様々な制度や方法論が行き詰っている。やみくもに前に進んでいればそれなりにつじつまが合う時代は過ぎ去った。
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2006年06月27日

●第14夜 題名「あるはなく」への注釈。


第13夜は八木秋子個人通信「あるはなく」第1号の冒頭を飾った八木秋子の文章を掲載しました。何の注釈もつけなかったのは、注釈の効用を確かめたかったからというわけでもなく、この場をご覧になっている方々に、ただ、いきなり、八木秋子の文章を味わって欲しかったからです。

さらりとこのような文章が82歳の老女から発せられるとは思わなかったというのが、その原稿を手にした時の正直な感想でした。実際のところ、その時点まで八木秋子の文章を(白井新平さんの所に来た手紙別にして)わたしは全く読んでいませんでした。もちろん戦前『女人芸術』やアナボル論争の口火を切った八木秋子の文章も知りませんでした。誤解を恐れず言えば、この人はただものではないと思いました。面白い世界に関われるだろうという予感もありました。だから、その後、通信の発行や著作集の刊行に夢中になっていったのでした.

ところで、わたしは基本的に新月と十六夜にこの文章を発表しております。新月には月が「ある」のかないのか。月の満ち欠けは、古来より人に時を感じさせています。欠けている月は、しかし、しっかり「ある」。題名の「あるはなく」は小町のうたから採ったものですが、八木秋子が亡くなってから書いた文章にこのようにものがあります。

★南極の氷は<かれん>だ。二度と飲めぬかも知れぬそのオンザロックに私は感動した。たんに氷が美味いからではない。氷が溶けるにつれ、長い時間をかけて閉じ込められた無数の微小な気泡が一個ずつグラスにはじける。正確に順を追って飛び出るとき、パチッ、と微かだが凛とした音がする。そして最後のかけらになると、ピィーンと余韻を残して跡形もなくなった。その軌跡は実にいさぎよい。しかし、はたして気泡にとってそれは生誕なのか、それとも終焉なのだろうか。
 「あるはなく」とは八木秋子個人通信の題名だった。都立養護院という老人ホームに入った81歳の八木秋子に私は個人通信をすすめ、活字化することに協力した。編集人である私の独断もあって、通信は不定期で、あるときはほとばしる急流の如く、またあるときは悠久な大河のごとく無頓着に<時間>を私有した。その表題は六歌仙のひとり小野小町の歌として、彼女の友人からたまたま送られてきた歌のうちから採ったものである。
 今ふり返ってみると「あるはなく」という題名は実にふさわしかった。在るものが消えてゆく、と時間の継続の中で考えてもよいし、在るものは虚像かも知れぬ、とその瞬間をスパッと輪切りにしてもよい。この小町の歌とされるものが実は小大君の歌であり、かつ、その小大君の歌の最後の箇所を変えて小町の歌として小町集に収録したと論証しているものがいる。結果的には名も知れぬ大衆の小町像の反映でもあるのだ。ふさわしいといったのはそのことも含まれている。
『パシナⅠ』1984秋

「ある」と「なく」を行ったり来たり。その境界を往還する。いや、その間に熱意を込め、駆け抜ける。そのような思いでわたしは「あるはなく」を発行し続けたのかもしれません。
いまなら、そう書くのだろうと思います。

