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2006年08月25日

●第18夜 清沢洌と八木ふじ


■注釈:私の生きざま 常に私の戻るところ、負のバネ
 八木秋子個人通信「あるはなく」第1号
(1977年7月17日発行)

「世の中には誠に不思議なことがあるものだ。私はあなたによく似た人とアメリカのタコマで会ったことがある」清沢洌(きよし)は嘆息交じりで八木秋子に語りかけた、場所は横浜。母方の従兄の見舞に行った時のことだったと言います。

 ご承知のように清沢洌は後に『暗黒日記』【千夜千冊0648夜】の著者として知られ、戦時下において軍部・右翼に節を曲げず、言論一本で抵抗したリベラリストであり、著名な外交評論家です。秋子によく似た女性とは、姉ふじのことでしょう。彼女がその地のセントジョセフス病院でなくなった事実は、秋子の戸籍に記載され、彼女の遺品もタコマから届けられています。しかし、秋子の記憶は曖昧だったので、洌とふじとの接触は確認できず、その話を聞いた時点ではよくわかりませんでした。その後、清沢洌が安曇野・穂高の研成義塾の出身であることを知り、何か関連のものが残っているかもしれないと井口喜源冶記念館を訪ね、ようやくふじのアメリカでの痕跡を見つけることができたのが、秋子がなくなった翌年、1984年の8月のことでした。

 そして今夏、22年ぶりに記念館を訪ね、山崎文麿館長のご好意で展示資料をじっくり読み直し、新しい資料を発見することができました。

 研成義塾は人格教育の先駆者として知られている井口喜源冶が安曇野・穂高に作った私塾です。内村鑑三【千夜千冊0250夜】の無教会主義に賛同し、キリスト教の精神に基づいて1898年(明治31年)に設立した当時、井口は28歳。「彼は清貧に甘んじ、独力で34年間にわたり多くの子弟(入学者700余名)の教育」につとめました。卒業生にワシントン靴店の創業者東條たかし(舟につくりは壽)、清沢洌がおり、また彫刻家の荻原碌山が若い頃から私淑していたこともよく知られています。

■第18夜は八木秋子の姉「八木ふじ」を軸にして
注釈を試みたいと思います。
少し長くなりますが、おつきあい下さい。

 ふじは秋子より8歳年上の1987年(明治20年)8月3日生まれ。1909年(明治42年)にアメリカ太平洋の北西海岸の都市、シアトルへ向かい、北穂高村出身の清沢巳末衛(1984年2月14日生まれ)とともに雑貨商店の経営に精力をそそぎます。しかし、その無理がたたったのか、二度の入院生活を送ることとなり、1922年(大正11年)、ワシントン州タコマで35歳の若さで生涯を終えます。その年は秋子の離婚が成立し、父の定義が亡くなった年でした。

 島崎広助(藤村の兄、八木秋子の父定義の親友)は回想文集『閑窓漫録』の中で、八木ふじは「木曽の女にて異彩ある者」の一人。「福島町馬場の出身で士族の娘」「米国に在りて新聞記者たり、萬緑叢中紅一点とも言ふべきか」と書いています。この文集は1919年(大正8年)6月ごろの発行なので、現在わたしが知る限り、「ふじ」最後の情報です。
 実は、ふじが結婚した相手の清沢巳末衛は清沢洌の従兄にあたります。しかも、洌を研成義塾に誘ったのは巳末衛でした。そして、洌も巳末衛に続いて1906年(明治39年)に16歳で渡米するので(もっとも洌は勉学の道を歩む意図でしたが)、新聞記者として亡くなったふじと、若くして北米西海岸のシアトルやタコマでジャーナリスト・評論家として名を馳せる清沢洌が当地で知り合っていたことはなんら不思議なことではありません。

ふじについて、もう少し詳しく触れてみます。

 ふじは1906年(明治39年)松本高等女学校を卒業。優秀な成績だったため学校長から高等師範への進学を勧められ、父もふじの進学希望をかなえるという感触を、実家で教師をしていた実姉から受けたため、いったん木曽に戻ります。しかし、母親やその周囲が女の進学に猛反対で、彼らが勝手に結婚話を進め、とうとう町の「富商」と結婚せざるを得なくなりました。その結婚にいたる過程は八木秋子著作集Ⅱ『夢の落ち葉を』のおしまいの方に書かれており、そこでは5ヶ月の結婚生活を経た後に離婚することになりますが、地元の研究者によると「ふじは結婚の翌朝、婚家を脱出、木曽川が福島町に北で浅瀬となる青木川原を徒渉して八木家に戻った」との証言を得たと書いています。いかにも秋子の姉らしい。当時秋子は11歳か12歳です。

 その後ふじは、高等師範への進学をあきらめ、木曽で代用教員を勤める2年間、内村鑑三の『聖書之研究』を取り寄せ、「内村の強烈な個性とその純粋な気魄に強く惹きつけられ熱い祈りを捧げて」いたというエピソードが『夢の落ち葉を』にありますが、13歳・14歳の秋子が直接受けた影響はいかばかりか。「あるはなく」1号に内村鑑三の訳詩をすらすらと引用したことからも、二人の強い繋がりを窺い知ることができます。

