●第20夜 小川未明と大杉栄、そして八木秋子
春三月 縊り残され 花に舞う
1911年(明治44年)3月、大杉栄は同志との茶話会でこの句を詠みました。その2ヶ月前、幸徳秋水、管野すが、古河力作ら多くの同志が大逆事件によって絞首刑にされたのです。その大杉も12年後の1923年(大正12年)9月16日、関東大震災が起きてから16日の後、伊藤野枝(28)、甥の橘宗一少年(8)とともに軍部憲兵によって虐殺されます。
9月というとやはり、これらのことを思い出さざるを得ません。
第20夜は引き続き小川未明を軸にして注釈を加えたいと思います。まず、想像していた以上に深いところで響きあっていた大杉栄との交感について触れ、ついで、関東大震災における八木秋子と未明との思わぬ縁についての一文を紹介したいと思います。なお、できれば第19夜から連続して読んでいただけるとわかりやすいかも知れません。
大逆事件で幸徳秋水らが処刑された翌年、大杉栄や荒畑寒村たちは「近代思想」を発行しました。第19夜の末尾に書いたように、大杉は未明のことを「頗る真面目なしかし激越な、心の底から湧いて出るやうな感情の声を聞いて、ちょっと寒村を思い出した。相馬(御風)も『いや、全くそうですよ』と同感してゐた」と書いています(「近代思想」1913年大正2年9月号)。大杉が「激越な、心の底から湧いてくるような感情の声」と人を評する(讃える)のは珍しいことだとわたしは思います。
大杉とそのような出会いをした未明は、彼からクロポトキンを紹介されて感銘を受け、その人道主義が自分の生来の特質と共通するものとして、徹底して墨守します。
晩年の未明は大杉のことをこんなふうに語っています。
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★大杉栄氏と知り合ったのは、大正2年、二女の鈴江が生まれたころのことです。大杉君は私が「早稲田文学」(注:原文ママ)に書いた作品を「近代思想」誌上で批評し、また私の家へ遊びに来てくれたこともあります。初めはクロポトキンの崇拝者で、アナーキストだったのですが、私の考え方も、社会機構の改革によって社会をよくするよりも、まず人間の人格を尊重し、理解してゆくほうがよいという、空想的社会主義者だったわけですから、大杉君のサンジカリズムとかアナーキズムのほうに、合うものを感じました。それで大杉君の影響を受けて、クロポトキンのものを読み、前にトルストイを読んだ時と同じように、非常に温かいものを感じました。人道主義にうたれたのです。
有島武郎氏とは、そう親しく交際したわけではありませんでしたけれども、数回会ったところでは、非常にまじめな方だったと思います。自分が金持であることに安んじていられない、思想的に大きな悩みを持っていた方でしょう。私はあの人が単に情事だけで死なれたわけではないと思っております。
こうして私は社会問題を深く考えるようになり、大正9年、日本社会主義同盟の発起に参加しました。愛国者であり、社会主義の大嫌いな父は、驚いて東京へやって来ました。そこで私は、謙信が信玄に塩を贈ったのは、正義のことであり、真理に殉じたことではないか、勤労者がいくら働いても貧乏に苦しみ、金持が遊んでいても、のんきに暮らせる、これは真理にそむくことであり、これを改めることこそ正義だと思う、と申しました。父も「そう言えば判るな。正義のために、筆を執れ。」と言って帰ったので、私もたいへん安心いたしました。
「童話を作って五十年」(小川未明童話集16巻78年2月)
