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2006年07月25日

●第16夜 島崎こま子と八木秋子

 EDIT64注釈(付け加える)-「八木秋子」は、個人通信「あるはなく」発行(1977年7月17日)に至る過程をまとめてきました。第13夜は第1号の「発行にあたって」を掲載し、八木秋子が「ものがたり」を産み出す人物であったと書きました。

 今夜から数夜にわたって掲載する第1号「私の生きざま『常に私の戻るところ、負のバネ』は、聞き書きをまとめたものです。書き言葉と話し言葉が混在しているのは、一度「話し言葉」にまとめたものを八木秋子が手を入れたからでした。また、説明不足や生硬な表現もありますが、句読点や明らかな間違いでない限り、原文ママとしました。

 かなり長い文章ですので、何回かに分けて掲載し、注釈を加えたいと思います。

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●私の生きざま
  常に私の戻るところ、負のバネ

・キリスト教の影響について
・小川未明を知ったことは大きなこと 
・直前で諦めることは無意味なこと(*有島武郎の助言)
・セックスというのは大きいことだ
・飛び出したけど……それからがね
・それぞれが生きるということ
・再び家出する
・衝動的な直感と偶然を信じて
・飛び超えたいけど「我」が
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●八木秋子通信「あるはなく」第1号 (1977年7月17日発行)

 私の生きざま
    常に私の戻るところ、負のバネ

■八木
 私はこういうものを出して果してよいのか?という疑問が湧く。あまりにも茫洋としているような気がするのだけど。ただ私が82才の今日まで信じてきたもの、生きてきた軌跡というものを思うままに話してみたいと思います。立派な理論みたいなものは話せないですが。
 私がどうしても避けて通ることのできないものに子供のことがあります。私が今までかつて、子供を家に置いて、捨てて家出をしたということ、その結果、その後どういうふうに闘ってきたかということについて何も発表してないんです。それは命がけだったのですから。でも、それがやっぱり大きなことだったと思います。
 
■キリスト教の影響について
 私は姉達の影響でキリスト教に接触して行ったのです。が父は反対でした。一番上の姉は、これがまた大変面白い変わりもので、隣の町の開業医に嫁ぎ、次の姉がまた医者の妻となり、三番目の姉は自ら進んで写真結婚して未知のアメリカへ独りで行きました。四番目は先日亡くなったクリスチャンで、最後が私でした。
 当時姉達が師範や女学校から休みなどで帰ってくると待ち構えていた家のなかは大変でした。賛美歌はうたう、聖書の詩篇は朗読する、妹の私たちはすぐに憶えて姉たちと合唱します。どんなに父が世間を憚っても、母が涙ながらに押しとどめても、なんの力にもなりませんでした。姉たちはまた嫁ぐとき、それぞれに愛読した雑誌や少しばかりの書物を遺して行ってくれました。当時のことですから藤村詩集、自然と人生、武蔵野などの文芸物、そして河合酔茗主幹の「女子文壇」―月刊誌などもありました。その頃の女子文壇は文学少女の投書誌とでもいいますか、のちの三宅やす子、岡本かの子、若山喜志子、今井邦子、山田花世などの顔ぶれで夢みる乙女のあくがれを、情熱の飛礫をどこにぶつけていいか、ただもう河合酔茗先生の胸めがけてその球音の爽かなる響きをきかんと集まってきました。
 そのころの私はしかし、そこのところから次第にキリスト教の方に興味と関心がうつり、内村鑑三氏の訳詩や詩に近づいていったようです。
 木の嵩を増すがごとく、のびて必ずよき人ならず、橿は三百年を経て枯れて倒れても丸太たるのみ、たとえその夜倒れて死ぬも、光りの花と草とにありき、美は精細の器(うつわ)に現はれ、生や短期の命を完たし・・・。
などとうろ覚えながら当時の感動がこころに生きてきます。
 内村氏はやがて後日、東京内幸町の会堂で氏の信仰を表明する講座を開き可成りの時日講座を設けられましたが、私はその頃すでに一児の母となり、子供を背に負うて聴講者の列に加わりました。しかし規則には子供を伴うことが禁ぜられていましたので、受付で特に許しを請うて熱心に迫りましたが例外を許されず、非常な失望をもって帰ったことを記憶しています。(つづく)

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■八木秋子は1895年(明治28年)9月6日、長野県西筑摩郡福島町(現在の木曽福島町に、郡役所書記八木定義、と紀の5女(本名あき)として生まれました。今夜は、「木曽路はすべて山の中である」で始まる『夜明け前』(千夜千冊0196)の作者、島崎藤村と八木秋子の「つながり」に少し触れてみたいと思います。
 秋子の父定義と藤村の次兄広助は、木曽福島と妻籠の行政の中心にいたので、無二の親友として木曽谷で生じる問題(木曽御料林事件等)に対処しました。そのため、秋子は広助にも親しみを感じていたようです。その娘であり、藤村の姪にあたる「こま子」は『新生』の節子ですが、父同士が親友でしたから、手紙のやり取りや交友があったと秋子は言います。