 1908年(明治41年)9月7日、ふじ(21)は在米の清沢巳末衛(24)と戸籍上で結婚し(米国における排日運動のため、労働者の自由渡航が禁止され、結婚が渡航の条件とされていた)、翌1909年にシアトルへ向かいました。1910年の年賀状が巳末衛との連名で井口喜源冶あてに出されているので、新生活が始まったと見ることができます。

 巳末衛は木曽福島の木曽山林学校出身。その同級で、後に銀座で「ワシントン靴店」を開業する東條は、自叙伝『春秋から』でその頃の様子を書いています。

 友人の清沢巳末衛君のほうは、木曽山林学校に在学中から知りあった仲の八木ふじという女性に恋されて、ついに結婚を決意した。あまり貯金もないのだが、日本からふじさんを呼び寄せてしまった。会ってみると、なかなかの美人で、また才女でもあったから、清沢君の決心も肯けた。だが、家庭を営むためには、経済力が充分ではない。夫婦とも働きで、やっと暮らしてゆくような状態で、このため清沢君多年の宿願であった身を立てるという初志も、はかなく散りうせた感が強い。


 巳末衛は木曽山林学校在学中、東穂高禁酒会を作り、積極的にキリスト信者として活動して1906年(明治39年)卒業と同時に渡米。当時からかなりラジカルな人物だったようです。八木家との関係は、ふじの次姉ミつは在学中の巳末衛を同じキリスト教徒として知っていた可能性はあります。というのも、ミつは木曽福島の小学校教員として勤務し、1903年10月には井口喜源治を木曽に招いて木曽福島教友会を設立しているからです。しかし、同じ年に松本高女を卒業したふじが、東条がいうように、木曽において未末衛をすでに知っていたかは疑問です。

 ところで、渡航後の巳末衛とふじ、および洌の動静は、シアトルで出された穂高倶楽部(穂高村・研成義塾出身者が中心)発行の『新故郷』第1号(1913年大正2年3月発行)「個人消息」の欄にこう記述されています。


・清沢巳末衛:昨年初春当市第一街2311番地を買い受け、ベルグロセリー雑貨店を開業せらる。活動を愛する君は昨秋更に同様の一商店シーダーグロセリーをシーダー街に開業せられ東條君を以て支配人とせられ勝運着々として隆盛に向ひつつ有るは慶賀の至りなり益々発展を望んで止まず。
・清沢夫人:巳末衛君御令室なり。名をふじ子と称し木曽八木家より嫁せらる。渡米後既に四星霜、賢明にして快活誠に女丈夫の名に恥じざるものあり。殊にクリスチャンの家に産まれ、夙に其の感化に浴せる丈け有りて淑徳の誉れ高し。内助の功亦空しからず、夫君を助けて終日店頭に立ち白人を対手に流暢なる英語を操りつつ商売のことに従はる同家将来の発展期して待つ可き也。
・清沢洌:当沿岸に於ける同胞中著名の文士なり。『信濃太郎』とは其の雅号なり。当地発行の北米時事タコマ支社主任として在勤2ヶ年君が振へるペンは蓋し当沿岸出色の大文字たりき。年尚春秋に富める少壮の君は万人をして其の有望なる未来に渇仰嘱目措く能はざらしめたり。誠に君の如きは天才の人と謂ふべきか其益々研鑽琢磨怠りなからむを望む。1月9日タコマ観光団と共に帰国せらる。


 その後の巳末衛とふじですが、1913年5月、本店の「ベル」商店が不幸にも火災となるものの、巳末衛は「蹉跌に遇うて頓挫せず勇奮邁進」して「ベル」を再興。事業をいっそう拡張し、「同胞雑貨店中有数の地歩を占め同組合の幹事」となっていると、1914年8月発行の『新故郷』に報じられています。しかしその一方、前年からの無理がたたったのか、ふじは5月、日本病院に入院し、巳末衛も暮れに過労のため入院しています。

 ふじと巳末衛の間に何があったのか。
 翌々年1916年(大正5年)3月5日付けで離婚届が北穂高村の役場に届きます(書類が日本に届くには1ヶ月半ほどかかるので、実際の届け出は1月頃だと推定)。そして、離婚の通知から間をおかず、3月10日シアトルで巳末衛は逝去。享年32歳。

 巳末衛の遺稿(1915年1月)は、すでに離婚を暗示する内容となっているので、おそらく二人の間に問題が生じたのは1914年の夏から冬にかけてのことだと思われます。その理由はわかりません。信仰上のこと、商売経営の方針をめぐってのこと、あるいは「男顔負けの働き」をしていた激務にふじの身体が耐えられなくなっていたのか。