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晩年になっても、50年前の「クロポトキンとの出会い」に関し、大杉への恩義を持ち出す愚直な未明にわたしは好感を持ちました。とても好いですね。また、大杉の話に続いてなぜ有島武郎が連想されたか、説明はありませんが、秋子が1921年(大正10年)に家出の決意を固めようとするとき有島を訪ねます、そのことは第21夜に掲載しますが、なんだかとても暗示的な、奇妙な符号を感じます。
ところで、1920年(大正9年)の日本社会主義同盟の発起人に、文学者としてはただ独り参加した未明ですが、まさにその頃、秋子は未明を訪ね始めます。未明の年譜によると「1920年(大正9年)1月に未明の一家はスペイン風邪にかかり、重体になり、伊豆山で静養」とあります。秋子に聞いたところ、その記憶はないというので、おそらく静養から戻った後の未明を訪ねるようになったのではないかと考えられます。
前にも書きましたが、未明はこの年の前後1919年(大正8年)~1921年(大正10年)にかけて「牛女・金の輪・野ばら・赤いろうそくと人魚」など、後に代表作といわれる作品を発表しています。秋子が彼を訪ねて家出を決断する時期とぴったり重なっています。それは偶然かどうか、人の「気合」は共振するとわたしは考えていますので、未明の何かを秋子は感受したのかも知れません。
さて、ここで第19夜の年譜に「◇大杉栄と伊藤野枝」を加えて、明治時代とそれ以降の節目みたいなこの時期を見たいと思います。
◆小川未明年譜
1918(大正7年)36歳
このころ牛込天神町に居住。春、長女晴代、開放性結核に感染、看護の甲斐なく11月4日12歳で死去。貧困時代を共に過ごした二児を失って、悲しみ骨に徹し、はなはだしく鞭打たれる。7月、鈴木三重吉「赤い鳥」を創刊し、童話雑誌の創刊もあいつぎ、未明も童話の作品がようやく多くなる。また、この年、未明を中心にしていた文学青年の集い「青鳥会」が分裂、解散したが、その分裂した一つが雑誌「黒煙」を創刊。雑誌名は未明が命名。「黒煙」が大正9年2月廃刊になったが、その後に起ったプロレタリア文学の先駆をなした。
☆八木秋子結婚。島崎藤村「新生」発表。米騒動。シベリア出兵(~22)。大戦終結、ドイツ、オーストリア、ハンガリー革命。11月島村抱月死去。三ヶ月後の翌年1月、松井須磨子自殺。◇大杉栄(33)、それまでの神近市子らとの4角関係を清算し、野枝と住む。前年暮より、労働者の町亀戸に移り、野枝と『文明批評』や『労働新聞』などを創刊し、和田久太郎、久板卯之助らととも労働運動に乗り出す。大阪で米騒動に加わる。
1919(大正8年)37歳
著作家組合会員となり、大庭柯公、堺利彦、長谷川如是閑、有島武郎らと知り合う。新しく創刊された児童雑誌「おとぎの世界」をしばらく主宰し「牛女」「金の輪」などを書く。
☆コミンテルン結成。3・1運動(ソウルで独立宣言)、5・4運動(中国で排日デモ)。ガンジーの反英運動。望月桂(32)黒耀会結成。◇大杉栄、サンジカリズム運動の集団「北風会」を拠点にして活動を始める。野枝、久太郎、近藤憲二らと『労働運動』を創刊、白紙主義を掲げて本格的に活躍し始める。
1920(大正9年)38歳
1月、一家親子4人流感(スペイン風邪)にかかり、重体におちいる。その不幸を見舞われ、文壇諸家より「十六人集」(新潮社版)がおくられ、病後伊豆山で静養。12月、堺利彦、山川均らの提唱するすべての社会主義者を包容する一大思想団体の日本社会主義同盟の発起に参加。
☆黒耀会、初のプロレタリア美術展開催。八木秋子は未明を知り、家出する翌年の5月まで頻繁に通う。新青年ブーム、菊池寛ブーム。森戸事件、サンジカリズム高揚。◇大杉栄、クロポトキンの紹介などジャーナリズムでもおおいに活躍。野枝との共著もでる。第1回メーデー開催、幸徳秋水が獄中で脱稿した『基督抹殺論』の印税の一部が資金。日本社会主義同盟の発起人となる。コミンテルン主催の「極東社会主義者会議」に危険を冒して上海に密航。コミンテルンの紐付き援助を拒否。、
