これだけです。

 「壁から手を離さない」ことだけがルールなのですが、やってみると意外と、普段歩くのとは全然違うルートになるので、その変な感じが面白くて、いつも布団の中で目を閉じたまま悦に入っていました。
 実家が大きな古い家だったこともこの遊びを面白くしてましたね。ルートはいつも同じになるわけではなく、ドアやふすまが開いていることにするか、閉まっていることにするかによってガラリと道筋が違ってくる。応接間に行くと見えて押入れの中にずんずん入っていったり、勝手口から玄関へはすぐの筈なのに、冷え冷えした裏庭を連れ回されたり、そんな具合に夜中にずいぶん幽体でうろつき回っていました。

 我ながら面白いと思うのは、これをやる時は指先にさわる壁の感触を再現しながらやっていたことですね。木の縦板が走っていた寝室の壁、廊下の壁紙のざらつき、和室の漆喰壁、冷え冷えとした勝手口の鉄のドア、そんなものの感触が未だにきちんと記憶の中にしまわれています。

 こないだ久々にやってみました。今はマンションでの一人暮らしなのでそんなに多彩なルートは辿れないのですが、それでも日常とは違った歩行路が出現する感覚を久々に楽しみした。ドアの開閉条件設定によってはお隣のお宅にお邪魔することになるのですが、さすがにそれは自粛しました(笑)。

 でもこれ、脳の活性化法になるのか安眠法になるのか、一体どっちなんでしょうね。

(注意:やる時は本当に幽体離脱はしないでください。もし実体に戻れなくなっても、私個人もEDIT64も一切責任は負いませんので、悪しからず。)

順番数寄・その1 ~恒星輪廻図の「をかし」~

 このブログにこと寄せて、自分の「順番感覚」を洗い出そうとしているのですが、あれこれ思い返すうち、僕は小さい頃から「順番好き」な子供だったのかもしれない、と思い当たってきました。

 自分の記憶の発端のほうに、なぜか「恒星の一生」の図があるのです。
 小さい頃は図鑑をながめるのが楽しみだったので、多分宇宙についての図鑑の一ページに載っていた図だったのでしょう。実際には見開き2ページにわたっていたと思いますが。

 左ページ左上のほうに、まず宇宙を漂うもやもやしたガスが描かれ、その中に真珠の小粒のように、白く幼い恒星が一つ生まれ、そこから右下へと向かって数珠をつなぐように恒星の育つさまが描かれていました。直径が増すにつれて星の色味は薄黄から朱へと変わり、図は右ページへと突入し、恒星は紅蓮の炎をまとった赤色巨星へと急速に変容してゆくのです。

 星の成長と自らの質量とのバランスが崩壊すると、終末に至る劇的な展開として大爆発が起きます。再び原初のガスの雲が描かれ、その中で恒星の運命はその質量に応じて三者三様に描かれます。軽い恒星は幼生に戻ったかのような白色矮星として、重いものは重金属の塊のような黒色矮星として、そしてさらに重いものは、爆縮の力が物質存在そのものを支える力を上回った挙句、ただただ重力だけが存在する宇宙の陥穽、ブラック・ホールとして……。これらの末路が右ページの下端に小さめに描かれ、幼い僕に遠い世界の物語の完結を示していました。

(上記記述はあくまで僕の幼時の記憶を取り出しただけのもので、きっと現在の宇宙科学の知見とはずいぶん食い違っているでしょう。爆発を通過せずに矮星へと至る恒星もあるようです。お含みおき下さい)

 つい文章師の腕がうずうずして、文章にいくぶん物語的修飾を施してしまいましたが、図鑑には他の絵も色々あっただろうに、その図だけが今に至るまで強く残っているというのは、幼い頃の僕の「いとをかし」が、その恒星輪廻図の数珠のような時間的連なりのありさまに強く向けられていた、ということだったのでしょう。

順番、フォー!!