 巳末衛の訃報と遺稿が掲載された『新故郷』第5号は、2年7ヶ月ぶりに1917年(大正6年)3月に発行され、50有余名の来会者がいた巳末衛の追悼会が報じられ、弟が店を引き継いでいる様子はうかがえますが、ふじの動静はまったく伝えられておりません。すでにシアトルを離れてタコマに行っていただろうと思われます。

 あるいは、離婚後ふじが新聞記者をしていたと島崎広助が書いていることから、ジャーナリストの道を歩み始めていたとも考えられます。洌は「北米時事」のタコマ支社主任でしたが、ふじが離婚するちょうどその頃、1914年(大正3年)10月にはサンフランシスコの「新世界」に転じているので、ふじの活動になんらかの便宜を図ったかもしれません。洌がタコマでふじに会ったというのですから接点はおそらくそのころと考えられます。これは「北米時事」など、当地の新聞からふじの形跡を探るしかないようです。

 そのふじも巳末衛の死の6年の後、1922年(大正11年)6月14日、タコマにて35歳の人生に幕を閉じます。死亡当時は「多根」ふじ。
 秋子は1918年(大正7年)に結婚、出産、子育ての3年間を経て、絶望的な結婚生活から逃れようと二度目の家出を敢行したのは1921年(大正10年)8月。ようやく離婚が成立した1922年(大正11年)、いったん上京して子供社へ勤めるものの父定義の胃癌看病のため4月帰郷し、7月15日に父をなくした半月後、8月にふじの訃報が届く。あれほどあこがれていた姉の、異郷の地での突然の死を、どんな思いで秋子は木曽で受け止めていたのでしょうか。

 ふじが渡米する際、木曽福島の城山へ登り、バイオリンで賛美歌を奏で、姉妹で歌って別れたと書いています。次姉ミつが若くして夫を亡くしたことへの悔やみ文でその際のことを描写しております。


★友を想う  清沢ふじ 『新故郷』(大正3年新年号)
 汽笛の声、我郷の静寂を破り、観楓の客足、我ふるさとの地を汚すに至りしといへども、しかも尚、をさななじみの山と川、忘れがたなきは彼の風情かな。
 寂しさはいつともわかぬ山里に
 尾花みだれて秋かぜぞ吹く
 とぞ、歌ひ給ひしそがふじにもまさりて、するどく静かに、囁き来る木曽の晩秋に、さてもさても、いかにしてかは友のまします。流れに紅葉の滴りて、夕日の淡く沈み行く時、名もなき花々道もせに咲きて、尾花をわたりて過ぐる秋風の香に、ああ!、君が心の痛みいかにして慰まん。
<中略>
 怨みと恋着の里、古き蘇郷の花に矛盾の袖を払ふて、永別の意を定め、アメリカの空に出で立たんとするの日、いとしき妹子二人われと共に、二つのバイオリン持ち手山に上り、別れの歌に三たりの声ふるへて、遂に泣きて地に伏し、三つの霊の別れて各々全からん事を祈り、行末共に語り合ひ、生別の悲しみひたすらに慰めつ、すみれ花咲く岩間のほとりに、そが一つを取りて、かたみの心われに与へぬ。
 以下、略


 さて、第18夜は八木秋子に影響を与えた人物として「八木ふじ」の生涯をたどってみました。離婚、渡米という行動が秋子に影響を与えたことは違いありません。しかし、ふじが触発されたと思われる井口喜源冶、内村鑑三に関して、ここで触れるにはなかなか難しそうです。たしかに、彼らの世界は惹きつけられるものがあり、数日、関係資料の森を彷徨いましたが、それらをまとめるには、時機を待つ必要がありそうです。ですから、ここでは、ざっくりと書くことにしました。

 1895年『代表的日本人』を書いた内村鑑三は、1901年9月、設立して3年目の井口喜源冶の研成義塾で講演し、後に『万朝報』で「入信日記」として7回連載します。無教会主義の実践として「余は小にして大なるこの義塾を信州の地において発見して心ひそかに信州万歳を絶叫せざるを得なかった。ああ、広き天下にこの小義塾に同情を寄するものは他にはあるまいか」と高く評価し、その後、3度も穂高を訪ねることになります。2年後の1903年、鑑三(42)は非戦論を唱え、幸徳秋水(32)や堺利彦(31)らと万朝社を退社。そして、1900年から始めた『聖書之研究』と共に研成義塾があったと見れば、彼にとって、研成義塾は実践の場として特別な意味を持っていたと思われます。
 