1921(大正10年)39歳
2月、三男英二出生。未明童話の代表作の一つといわれる「赤い蝋燭と人魚」を「東京朝日新聞」(2月16日~20日)に書く。4月、暁民会講演会にエロシェンコと出席。6月「港についた黒んぼ」を「童話」に発表。未明、11月「火を点ず」を「種蒔く人」に発表。
☆各国に共産党結成。クロンシュッタット水兵蜂起。4月21日、伊藤野枝、山川菊枝、堺真柄ら、赤瀾会を結成。第2回メーデーの日、5月2日八木秋子第1回の家出。8月11日に第2回の家出。「種蒔く人」(プロレタリア文学の先駆)創刊。野口雨情の「十五夜お月さん」刊行。アナ・ボル論争。◇大杉栄、一時アナ・ボル協同戦線も模索するが、ロシアの状況を見て、ロシア革命批判を明確にする。第3次『労働運動』創刊、ボルシェビキ批判。アナ・ボル論争。
1922(大正11年) 40歳
☆2月、八木秋子上京し、未明の紹介で「子供社」に入社。有島武郎の担当となり原稿「ぼくの帽子の話」を受け取る。しかし父定義に胃がんが発見され看病のため帰郷。八木秋子2月に「婦人の解放」を「種蒔く人」に発表。処女作。6月、姉ふじ死去。7月父定義死去。秋子そのまま郷里で教師に(2年後上京)。◇大杉栄(37)、八幡製鉄所ストライキ第2周年記念演説会で演説。全国労働組合総連合創立大会支援。ベルリンで開催される国際アナキスト大会出席にため、山鹿泰治の協力得て日本脱出、フランスへ。
1923(大正12年) 41歳
6月、有島武郎、片上伸、嶋中雄三ほか「種蒔き社」などの発起で「三人の会」(中村吉蔵、秋田雨雀、小川未明)が開かれ、未明の「野薔薇」が朗読された。9月1日、小石川雑司が谷の家で関東大震災に遭う。
☆6月9日、有島武郎、波多野秋子と心中。◇大杉栄、5月パリのメーデー集会で演説、逮捕。フランス追放。7月帰国。全国的な自由連合組織結成に動く。8月長男、ネストル産まれる。
9月1日朝鮮人暴動の流言広がり、朝鮮人・中国人ら数千人殺される。南葛労働会の河合義虎・純労働者組合の平沢計七ら、および中国人社会運動家王希天も軍隊に殺される。16日、大杉栄(38)、伊藤野枝(28)、橘宗一少年(6・大杉の妹あやめの一子)、憲兵大尉甘粕正彦らに拉致され、扼殺される。
秋子は置いてきた息子が被災していないか心配で上京。小川未明の家も見舞いに訪ね、心配している春日山の父母に無事であるとの伝言を依頼され、届ける。
このように見ると、八木秋子が結婚した1918年(大正7年)から家出をする1921年(大正10年)までは、4年にわたる第1次世界大戦の終結、大正デモクラシー、ロシア革命を牽制するシベリア出兵、米騒動。そして、「自由」を求める労働者、学生、知識人らの大きなうねりや「婦人の解放がなければ真の解放はあり得ない。婦人が地球上の最後の奴隷である」といった婦人としての自覚的な自立を目指す「大正という時代の風」が吹き、秋子はそれを受けていたのだと思います。あるいは、大きく語れば、近代の節目であったのではないかとも感じております。
さて、年譜でわかるように、秋子は家出した後、離婚が成立します。いったん上京したものの父定義の胃癌発病がわかり、看病のため木曽へ戻り、関東大震災の年は、故郷で教師になっています。未明との関わりもこれで立ち消えたかと思いましたが、ところが、そうではなかったのでした。
未明の次女岡上鈴江の『父小川未明』に八木秋子のことが書かれていたのです。長い引用になりますが、関東大震災時の未明と秋子の動静がここで知ることができますので、お読み下さい。
