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●第15夜 八木秋子は投書がきっかけで新聞記者に

 今宵は第15夜。
 第1夜からをちょっと振りかえってみます。

 EDIT64注釈(付け加える)-「八木秋子」は、プロフィールと1983年の訃報に始まり、彼女が老人ホームに入ってから個人通信「あるはなく」発行に至る過程をまとめました。そして、31年前に八木秋子に出会った時の、「わたしと八木秋子」それぞれの事情を考え、わたしにとっては、谷川雁や森崎和江、そして竹内好の死や埴谷雄高の存在が大きかったと確認したのです。

 そして、第13夜は1977年7月17日発行「あるはなく」第1号(B5版10ページ)の巻頭を飾る八木秋子の「発行にあたって」を掲載しました。発行を思い立った3月から、月に数度、東京板橋区の老人ホーム都立養育院に収容されている八木秋子を訪ね、雑居部屋から外に出て、広場の藤棚の下などで聞き書きをしたものをまとめました。いよいよ仕上げに入った時、軽い気持ちで「発行にあたって一言何か書きませんか」と言って、戻ってきたのがあの文章だったのです。

 八木秋子には「何かある」とは思っていましたが、予想以上の文章力とその人生の密度の濃さに、正直、驚きました。この第1号の発行から1年後に著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』を自主出版し、3年後の1980年7月までに通信は15号を数え、4年後には著作集Ⅲ『異境への往還から』を出したその「アイキョー熱意」の出発点にこの文章がありました。第1号の送り先はわたしと彼女の知り合い30数名。しかし、目の前にいる八木秋子の言葉の端々から、その扉のむこうに確かにいる「歴史上の八木秋子」の気配をわたしは感じておりました。彼女のうすぼんやりした記憶を一緒に辿る、類推を重ねて出会う資料を手繰って行くと思いも寄らぬ出会いがあり、多くの偶然が必然となり、「内属と外包」の連続でありました。


 たとえば、この「発行にあたって」に【大新聞社での面接】という言葉が出てきました。

 ■こんな問答をしたおぼえがある。大正から昭和へまたぐ接点のころ、大新聞の主幹がみずから。私は大新聞社の記者になった。


 この面接のきっかけになったのはなぜですかと尋ねたら、それは本人の投書だったというのです。そして、当時、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の編集主幹だった城戸亮との面接、編集部長だった新妻莞とその妻である新妻伊都との出会い(この出会いが八木を社会活動へ走らせる)、新聞記者としての最初の仕事は印度哲学者木村泰賢<千夜千冊【0096】>だったとか、断片的な話を聞けてもやはり記憶は曖昧、肝心な経緯はわからない。数年後、彼女が上京した年を調べる必要から、国会図書館に通い、神近市子以来の女性記者として東京日々新聞に入社した時期を調べました。柳原白蓮などを担当した記事の情報から大正13年から14年にかけての入社と判断して、しらみつぶし調べましたら、「角笛」という投書欄で発見したのが、この文章でした。

☆東京日々新聞 朝刊1924年(大正13)12月6日(土) 三面、
                      
上京して

 両親の位牌と手廻りの小行李一つ背負って雪に埋まるる故郷を後に上京したのは10月10日。先ず最初に落ちつく棲家を作らなければならないとあって、毎日足を摺古木にして探したが、さて、間代が廉くて居心地の好い貸間のあらう筈はなく「御婦人一人はお断りです」との面倒臭そうな切り口上をきくばかり、結局、場末の二階の六畳を金17円で借りることにして移った。

 次に起るのは就職の問題だ。友達の世話で、或思想家をたづね、「御被見被下度候」(ごひけんくだされたくそうろう)の名刺を有難く頂戴して、某新聞社に編集長を訪問した。ほんの3分間ほどの面会「ハア、ハア、分かりました、では明日来て下さい」との返事。翌日行くと多忙とのことで、他の人が応待してくれ、これまで田舎で何をしてゐました?ときく。「ハハア、田舎の小学校の女教員、ぢゃあ、婦人記者などとは頗る縁の遠い話ですね」とけむりを輪にふく。結局あとから何とか通知しませうとのお言葉。

 次に某女流社会運動家の紹介で、婦人雑誌記者の自宅へ行くと、同棲の若い燕の方から、婦人記者の悲哀をさんざん聞かされた。そこで、心機一転のわけでもないが、紹介状を手にして、府の職業紹介所に行き、早速某出版会社を世話してもらった。いよいよきまり、弁当持参で悲喜こもごもの胸を抱えて参上すると、勤務時間午前9時より午後10時迄。仕事は何千部の発送書籍の切手貼り、サラリーは驚くなかれ、35円との事。あまりの馬鹿バカしさに一日でこちらからおことわり申しあげた。

 最後に、或先輩の小説家はさとしてくれた。「おでんやをはじめなさい、当ること請合ひですよ、それとも待合の女中になるのですね、カフェーも中々好い」と。持金はだんだん減る。そこでわたしは決心した。「いよいよ一文なしになる日まで断然就職運動はすまい、食へなくなった日には、乞食になるか、それとも・・・・・。  (巣鴨の田舎女)


 第一号のプロフィールにそっていえば、父八木定義の胃癌看病のため帰郷し、小学校の教師をつとめながら両親の死を看取り、家を整理して上京した時期にあたります。八木秋子は当時29歳。帰郷する直前は、小川未明の紹介で童話雑誌社に入社し、亡くなる1年前の有島武郎から原稿を貰うなど女性編集者として活躍し始めたころです。うすぼんやりしていた光景が具体的な資料ではっきりと立ち上がってくる。こんな発見も、その後、頻繁におこる「謎解きの旅@八木秋子」の出発でした。先が見えないスリリングな旅であったからこそ、当時のわたしの好奇心をかきたててやまなかったのです。八木秋子は「ものがたり」を産む人物でした。いま、こうして、わたしにここで書かせているのも、八木秋子と言えるかも知れません。ならば、その時も今も、ゆらゆらと逍遙するばかりです。

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