 その研成義塾は安曇野のちっぽけな義塾でしたが、「エライ人になるな、汝よき人になれ」と井口喜源冶は語り続けたと言います。1906年~1907年にピークを迎え、清沢巳末衛を始めとして北米に旅立った40~50名の若者たちにとり、教育者喜源治はたいへんな影響を与えました。彼らは「ピューリタン精神を移して精神的廃頽の彼の地の同胞の間に神の国を建てるという大望」があったと言ってますが、それは現実の前には厳しいものがあったに違いありません。しかしその勤勉と日々の倫理をモットーとする思想は、1905年(明治38年)に発表されたマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と符合するようにも思えます。岩波書店の創業者岩波茂雄が古本屋から出版業として独立しようとしたとき、井口の盟友である新宿中村屋の主人相馬愛蔵がさまざまなアドバイスを与えたというエピソードもありますが、キリスト教の倫理的側面がそこにも影響があったと言えます。巳末衛にも東条にもその考えは浸透しております。成長期にあった資本主義の精神を垣間見る思いがあると同時に、翻って100年後の現在の日本やアメリカの経済思想を考えざるを得ません。

 井口喜源冶からは盟友・中村屋の相馬愛蔵、黒光夫妻の周囲からひとつの世界が見えてきます。上京して名士訪問(先生:明治女学校の巌本善冶を何度も訪問)に同行した彫刻家の碌山。碌山と黒光。そして碌山の死を契機とした戸張孤雁の変貌、中村彝と黒光の娘俊子との関係、ロシアの盲目の詩人エロシェンコ、インドのラス・ビハリ・ボース、高村光太郎等々、新しい時代を生み出す熱気とそれに伴う何ともいえぬ「やるせなさ」が漂う世界が見えてきます。

 また、清沢洌『暗黒日記』を今年の夏に読み直したことも得がたいことでした。橋川文三は「この日記はただ戦争期におけるリベラリストの辛辣・精細な見聞記録というにとどまらず、人間の自己教育という一般的な視点から見て教えられるところの多い稀有の記録」であるといい、続けて、洌は「第1に正規の学校教育を通過しない独学者であったこと、第二に事業や学校づとめによらず、独立・自由な文筆家としてその生涯をつらぬいたこと、第三には、彼がその通算14年間にわたる外国生活を背景として、通常の日本人よりもはるかにゆたかな国際感覚を身につけていた」と評価しています。また、『暗黒日記』には、現在だからこそ引用したい、ピリッとした文章がいくつもありました。

 その清沢洌も「無名の大教育家-井口先生の生涯:わが少年時の記憶」と題し、「昭和4年3月にこの私塾が三十年の創立記念を行ったときに、当時のキリスト教会の大立者内村鑑三氏は、同氏としては類例のないほど礼讃の言葉をこの田舎教師に贈った。<江州小川村の中江藤樹先生は一人の世界的大教師であった。井口君と研成義塾とは、明治・大正の日本において教育上の一つの貴き、意味のある実験を試みました>と」書き、「私は井口先生によって、世の中には金や地位や名誉より、もっと大切なものがあることを知りました。それは信念です。私は過去に於て、また現在に於て、自身が考えて正しいと思うことを曲げたことのない一事は先生に申しあげることができます」と井口喜源冶への変わらぬ思いを綴っています『雄弁』1939年(昭和14年7月号)。「曲げないという信念」この言葉を心したいと思います。

 清沢は敗戦を目前に控えた1945年(昭和45年)5月21日、肺炎のため急逝。享年55歳。その死は多くのこころある人たちに惜しまれました。

 今回、井口喜源冶記念館で新しく知ったことですが、4年前、シアトルの米国牧師が記念館を訪れ、「穂高で培われた研成義塾の精神は米国でも確実に受け継がれ、一粒の麦が大きく実を結んでおり、多くの2世、3世が立派に活躍している」ことを伝え、地元・穂高の人々と交流したということです。
 なかでも、ゴードン平林らに脈々と流れる精神は、井口喜源冶が伝えようとしたことだろうと思いました。彼は、第2次世界大戦勃発時、米国政府による日系米国人の強制収容が違憲であるとして抵抗し逮捕されましたが、1983年に再審請求をして争い、1987年に連邦高裁で完全無罪となりました。ゴードン平林の父、平林俊吾は清沢巳末衛とたいへん親しい仲間で、穂高倶楽部をともに担っていました。ここでも歴史のリレーがなされているのだと言えるでしょう。

 第18夜の時代は、日露戦争・第1次ロシア革命から第1次世界大戦まで、木村熊二の小諸義塾を出た藤村が『破戒』『新生』を書いた頃にあたります。「八木ふじ」が渡米して亡くなるまでは、八木秋子にとって「幼年期から青春へ、そして結婚生活から一人再出発する」時期でもありますが、時代は熱く、せつなく燃えておりました。しかし、どうもあまりにも舞台が広がり過ぎたようです。ただし、とても大事な「物語」を覗いたように思います。そのような思いを残しながら、ここはひとまず幕を閉じ、第19夜は八木秋子の「あるはなく」に戻りたいと思います。

2006年08月10日

●第17夜 島崎藤村と八木秋子

■注釈:私の生きざま 常に私の戻るところ、負のバネ
 八木秋子個人通信「あるはなく」第1号(1977年7月17日発行)
  