 いや、別にふざけているわけではないのですよ。たいへん大真面目です。文章と世界との関係について考えよう、というのです。

 レイザーラモンHGという芸人、というかゲイ人がいて、表題のような奇声を発しながら独特のポーズを取るわけですが、ここでちょっと彼のその様子を頭に思い浮かべつつ、以下のことを考えてみて頂きたい。(知らない人はごめんなさい)
 もし彼のことをまったく知らない誰かに、彼がどんなポーズを取っているかを理解させ、同じ動作をさせたいとして、自分がやって見せることもなくましてや映像を見せることもなく、文章だけでその誰かに伝えなければならないとしたら、あなたはどういう文章を書きますか?

               さて。
             どうしますか?

 これはなかなか文章師でも完璧な再現は不可能です。彼は「フォー」という奇声とともにいくつかの手足の動作を同時に行っています。同時に、です。
 実は文章という道具は、この「同時に」という状態をうまく再現できない。

 それでも何とか描写してみますと、彼は足を肩幅ぐらいに開き、局所を強調するように腰を突き出し、両手をやや伸ばした状態で胸前から両横へと大きく開き、指は独特の形にし(詳細失念御免)、それと共に「フォー!!」と叫ぶ。
 ……今あなたが読んだ上記の数行が、実は文章というものの限界です。
 そもそも、ほんの一瞬のうちに起きていることなのに、文章ではこれだけの長さを費やしてしまう。しかもその細長さの中で、どれかを先に、どれかを後に書かなければいけない。まったく同時に起こっていることなのに。

 ――しかし限界を知るということは、特性を知るということでもあります。フェラーリであれポルシェであれランボルギーニであれ、時速三百数十キロまでしか出せない。しかしそこまでは出せるということであって、そこから疾走がはじまる――

 いいたいことは、文章とは一次元のものなんだ、ということです。
 始まりがあって、終わりがあって、一本道。長さはあるけど、幅はない。同時に二つのことは書けない。
 一方で、世の中の物事は「フォー!!」に限らず、つねに多次元です。同時多発的、と言ってもいい。
 一次元でしかない道具でもって、どう世界に取り組むのか。

               さて。
             どうしますか?

 しかし希望はちゃんとあります。それは、人間というのはだいたい誰でもその一次元のものから世界を想起できる、再構成できるということで、そこに文章というものの玄妙があります。
 古池や蛙飛び込む水の音。春の海ひねもすのたりのたりかな。ひさかたの光のどけき春の日にしず心なく花の散るらむ。ちゃんと世界があります。わかります。誰にでも。つまり、読者には想像力がある。あなたには想像力がある。
 その想像力を私は信頼して、文章を書いているのです。

 文章を考えるということの肝要の一つは、あと先を考えることです。「順番」です。
 よき順番というものは、世界を捉えられるだけでなく、世界を変えうるものです。風が吹くから花が散る。そりゃそうだということで、これは物理学の範囲内です。気体分子だの流体力学だの植物細胞の構造だのという世界です。
 しかしもしかしたら花が先かもしれない。花が咲くから風が誘われるのかもしれない。もっといえば、風が散り、花が吹いているかもしれない。そこはもう違う世界です。分子や力学が退場し、「あはれ」や「艶」が登場します。

 順番だけでは世界は包みきれない。しかし不思議なことに、順番が世界を示現することがある。そこが文章という、ひとつしか次元を持ち合わせていない道具の働きどころだと、文章師はそんなふうに考えているのです。

『順番(繋げて較べる)』

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萬野裕彦(文章師)
 1964年兵庫県生まれ。ゲームサウンドデザイナー、輸入CDバイヤーなどを経た後、1995年1月阪神淡路大震災被災。その際のボランティア経験を綴った論文でコンテストに入賞したことが、現在の仕事の原点となる。
1997年東京にて文章師として活動開始。現在は神戸に戻って活動中。編集学校8守ひょうたんコラボ教室卒門。

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