順番、フォー!!
いや、別にふざけているわけではないのですよ。たいへん大真面目です。文章と世界との関係について考えよう、というのです。
レイザーラモンHGという芸人、というかゲイ人がいて、表題のような奇声を発しながら独特のポーズを取るわけですが、ここでちょっと彼のその様子を頭に思い浮かべつつ、以下のことを考えてみて頂きたい。(知らない人はごめんなさい)
もし彼のことをまったく知らない誰かに、彼がどんなポーズを取っているかを理解させ、同じ動作をさせたいとして、自分がやって見せることもなくましてや映像を見せることもなく、文章だけでその誰かに伝えなければならないとしたら、あなたはどういう文章を書きますか?
さて。
どうしますか?
これはなかなか文章師でも完璧な再現は不可能です。彼は「フォー」という奇声とともにいくつかの手足の動作を同時に行っています。同時に、です。
実は文章という道具は、この「同時に」という状態をうまく再現できない。
それでも何とか描写してみますと、彼は足を肩幅ぐらいに開き、局所を強調するように腰を突き出し、両手をやや伸ばした状態で胸前から両横へと大きく開き、指は独特の形にし(詳細失念御免)、それと共に「フォー!!」と叫ぶ。
……今あなたが読んだ上記の数行が、実は文章というものの限界です。
そもそも、ほんの一瞬のうちに起きていることなのに、文章ではこれだけの長さを費やしてしまう。しかもその細長さの中で、どれかを先に、どれかを後に書かなければいけない。まったく同時に起こっていることなのに。
――しかし限界を知るということは、特性を知るということでもあります。フェラーリであれポルシェであれランボルギーニであれ、時速三百数十キロまでしか出せない。しかしそこまでは出せるということであって、そこから疾走がはじまる――
いいたいことは、文章とは一次元のものなんだ、ということです。
始まりがあって、終わりがあって、一本道。長さはあるけど、幅はない。同時に二つのことは書けない。
一方で、世の中の物事は「フォー!!」に限らず、つねに多次元です。同時多発的、と言ってもいい。
一次元でしかない道具でもって、どう世界に取り組むのか。
さて。
どうしますか?
しかし希望はちゃんとあります。それは、人間というのはだいたい誰でもその一次元のものから世界を想起できる、再構成できるということで、そこに文章というものの玄妙があります。
古池や蛙飛び込む水の音。春の海ひねもすのたりのたりかな。ひさかたの光のどけき春の日にしず心なく花の散るらむ。ちゃんと世界があります。わかります。誰にでも。つまり、読者には想像力がある。あなたには想像力がある。
その想像力を私は信頼して、文章を書いているのです。
文章を考えるということの肝要の一つは、あと先を考えることです。「順番」です。
よき順番というものは、世界を捉えられるだけでなく、世界を変えうるものです。風が吹くから花が散る。そりゃそうだということで、これは物理学の範囲内です。気体分子だの流体力学だの植物細胞の構造だのという世界です。
しかしもしかしたら花が先かもしれない。花が咲くから風が誘われるのかもしれない。もっといえば、風が散り、花が吹いているかもしれない。そこはもう違う世界です。分子や力学が退場し、「あはれ」や「艶」が登場します。
順番だけでは世界は包みきれない。しかし不思議なことに、順番が世界を示現することがある。そこが文章という、ひとつしか次元を持ち合わせていない道具の働きどころだと、文章師はそんなふうに考えているのです。






