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2006年12月21日

第25夜 パサージュと侠

  
 八木秋子の「注釈」を始めておよそ一年。
 新月と十六夜に掲載しておりますが、わたしにとってはこのペースが合っているようです。

 第25夜は、「あるはなく」第2号(1977年)に掲載した、編集人としてのわたしの文章を載せます。そして、八木秋子がなくなって2年後の1985年に、第1号発行当時を振り返った文章を加えます。渦中にいた時は夢中でしたから当然ですが、およそ10年後に書いた文章も事情の説明にはなっているけど、いま一つぴったりしないという思いがしていました。ところが、この注釈を書く動機となった「パサージュ」という言葉に出会った時、八木秋子はここから考えることが出来るような気がして現在に至っています(第1夜)。
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★パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である。境界をまたぐことである。ベンヤミンはパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事(Werk)にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものだ。しかし「本」とは本来はそういうものなのである。
千夜千冊0908『パサージュ論』ヴァルター・ベンヤミン(全5巻)
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 おそらく、その頃のわたしと八木秋子が共有した空間を言葉で表せば、ここで語られている「パサージュ」をかなり意識していたような気がします。それは「自在」であったり「自侠」という言葉も引き連れている世界です。著作集Ⅲを『異境への往還から』とし、帯文を「さらばわれ、わが生涯を不安と迷いに貫かん」とした理由もそこにあると、いま思います。


 帯の文は八木秋子の「独り居日記」から採ったものですが、まさにその八木秋子の日記自体が「日常への異常な興味」を書いたものでした。そして、いつも自己否定し「変わらなければ、変わらなければ」と言いつづけてわたしたちを刺激し、未完の作品を書き続けた八木秋子の時間はいいつも「通過点」であったと言えます。そして、「本になろうとしている過程そのもの」だったと思います。

 では、わたしのその折々の「八木秋子との関わり」に触れた文章です。お読みください。


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★協力者の一人として  相京範昭
(「あるはなく」第2号1977/9)

 私は八木あきさんをアナキズム運動上の活動家として知っていた。農村青年社運動の中心人物であり、「女人芸術」「婦人戦線」らで高群逸枝らと共に活躍していた等だった。 だが、その限りにおいては、特別興味を引くこともなかった。ところが、実際お会いして、その生活を真の当りにし、また話される言葉の節々から感ずるその生き様なるものは、普通の俗にいう主義者のそれとは大変異質なものを感じた。それから繁く通うようになった。

 この2年間、何度か訪問するうち、その話される言葉に込められた表情というものは、どこか醒めた視線を持っていることに気がついた。過去を美しく語るわけでもなく、また悔いるようでもない。<己れの足跡を消しつつ生きる>のではない。己れの足跡に一つ一つケジメをつけ、いまなお明確に刻印するかのように格闘している。その姿は、安易にスルリスルリと世を渡る術を拒否しており、その人達に向けた刃は一瞬も磨くことを怠らないかのようである。

 その毅然とした口調に「はっ」としたことは何度もあった。私に語ってくれた目は時には涙が浮かび、また鋭く光り、遠くを見詰めていた。時にいかんともしがたい運命に、だがそこでも自己を否定すべく問題を引き摺り続ける姿勢に、私は石原吉郎の<断念>という言葉を思い出した。しかし、彼女は83才である。その彼女が「ああ、私は変らなければ……」と発す言葉、その姿勢に、私は<自分の感受性くらい>自分で削いで行きたいという思いがする。
 
 この企画は八木さんの環境の激変から出発した。5月に私の家にみえて具体化し、とにかく出してみようということで進めてきた。通勤の途中や休日にお会いする程度では彼女の期待されることを完全に遂行することはできないのではないかという不安が残る。勿論いうまでもなく彼女の文章で全頁埋まることが理想ではあるが、4人の相部屋に置かれている環境ゆえ私が尋ねる形式でテープからそれを起こすことになった。