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地震と火災で一夜をあかして翌日になると、鮮人が蜂起し、井戸に毒物を投入して歩いているといううわさが広まり、大都会は全く理性を失い、異常な緊張につつまれていった。自分たちの身辺を守る自警団が地域地域に組まれたが、そのなかにはともすると血気にはやり、一歩あやまれば自分たちの方がモッブ化するようなものもあった。
そんな中で、社会主義者として常々にらまれていた父は、身辺に危険を感じたのである。……(中略)……
一家で押しかけたのに坪田さん(注:児童作家の坪田譲治)は快く迎えて下さったと、母はあとあとまでこの時のことを思いだして感謝していた。
3,4日お世話になったのであろうか、ふたたび乳母車をひいてわが家へ帰る途中、せまい裏通りで、2,30人の鮮人が二列になって何処かへひきつれられていくのにすれちがった時の、子どもながら胸にこみあげてきた疑惑と怒りと同情の入りまじった、形容しがたいショックを、私は一生忘れまい。
それから間もないある日の夕方、何気なく玄関からおもての方をながめていた私は、酒屋と里いも畑の間の路地に一台の人力車が入ってくるのをみた。車上をみると、白髪の祖父がのっているではないか。
「あっ、春日山のおじいさん!」
私が叫ぶと、父と母はおどろいてころげるように玄関にとびだしてきた。
「お、おじいさん、なんできたんだね」
父は感動しながらも、不安と困惑の感情のいりまじった表情で車からおりた75歳の老父をだきかかえた。
「なんできたって、健、おまえたちのことが心配だったからじゃ」
祖父はそういうと、疲れた表情をさとられまいとするように、はっはっはっと笑った。
「無事だって知らせたじゃないか。八木さんがいっただろう。出てこんでもいいのに」
そういう父は、全く駄々ッ子にみえた。
八木さんとは当時父のもとに出入りをしていた女性で、家庭的にも親しくしていた人だが、震災で焼けだされたため(注:秋子は木曽で教師をしていた)、一時長野県の故郷に帰っていった。そのいとま乞いにきた時、父が一刻も早く自分たちの無事を春日山の両親に伝えたがっているのをみて、
「先生、私が春日山に立ちよっておつたえします」
と、約束してくださったのである。
祖父と八木さんはゆきちがいになったのだろうか、その時間的関係は私にはわからないが、とにかく、祖父は、「そのお年で今、東京へいったら、どうなります、おやめになったほうがいい」と、村の人たちや役場の人などがこぞって反対するのも聞きいれず、上野行きの汽車にのってしまったのであった。汽車はものすごく混雑していたが、とにかく赤羽の手前まできた。
「ところが汽車は鉄橋がこわれていてわたれず、みんな徒歩でわたったんじゃ」
と祖父にいわれて、父と母はどきんとさせられた。
けれど、とにかく祖父は無事で家につき、元気な私たちをみて胸をなで下ろしている。
ところが、この時父の胸中には反対に、まだまだ混乱がつづく中でどうしてこの年老いた父を安全に故郷に送りかえそうかという心配がうずまいていたのであろう。
祖父を送りだして唯ひとり山にのこった祖母は、息子たちの無事を念じつつ、心をしずめるために神社の境内で一心に草とりをしていた。すると、ひとりのみなれない中年の婦人が近よってきて、東京の人たちが無事だということを伝えてくれたという。
祖母は思わず泥だらけの手でその人の手をにぎりしめ、おどるような足どりで家に案内したということである。
祖父をむかえて平和だった9月中旬のある晩、父のところにみなれぬ男がふたり、つれだってたずねてきた。母はその人たちを二階に通したが、なにかわるい予感がしたのか、不安そうな顔で客に出すお茶をいれていた。