 第16夜は八木秋子と島崎藤村の姪こま子との奇しき縁について触れました。

 その際紹介した東京新聞「こちら特捜部:ひそかに生涯を閉じた 島崎藤村『新生』の節子」の特集資料は、この「EDIT64」連載という機会がなければ再読しなかったでしょう。すっかり黄ばんだ状態で、仕舞い込んでいた古いファイルの中から見つかりましたが、それもそのはず、記事は1979年9月23日ですから今から27年前ということになります。その時は、八木秋子個人通信「あるはなく」第13号(1980・2・1)でほんの少し触れ、そのままファイルに入れてしまったのでした。

 ところが今回、第16夜を書いてしばらくすると、木曽谷特有の夏の深い緑の風景や妻篭のこま子のお墓がその後どうなったのか、気になってしかたがありません。新聞の切り抜きに「晩年のこま子」と「妻籠・光徳寺の旧本陣墓所に立てられた真新しいその墓標」の写真が大きく掲載されていたせいでしょうか。

 そこで、木曽谷を訪ねました。
 
 前回の墓参は没後10年の1993年ですから、13年ぶりです。八木秋子の墓は木曽福島・長福寺。初めて訪ねた23年前は、葬儀が行われた群馬から東京へ戻り、そのまま新宿から夜行列車で松本に着き、木曽に向かったのです。八木秋子の葬儀の翌朝、1983年5月2日でした。寺の裏手にある墓域には山吹が咲き乱れ、新緑がまぶしかったその時のことをこんなふうに書いています。

 
 ☆「あるはなく」馬頭星雲号1983年5月
 墓地のあちこちに咲いていた山吹を手折り、駅前で買った線香と著作集のパンフが灰になるまでそこにいた。静かな、さっぱりとした気持ちのよい朝だった。鶯など小鳥のさえずりが木曽川の川音と共に聞こえ、昨夜来の雨があがった土の上を蟻が動きまわっている。墓はコケムシてよいものだった。八木さんで八木家も最後。その意味でも八木さんは自分にかかわることは全て処理し終わったのだ。八木さんの骨はまだこちらには届いていないが、私は無性にその場所へ、意識せず、すうーと移動したかった。その点、酒はその役目を十分に果たした。途中、東京で飲んだ酒を醒まさぬよう、ウィスキーを飲みつづけ、ほとんど寝付けぬまま松本に着いたのは朝の4時。白々と明けつつある空は、雲が飛ぶように走り、湧き立つように乱れていた。
 初めての木曽は、『夢の落ち葉を』(註:八木秋子著作集Ⅱ)の冒頭に出てくる描写どおり<山は折り重なって窓に迫り、山また山、せまい空、山から空へ、山肌をはい登る霧>が迎えてくれた。松本からの列車でウトウトしてはっと気づくと、その風景が突然、窓外にあらわれた。驚きとともに胸にわきあがるものを禁じえなかった。嬉しかった。


 その日、わたしは民宿に泊り、「私は八木秋子を私の中で日本の近代史に刻み込み、位置を明確にしたいと思う気がする。プロテスタント史、自由民権史、アナーキズムと、日本近代を辺境からじっと見据えていた<負>の系譜の中で」と書いて「あるはなく」最終号としました。その後、秋子に関わる『パシナ』や『農村青年社事件・資料集』全3巻を発行してきましたが、今回の「注釈」のように、再び秋子との共同作業の「場」を振り返ることなく時を過ごしてきたのです。

 さて、今度の墓参ではどんな思いが湧いてくるのか、わたしは確かめようと思っていました。しかし、どうしたことか、さっぱりした気分があるばかりです。もちろん感慨はあります。この長福寺で追悼の集まりを戦前の同志だった方々と催したのは、なくなった1983年の秋。その時集った方々のうち現在も健在なのは、信州小諸で100歳を越えた南沢袈裟松さんただ一人。星野凖二、和佐田芳雄、山田彰、別所孝三、大島英三郎、安田理貴、向井孝さんはすでにそれぞれの生を終えていらっしゃる。お一人お一人への想いはたくさんありますが、今はそれにもまして、八木秋子を再び多くの人にリレーしていることがわたしにとって最上の喜びなので、さっぱりした気分なのだと自ら納得しているのだと思います。

 いつも途中経過報告。精一杯の力を尽くすこと、それを八木秋子に報告するのがわたしにとっての墓参なのです。ふと気がつけば、クロアゲハが舞う中、木曽川の川音は相変わらずでした。八木家の大きな墓石には一人一人の戒名があり、秋子は「秋峯理照大姉」と刻まれています。その前に佇み、この「注釈」を書くに至った奇縁というか、偶然を必然に転化してきた経緯をぼんやりと考えていました。