2006年06月13日

●第13夜 八木秋子個人通信「あるはなく」第1号

☆注釈 八木秋子

 ●「あるはなく」第1号 発行にあたって

 私の就職と失業は若い頃からわりと偶然と動機に支配されることが多かった。数多くの就職も、それが履歴書によるものとはあまり縁がなかったようである。いつの時でも大抵は履歴書より先ず面接が先きにきて、それから進展して就職のことになり、入社というような道すじになった。学歴がない履歴書というものは日本ではあり得ないし、人物考査の最初から禅問答のようなもの、活きた社会のうごきなど女性詮衡の場合としては珍しいものであるかもしれない。私はそういう人の前に出る場合、たいていは頭脳を空っぽにして虚心のまま座っていた。何があたまの上から降ってくるかわからないから。無欲といえるかもしれない。
「あなたは新聞記者という存在が好きですか。」
「興味はもっています。知らない世界ですから。」
「知らない世界・・・これから何を一番知りたいと思うのですか。」
「わかりません。私がこんど独りぎりで上京しましたのは、勉強したいと思ったからです。」
「勉強とは、大学へはいること? 学者にでもつくことですか。」
「ただいまのお話に、大阪の本社ならば、あるいは、と仰言いましたが、大阪でしたらわたくし、べつに望みません。」
「どうして? 何故です。」(これは婉曲な拒絶だ・・・)
「私がこのたび、ただ一人で上京しましたのは、生きて行く上に、自分のほんとうのものを知りたい、発見したい、じぶんを生かしてくれる者の真実の言葉をききたい、そう思ったからです。東京はその点最上の勉強をさせてくれると思います。生活がそのまま勉強ですから―」
 こんな問答をしたおぼえがある。大正から昭和へまたぐ接点のころ、大新聞の主幹がみずから。私は大新聞社の記者になった。なってみて、毎日の自由な活動、自由な発意、署名なき原稿の走り書きに大きな監視があり、目にみえぬ組織の網が「常識」という、それ以上に「保守」「権力」のもとに日々身にせまっていることを痛切に感じた。
 昭和のはじめ、私は闘う仲間とともにストライキの応援でやられた。警察はこれを皮きりに散発的につづき、要注意記者とマークされて社の監視が加わった。その先きに辿る道は大方の想像にまかせる他はない。私は非合法の世界に転々と生活は移り、生きることの困難さを身を以って知った。知れば知るほど、それは魅力のあるものとなり、生きる興味の素材となって苦しみが新しい生活を発見して行ったようである。社会の理想について、私には『自由と解放』のほかに考えられるものはなく、そこに原点があって、生きているかぎり人間でありたい、生きるかぎり闘う良心から身もこころも離さない、しかも自由人でありたいと思いつづけてきた。
 昭和10年12月、大阪のケイサツによって意外な検挙をうけたとき、警察の留置場へ古着のあたたかいのや、お菓子などを差入れに来てくれた女友達が一枚の名刺を私に差しだした。肩書には「大阪朝日新聞社社会部」とあり、「この人はまだ若い記者なのよ、あなたへ伝言を頼まれてきた。この後何年かたってあなたが自由に解放される時が来るかもしれないけれど、出たら迷わず僕を訪ねて来なさい、ぼくは路傍の人間として終りたくない必ず―。手をのべたい。出てきたとき、ぼくの所属や住所は新聞社で判るから。返事は要らない。」
 この名刺の文字も頭から消えない。想像から消え去らない。私の周囲にはこうした若い人、年配の人で、私の長いどん底生活を見まもり、励ましつづけている友がいる。相京範昭君もその一人である。物を書くという呼吸の長い思索の積み重ねを必要とする腰の据え方において、私にはつよい情熱があり、炎えあがり、捉えられ、捉えんことを望む欲求などで長い孤独の生活の中にも書きのこした原稿の類は比較的数少ない。私は9月で83歳を数えることになり肉体的老衰の足早におどろいている。いま、私は昨年末に東京都立養育院に収容されて前途に安全はあっても道のない老人の国にはまりこんで、以来全く変った老人ばかりの共同生活にはいった。
 明治時代の少女期から大正・昭和とつづく社会の変化、その変化の中でキリスト教への傾倒、文学への憧れ、小川未明氏や有島武郎氏から直接うけた影響、一家の没落、結婚、性への疑問。すでに一児の母でありながら、結婚、家庭とは何かを追いつづけ、追いつづけた結果、死の自由と生の復活に至りついて家出を敢行した。波瀾多いその後の道なき無頼さとも求道者ともいえそうな私を相京範昭君は私の軌跡を活字に残したい、という願望を抱いてくれてまず私のためにテープをとった。老人の雑駁な環境の中からどんな小冊子が生れるか、若い友へのふかい感謝とともに、たのしみである。
 なお私の余命が問題であるが、ほそぼそとつづく限り、稿を改めて最後の日まで執筆をつづけたいと思う、80年余を時代の中に生きてきた、生きているという証言として。
              1977年7月 八木秋子

『あるはなく』

あるはなく なきは数添ふ 世の中に
 あはれいずれの日まで歎かむ
               小町

註 世にあるものは虚しく、無と観るものは無量の数である。生と死を超えたいずれにまで歎こうか。

 小町という女性の作であろうことにおどろいた。日本の古典の巨きさと深さに改めてふかく心をうたれたのである。この一つのうたを私に贈ってくれたのは、山岳の屋根に雪のみえる松本の住人ではじめて母になってまもない友である。私は小さい冊子を初めて作ろうとして、大胆にもこのうたを題名にえらんだ。『あるはなく』という言葉に魅せられて。若い友に感謝の言葉を贈る、渡辺映子さんに―。


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