「おとうさんの身辺に危険を感じていたから、来客にはなんとなく気をつけていたんだよ。その晩たずねてきた人は、ふたりともはじめての人だった。ぴんと姿勢の正しい人たちだったから、軍服を背広に着かえてきたんじゃないのかねえ。
二階でおとうさんと暫く話しているうちに、そのうちのひとりが、相棒の顔をちらとみて、『まあいいでしょう』というと、相手がこくんとうなずいたそうだよ。なんのことかわからず、おとうさんが妙な顔をされると、ふたりは間もなく引きあげていったそうだ。後でわかったんだけれど、それは大杉栄さんを殺した甘粕大尉の部下らしい、ということだった」
その後、二階の話のようすをうかがうように階段の下に、不安げな顔をして立っていた母の姿が、今も目に浮かぶのである。
とにかく、あの当時のなんとなく不安な緊張した空気は、子どもながら敏感に肌に感じていた。
だから、たまたま、学校の帰りみちなどで新聞社の赤い旗をたてた自動車がフルスピードでわが家の方向へ走っていくのをみたりすると、「もしや、おとうさんが・・・」と、不安におそわれるのであった。
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秋子に上京した理由を尋ねたところ、東京に残してきた子どものことが気になったのだと言っていました。それにしても、このように思わぬ所で彼女が登場してくる。やはり不思議な「ものがたり」を持っている人物だと思わざるを得ません。
長く引用してしまいましたが、朝鮮人が連行されていく場面の記述など、さすが父未明の心境を代弁するかのようでした。そして、やはり未明にも大杉と同様、軍部憲兵と思われる人物が訪ねてきたと書かれていました。
未明と大杉たち、そして秋子が交差した関東大震災。これは忘れがたい出来事として銘記したいと思います。
ところで、大杉栄の虐殺にはいまでも不明な点が多くあります。震災の翌日から「朝鮮人・主義者による放火・暴動」との情報が流れ、多数の朝鮮人が殺され、亀戸における河合善虎・平沢計七ら組合活動家たちの虐殺、中国人指導者であった王希天の刺殺事件、そして、甘粕正彦憲兵大尉らによると言われている大杉らの虐殺にいたる過程では、軍部・警察の様々な思惑による行動と情報の操作があったと見ることができると思われます。しかも、震災から16日も経ってからの虐殺には意図があるに違いありません。震災当日の内相は水野錬太郎、警視総監は赤池濃、東京の軍組織を統括する東京衛戍司令官代理だった第1師団長は石光真臣、甘粕は朝鮮憲兵司令部で石光司令官の副官、いずれも朝鮮独立運動に対処した前歴を持っています。また、震災当時、警視庁官房主事は正力松太郎でした(彼はその後、虎ノ門事件で懲戒免官され、その翌年読売新聞に乗り込んで社長となる)。以上のような状況は何を意味しているのか。戦前からアナキストとして活躍した鄭哲は「幸徳や大杉たちアナキストは、朝鮮の問題とセットになって殺された。幸徳は日韓併合、大杉は震災の大虐殺のすり替えのためだ」とよく語っていました。しかし、その点についてこれ以上深入りする所ではないので、これくらいにします。
さて、第20夜において、わたしは未明が大杉栄と直接響き合っていたことを確かめることができ、納得しました。
しかし、やはり9月は苦の月。大杉や野枝のことを考えました。特に秋子が家出をする大正10年ごろ、大杉栄や野枝たち、その周辺にいた人たちが、幸徳秋水以来の日本のアナーキズムが持っている心情をどう感受していたか、たとえば、小川未明はどうか、野口雨情はどうか、竹久夢二はどうか、島崎藤村はどうか、清沢洌はどうか、有島武郎はどうか。この注釈はそこを考えるよいきっかけとなっています。
そのことを報告して、2006年9月を送ります。