 一方、島崎こま子の墓は江戸時代の街並みをそのまま残している妻篭宿の光徳寺にあると新聞の記事は書いていましたが、本陣の墓から移動されていてわからず、とうとうお寺の方にうかがってようやく見つけました。人が「花にたとえれば桔梗に似ている」と言う好ましい文字で、「島崎こま子の墓」と刻まれていました。折からの通り雨に墓石は濡れ、雨上がりの日差しにいっそう気品が顕われており、ああ、訪ねて良かったと思いました。激しく降った雨はたちまち上がり、木曾らしく、狭い空に向け、木曽川から急峻の頂きに一気に霧が立ち上っている風景は、初めて木曽谷を訪ねたときと同じく感動しました。ここでもクロアゲハが舞っていました。

 馬篭にある島崎藤村記念館も訪ねました。藤村の蔵書が整理されている建物でいくつかの発見がありました。それを今回はまとめたいと思います。

 ☆生涯にわたり李白、杜甫、芭蕉を傍らに置き、離さなかったこと。
 ☆「よのなかにまじらぬとにはあらねども ひとりあそびぞ われはまされる」という「良寛灯火読書自画像」があったこと。「これは本物でしょうか?」と記念館の関係者の方に聴くと、友人の画家、安田靭彦が所蔵するその作品を借り、複製を作り大事にしていたということ。
 ☆本居宣長、平田篤胤、夏目漱石の全集が並んでいるのは不思議ではありませんが、しかし、外国のものでは唯一『大トルストイ全集』と『クロポトキン全集』が書棚の中央にでんと構えていたこと。

 これらのことは、わたしにとって藤村をあらためて考えるきっかけになりました。帰ってから藤村全集を図書館から借り出し、いくつか気づいたことと秋子に関わることと結びつけてみました。

 実は、八木秋子が同棲していた同志であり、裁判保釈中の身であった宮崎晃の中国への脱出逃走資金を島崎藤村が出したということがあったのです。1927年(昭和2年)暮のことでした。1929年(昭和4年)4月に発表する『夜明け前』執筆準備に入っているころです。文豪がそんな危ない橋を渡るだろうかと思っていましたが、実際、藤村はその覚悟があったのでしょう。以下、そのことについて触れた古いアナキストの、敗戦直後の文章を紹介します。


〔藤村の社会思想〕  根岸 寛
                     『夕刊信州』1949(昭24)年10月26・27日

(1)島崎藤村は社会思想に対して、どんな見解をもっていた人であろうか。これは極めて興味のある問題であるが、それにも拘らず藤村研究の人々の中でも、あまりこの事は知られていないようである。もっとも私としても大言壮語出来るほど藤村の社会思想に対して知悉している訳ではなく、ただ自分が、氏と対談した折ふし、たまたま感得したその断片をわたくし流に解釈してここに略記して見ようと思うのである。

 近ごろでは文学と政治の関係が非常に重要になっているが、藤村の麻布飯倉片町時代、即ち今から24、5年前はなんといっても文学と思想の関係が重要視されていた。もとより現在の如く合法的に政治闘争に突入出来なかったころで、思想は結局思想以上に出でず、「重要視されていた」とはいっても「一部の傾向小説を書く人間の間に」と附記した方が適当なほど大方の作家は新興接客婦の女給が、エロサービスで藝者を駆逐し全盛を極めた事実に興味と関心を寄せていたころのことであるから、思想問題などは売れない作家のヒガミから出発したものぐらいにしか考えていなかったに違いない。

 丁度そのころ、藤村が「現代文学選集」で二万円ばかり印税が入った事を知ったので、当時アナーキズム団体の一員だった私は運動資金を提供してくれるよう頼みに行った。その時藤村は「あなた方の一派は、詩人的な一面があって私は好きだ」といい「あれば出し惜しみしないが」と中央公論を出して笑いながら創作欄を開いて示した。それには子供の四人に五千円ずつ印税を分け与えた「分配」という小説が載っていた。氏が、口先で利口に、上手に口実を設けて追い帰すような手を用いるほど世俗的な人でないことを私は何度か会ってよく知っていた。だから私も「それは手遅れでしたな」と気持ちよく笑った。すると藤村は「あなた方に資金を提供してあげても絶対に出所を口外しないので安心だ」と、あれば直ぐにも出しそうにいう。「絶対に口外しない」というのは、法律(即ち帝国主義の作った法律)を認めないアナーキスト達は、万一官憲の尋問にあっても、いささかも答える義務がないと堅く信じていることを指すのである。

 またある時、久原房之助邸焼打未遂事件で友人が未決にいたので、差し入れの書籍を寄附してくれるよう頼みに行ったことがあった。なにしろ十人近い入獄者、三百ページから五百ページの本を一日に一冊ずつ読んでしまうので、差し入れ本の収集に私は大変だった。
 なんでもそれは初冬のころだったと記憶する。出版社や著者から寄贈された本数冊を出してくれた上に氏は、綿のふくふく温かそうなどてらを奥から持参して「これは私のあわせを仕立て直した物ですよ。宮崎君に着せてやって下さい」こういって私の前へ押してよこした。藤村氏と宮崎君とは面識がなかった。もちろん、新聞紙上などでも焼打事件の主犯として報道されていたし、何かの機会に私の口から宮崎晃君の人格あるいは思想について語ったことがあったと思う。それにしても私は、藤村の気持がなへんにあるものか判断に苦しみ、まじまじと顔を見つめた。すると氏は、自分の気持を解説するためか、次のように語った。