 ご承知のように、『新生』は、妻をなくして幼い子どもをかかえた作者が、姪と関係を結んでしまい、その愛と苦しみを「東京朝日新聞」の連載小説として告白したというものです。実際の藤村とこま子との関係でした。こま子は身ごもり子どもを産みます。連載されたのは秋子が結婚した年、1918年(大正7年)のことです。どんな気持ちで秋子たちは読んでいたのでしょうか。
 手紙をやり取りしたのは、定義が胃癌を宣告された1922年(大正11年)ですから、秋子はすでに離婚が成立した後で、こま子も藤村との関係を絶った後でした。秋子はこま子に藤村に対する気持ちを手紙で尋ねたそうです。「こま子さんは藤村を肉親としてのつながりとして考えていない、思ったよりはるかにさばさばした人だった」と秋子はその時の反応を語っています。

 しかし、手紙をやり取りしてから15年後、まさか同じ日の新聞紙上で二人とも報道されるとは夢にも思わなかったことでしょう。1937年(昭和12年)3月7日、信濃毎日新聞は秋子らの長野地裁での「農村青年社運動」の公判を報道しています。女闘士としての八木秋子。一方同じ紙面で、島崎こま子は三段抜きの扱いで「悲し新生の女主人公、養育院に収容」との見出し。肋膜炎を患い、行路病者のような身で東京板橋の救貧院であった養育院に収容されます(これまた偶然にも秋子が収容されることになる老人ホームです)。

 こま子は1978年6月29日に東京の病院で息を引き取りました。享年85歳。「ひそかに生涯を閉じた島崎藤村『新生』の節子。メイ・こま子さんのその後と晩年」という東京新聞の特集記事によれば、彼女は藤村との交際を絶った大正末、京都にて左翼学生の合宿所で寮母になり、学生からの影響も受けて無産運動に入り、35歳のとき9歳下の学生と結婚。夫は1928年の3・15共産党弾圧事件で検挙され入獄。こま子は闘争資金を汗まみれになって稼ぎ、夫の出獄後、一女をもうけたが破婚。上京後、行商をしながら運動を続け、警察と赤貧に追われる日々を送ったとあります。そして、とうとう子どもを抱えたまま肋膜炎を患い、養育院に収容されたのです。

 その新聞記事では、戦後、妻籠に住んだこま子は「いつも和服で、言葉が美しく、静かな気品」があったと報じています。そして作家の松田解子は「ひそやかさの中にまっとうさと輝かしさのある人でした」といい、「人間の幸せとは、美しいものを美しいといえる、嬉しいことを嬉しいといえることでしょうねぇ」とこま子が語っていたといいます。戦前を生きた、アナーキズムに関わりと共感を抱いていた人たちが共有する「気配」が、その晩年のこま子の写真から読み取ることができます。自負と潔さがあります。

 秋子を通じて想像する父定義の風貌は清廉潔白、愚直、古武士のようです。おそらく親友の広助もそうであったことでしょう。そして、あの『夜明け前』の青山半蔵にも通じる所があるように思えます。藤村が『夜明け前』の連載を開始した1929年(昭和4年)は世界恐慌が始まった年です。「何が歪んで、大政奉還が文明開花になったのか」を彼が作品で問い続けていたまさにその頃、秋子とこま子は、「天皇の国家」が戦争に向かう時代に、その圧倒的な権力に身を挺して抵抗し、愚直に、一途に、変革に向けて突き進んだのでした。その生涯をかけて伝えようとした精神こそ、21世紀のいま、次の時代にリレーする必要があるとわたしは思います。


★島崎藤村はもう少し、また秋子の姉ふじについても触れたいと思いますが、それは次回、この夏、妻籠のこま子や木曽福島の秋子の墓参をすませてからまとめることにします。

2006年07月13日

●第15夜 八木秋子は投書がきっかけで新聞記者に

 今宵は第15夜。
 第1夜からをちょっと振りかえってみます。

 EDIT64注釈(付け加える)-「八木秋子」は、プロフィールと1983年の訃報に始まり、彼女が老人ホームに入ってから個人通信「あるはなく」発行に至る過程をまとめました。そして、31年前に八木秋子に出会った時の、「わたしと八木秋子」それぞれの事情を考え、わたしにとっては、谷川雁や森崎和江、そして竹内好の死や埴谷雄高の存在が大きかったと確認したのです。

 そして、第13夜は1977年7月17日発行「あるはなく」第1号(B5版10ページ)の巻頭を飾る八木秋子の「発行にあたって」を掲載しました。発行を思い立った3月から、月に数度、東京板橋区の老人ホーム都立養育院に収容されている八木秋子を訪ね、雑居部屋から外に出て、広場の藤棚の下などで聞き書きをしたものをまとめました。いよいよ仕上げに入った時、軽い気持ちで「発行にあたって一言何か書きませんか」と言って、戻ってきたのがあの文章だったのです。