(2)私はアナーキズムの中にヒューマニズムの哲学を感じるんですよ、そんな訳で働く人々の犠牲において初めて成り立つ資本家達に宮崎君が身をもって抗争する気持は私にはよく判ります。観点を全く異にするのだから、あの人達にどう嘆願したって通じないのは当然です。しかし、そう思いながらも何故だか私は無性にさびしくなるこの感傷を、あなたは笑うでしょうか。「それは理解と情熱の問題でしょう。」年の稚い私は、藤村が社会運動に対して情熱をもっと加えるべきだといわんばかりの暴言を平気で口にした。すると氏は苦笑して「当然生まれるべくして生まれたものに対して私は、理解も情熱もやぶさかにするものではありません。ただ私は、私の性格がこの運動に(何主義を問わず)参与致し兼ねることを知っています。とはいえ、あなた方の後姿を、見失わないよう絶えず努力する考えで居ります。」としんみり語ったのを私は今に忘れない。

「後姿を見失わないよう」これは私達だけにいった言葉ではあるまい。思想が出来て社会が変革されるのか、過渡期の中から思想がわき上がってくるのか区別がつかないほど思想はデリケートなものである。その一つ一つに絶間なき凝視の眼を向け、絶えざる精進を続けていた藤村が、一アナーキズムに対してさえこのような理解を持っていたことは、左翼作家は別として、当時の文壇としてはまことにまれな存在であったといってよい。

 私は当時自分の抱懐する思想に哲学的裏付をする為、思想家はもとより、文壇関係の人々、たとえば内田魯庵氏、坪内逍遥博士、佐藤春夫氏、久保田萬太郎、さては画壇の中川紀元氏など、いわゆる名家のたれにでも批判を求めたものだった。その中でも芥川竜之介氏などは、同じ田端に住んでいた関係上、時々押しかけては例の二階の部屋で激論まで闘わした。然し藤村の場合は、余り自己の見解を述べたがらない方であったが、その日に限ってどうした事だか既述のような意見を述べたのは珍しい出来事だと思った。のみならずこの日は「自由の意義」に就いて語ったり「絶対アナルシーは社会主義運動の一題目ではなくて、すでに宗教の分野ではないかと自分は考える」などと言ったりした。―だいたい藤村から受け取った「思想への見解」はこの程度のものであるが、それでも当時の官憲がこの事実を探知したら、有力たるシンパサイザーとして氏を検挙したに違いない。私としても藤村の信頼を裏切らないよう、先生は故人となり、世の中が自由主義的に変った初めてここに発表するのである。   
                        (筆者は上伊那箕輪町)

◆根岸寛:大正末期「黒き群社」創設。月刊『黒き群』・啓蒙パンフ『黒き群』発行。東京市外滝の川下田畑に社をおく。のち、昭和2年2月、社会評論社と改めた。

◆久原房之助邸焼討未遂事件:1926年(大正15年)10月7日、日立製作所亀戸工場におけるストライキを応援したアナキストの黒色青年連盟員は、社長の久原房之助に面会を求めたが拒絶され、宮崎を中心としたものが玄関先に火を放ったため、逮捕。宮崎は翌1927年(昭和2年)1月29日保釈。5月23日1審判決懲役5年。同年9月12日2審判決懲役3年、宮崎即時上告、保釈継続。

 「アナキストは詩人の一面がある。絶対に口外しない。ヒューマニズムの哲学を感じる」という藤村の言葉はたんに挨拶程度ではなく、「絶対アナルシー」という言葉は絶対自由という概念に通じ、自由に対する藤村の思いがみてとれます。その意味で、この根岸の文章は藤村の考えを垣間見ることができると言えます。ただ、根岸は宮崎が未決で獄中にいた頃は差し入れ等で関係がありましたが、宮崎が保釈され、実践活動に入った後は、宮崎などとはまったく関係がなかった模様です。

 さて、第2審の判決を受けた宮崎は中国江湾の労働大学へ向け、日本を脱出しようとしていました。そして、1927年の暮、飯倉片町の藤村の家を訪ね、渡航滞在費の提供を依頼するのですが、これは前述の根岸のような日常生活における資金援助ではなく、今度は保釈中の人物の逃走費を出すというのですから、発覚すればただではすまなかったに違いありません。それを藤村は実行したというわけです。

 宮崎は藤村からの資金援助について1977年ごろこう書いています。

■宮崎晃
「藤村を訪ねたのは、ボク個人について言えば、2、3度くらいではなかったかと思う。最後に訪ねたときに限り招じられて書斎にあがり、カネの都合をたのんだところ、5分間位じっとうつむいて考えていたが、「よし、逃がしてあげよう」と答えた。そう言ってどこからか200円出してきて渡してくれた」。『農村青年社事件・資料集Ⅲ』農村青年社運動史刊行会編集、黒色戦線社刊行。

 宮崎に資金を都合した藤村は当時55歳。父正樹が亡くなった年齢になっていました。そして、翌年、1928年(昭和3年)は『夜明け前』の執筆準備のため木曽・馬篭などへ出かけています。藤村が明治維新とは何であったかを問う、その心情が宮崎への資金カンパをもって少し垣間見ることができるように思います。

 ちなみにその頃宮崎と同棲をしていた秋子は、東京日日新聞記者として藤村を何度か訪ね、当然、親しく話していたでしょうし、逃走資金の依頼などよほどの信頼関係がなければならず、宮崎を藤村に紹介したのは秋子であっただろうと思います。

 しかし、その10年後の1937年1月11日号外を藤村はどんな思いで読んだのでしょうか。号外は「黒色テロの大陰謀、信州を中心に武装蜂起、無政府農村青年社事件」(検事によって捏造された治安維持法事件)と、八木秋子と宮崎晃がその首謀者として大きく写真入りで報道されました。その当時藤村は、日本ペンクラブ初代会長として国際ペンクラブ大会(ブエノスアイレス)に出席し、欧米をまわって1月23日に神戸に帰国したところでした。もちろん、宮崎らは藤村のことを話すわけがありませんが、そういった信義がその当時にはあったことを記憶したいと思います。

 馬篭の藤村記念館に残された蔵書の中に『クロポトキン全集』があったことから、思いのほか長い注釈になってしまいました。秋子の父、八木定義が藤村の次兄広助と無二の親友だったとか、藤村の家を訪ねたということは秋子の口から聞いてはいたものの、情報を重ねていくとさまざまなことが立ち上がって来ました。

 島崎正樹の碑があるという馬篭の氏神「諏訪神社」を訪ねたとき、鳥居の奥から立ち去りがたい気配を感じ、思わず引き込まれて境内に立ち入りましたが、そこは奇妙な空間で不思議な気配が漂っていました。帰ってから調べてみると「心騒ぐ日、王政復古の日」にあの諏訪神社に参詣する半蔵の姿が『夜明け前』に印象的に描かれているとありました。あの神社のあの場所に正樹がいたというのは全く納得がいくことでしたが、しかし、その時は全く結びつきませんでした。やはり現地に行って体験するものだと、今回つくづく感じ入りました。

 この注釈を書いてきて思うことは、秋子が「ものがたり」を作り出す人物だとは思ってきましたが、「一即多」、秋子の世界から藤村の世界へ、そしてもっと歴史を遡ることができる方法があるのだ、と確認しました。たとえば古武士の風貌が浮かぶ秋子の父、八木定義は1853年黒船来航の年に生まれ、王政復古は15歳です。島崎正樹は1831年生まれ。八木秋子や島崎藤村を通じて「正樹や定義」らの世界をわたしたちはかろうじてリレーされているのではないかと信じます。そこを心したいと思います。

 松岡正剛さんは千夜千冊『夜明け前』でこうまとめています。「ぼくは20世紀を不満をもって終えようとしている。とくに日本の20世紀について、誰も何にも議論しないですまそうとしていることに、ひどく疑問をもっている。われわれこそ、真の「夜明け前」にいるのではないか、そんな怒りのようなものさえこみあげるのだ」。また、NHK人間講座「おもかげの国 うつろいの国」でも「藤村は王政復古を選んだ歴史の本質とは何なのか」を問うたと書いています。

藤村はなくなる前年1942年(昭和17年)に『東方の門』執筆に着手しますが、1月14日の雑記帳に次ぎのようなメモを残していました。

★雑記帳『藤村全集・第14巻』より。
1、古代
景考、応神朝のこと
秦代の没落と日本への移住者
朝鮮関係

1、中世
奈良朝にさかのぼる
○鑑真の来朝
○雪舟の渡明
○道元、法念、等

明代の没落とその影響(吾国に)

○朱舜水
○鄭成功

1、近代
○白石、宣長
○柏莚

○シイボルト
○禅僧教導
○平田篤胤、本居大平

1、明治維新以後
○桃林
○国学者の没落
○天心
○隠れたる近代の探究者

 千夜千冊469夜石原道博『朱舜水』974夜近松門左衛門『近松浄瑠璃集』鄭成功です。990夜以降の水戸イデオロギーなどの連打を思い出します。おそらく、これは『東方の門』の執筆メモだと思われますが、先の松岡さんの著作や連塾や千夜千冊のなどで聞き知ったことと、この藤村の構想を重ねて考えてみたいと思っている、2006年の夏です。

第18夜は、秋子の姉、八木ふじを通じて、秋子と清沢巳末衛、清沢洌、井口喜源冶、内村鑑三との繋がりをまとめたいと思います。
                                                   


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