 八木秋子には「何かある」とは思っていましたが、予想以上の文章力とその人生の密度の濃さに、正直、驚きました。この第1号の発行から1年後に著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』を自主出版し、3年後の1980年7月までに通信は15号を数え、4年後には著作集Ⅲ『異境への往還から』を出したその「アイキョー熱意」の出発点にこの文章がありました。第1号の送り先はわたしと彼女の知り合い30数名。しかし、目の前にいる八木秋子の言葉の端々から、その扉のむこうに確かにいる「歴史上の八木秋子」の気配をわたしは感じておりました。彼女のうすぼんやりした記憶を一緒に辿る、類推を重ねて出会う資料を手繰って行くと思いも寄らぬ出会いがあり、多くの偶然が必然となり、「内属と外包」の連続でありました。


 たとえば、この「発行にあたって」に【大新聞社での面接】という言葉が出てきました。

 ■こんな問答をしたおぼえがある。大正から昭和へまたぐ接点のころ、大新聞の主幹がみずから。私は大新聞社の記者になった。


 この面接のきっかけになったのはなぜですかと尋ねたら、それは本人の投書だったというのです。そして、当時、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の編集主幹だった城戸亮との面接、編集部長だった新妻莞とその妻である新妻伊都との出会い(この出会いが八木を社会活動へ走らせる)、新聞記者としての最初の仕事は印度哲学者木村泰賢<千夜千冊【0096】>だったとか、断片的な話を聞けてもやはり記憶は曖昧、肝心な経緯はわからない。数年後、彼女が上京した年を調べる必要から、国会図書館に通い、神近市子以来の女性記者として東京日々新聞に入社した時期を調べました。柳原白蓮などを担当した記事の情報から大正13年から14年にかけての入社と判断して、しらみつぶし調べましたら、「角笛」という投書欄で発見したのが、この文章でした。

☆東京日々新聞 朝刊1924年(大正13)12月6日(土) 三面、
                      
上京して

 両親の位牌と手廻りの小行李一つ背負って雪に埋まるる故郷を後に上京したのは10月10日。先ず最初に落ちつく棲家を作らなければならないとあって、毎日足を摺古木にして探したが、さて、間代が廉くて居心地の好い貸間のあらう筈はなく「御婦人一人はお断りです」との面倒臭そうな切り口上をきくばかり、結局、場末の二階の六畳を金17円で借りることにして移った。

 次に起るのは就職の問題だ。友達の世話で、或思想家をたづね、「御被見被下度候」(ごひけんくだされたくそうろう)の名刺を有難く頂戴して、某新聞社に編集長を訪問した。ほんの3分間ほどの面会「ハア、ハア、分かりました、では明日来て下さい」との返事。翌日行くと多忙とのことで、他の人が応待してくれ、これまで田舎で何をしてゐました?ときく。「ハハア、田舎の小学校の女教員、ぢゃあ、婦人記者などとは頗る縁の遠い話ですね」とけむりを輪にふく。結局あとから何とか通知しませうとのお言葉。

 次に某女流社会運動家の紹介で、婦人雑誌記者の自宅へ行くと、同棲の若い燕の方から、婦人記者の悲哀をさんざん聞かされた。そこで、心機一転のわけでもないが、紹介状を手にして、府の職業紹介所に行き、早速某出版会社を世話してもらった。いよいよきまり、弁当持参で悲喜こもごもの胸を抱えて参上すると、勤務時間午前9時より午後10時迄。仕事は何千部の発送書籍の切手貼り、サラリーは驚くなかれ、35円との事。あまりの馬鹿バカしさに一日でこちらからおことわり申しあげた。

 最後に、或先輩の小説家はさとしてくれた。「おでんやをはじめなさい、当ること請合ひですよ、それとも待合の女中になるのですね、カフェーも中々好い」と。持金はだんだん減る。そこでわたしは決心した。「いよいよ一文なしになる日まで断然就職運動はすまい、食へなくなった日には、乞食になるか、それとも・・・・・。  (巣鴨の田舎女)


 第一号のプロフィールにそっていえば、父八木定義の胃癌看病のため帰郷し、小学校の教師をつとめながら両親の死を看取り、家を整理して上京した時期にあたります。八木秋子は当時29歳。帰郷する直前は、小川未明の紹介で童話雑誌社に入社し、亡くなる1年前の有島武郎から原稿を貰うなど女性編集者として活躍し始めたころです。うすぼんやりしていた光景が具体的な資料ではっきりと立ち上がってくる。こんな発見も、その後、頻繁におこる「謎解きの旅@八木秋子」の出発でした。先が見えないスリリングな旅であったからこそ、当時のわたしの好奇心をかきたててやまなかったのです。八木秋子は「ものがたり」を産む人物でした。いま、こうして、わたしにここで書かせているのも、八木秋子と言えるかも知れません。ならば、その時も今も、ゆらゆらと逍遙するばかりです。


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