 「子供を置いて家を出たこと」に、なぜ焦点を絞ったか。それは表題にあるように、彼女のその後の行動や思考上で、常に立ち戻る処だと私が思ったからで、しかも重要なことはそれが彼女の行動のバネになっていることだった。別の見方でいえば、彼女のその意識を日本の革命運動が内包したところで展開されなかったということが、今まさに私達の課題となっているといえる。1950年に竹内好は「日本共産党批判」で次のようにいっている。

「思想は生活から出て、生活を越えたところに独立性を保って成り立つものであろう。ところが日本では、生活の次元に止まる未萌芽の思想と、まだ生活に媒介されない、したがって生産性をもたない、外来の、カッコつきの思想があるばかりだ。」

 私が彼女のアナキズム運動上のことか.ら出発せずに、私の独善で彼女の個的な体験からこの通信を出発したのは、真の思想とは何か、ということを彼女を通じて確めたかったからかも知れない。しかし、私の力不足のため、もっと深く広い八木秋子を紙面で暴れさすことができなかった。その意味でも、今後これを読まれた方々の「八木への手紙」載せていき、それに応ずる形で補っていきたいので是非お手紙をいただきたい。勿論、彼女に関する「想い出、感想」、他編集上のことなども、どうか<通信>の意味を理解して、一方通行にならぬよう参加していただきたい。第1号に私が連絡先になっている理由、そしてこの通信の形式など一言あるべきだったのですが、編集上割合しました。その為戸惑った方がおられるかと思います。それは、彼女の所では前述の環境の為事務的なことができないので私が代わりにやるということです。彼女との交通は責任を持ってします。

 また1号発行後、皆様から賛助金を載きました。予約も含まれておると思いますが、勝手ながら5号分まで受け付けます。それ以上の金額は賛助金としてプールさせていただきます。9月7旧現在25、500円、支出は印刷費17、000円、発送費2、240円でした。収支は毎号この欄で報告いたします。なお友人達の印刷所でこの通信が制作され、その多大な協力で産まれたことをこの欄を通じて感謝します。以後不定期かも知れませんが、一応2、3ケ月に1回発行のペースで続けて行きたいと思っております。どうか御協力をお願いいたします。     送料とも150円


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★あるがままと<負> -八木秋子の「子捨て」をめぐって-
          「パシナⅢ」1985 秋号 より一部引用

 目の前の人に何かある。言葉の端に残るものがある。そう感じたとしても、強引に話を聞き出すことは間違っている。まして、その不透明な部分を勝手につなぐことはもっと許されない。
 他人に語ることなく、じっと胸の底に沈めていたものを口にすることは勇気がいる。形づくられて安定している秩序を乱すからだ。歩み始めなければ新しい何かが生まれぬと判かっていても、傷は残る。不安である。不安ではあるが、いまを脱皮できるなら希望もあるということだ。不安と希望、動いているものにまとわりつく矛盾。
 
 さらけだすことによって生ずる傷が自然治癒するには時間が必要である。いや、単位としての時間ではない。長い時間のなかで考えてくれる人との信頼関係。大河の流れにゆだねる小舟のように、方向だけは間違いないという信頼関係。それが相互に補完しあう関係とは、もたれることではない。

 わたしは年を重ねた人たちから得がたいものとして<時間>の概念を得てきたように思う。「長い眼で物を、人を見よ、心を開いて見たものを一応天空になげろ」(あるはなく、第10号、転生記)

通信はなぜ始まったか

 八木秋子を初めて清瀬のアパートに訪ねたのは、1975年9月16日、つまり10年前だ。4畳半のアパートで扇風機が回転していたから暑かったのだろう。本棚に埴谷雄高、吉本隆明、竹内好の著作にまじって、内村剛介の『生き急ぐ』があった。翌年の2月だったか、一人で訪ねたとき、その本を借りた。シベリァでの収容所体験をつづったそれを読みたかったのも事実だが、彼女にはラーゲリーを連想させるものがあった。人を寄せつけない凍土、シベリア。ラーゲリーの体験を描いた香月泰男の「点呼」を、7年後、八木秋子が養育院を出るときに発行した『休刊号』の表紙に使ったのは理由がないわけではない。「点呼」は日本に戻れるという喜びの余り、列も乱れがちになる収容所での最後の点呼であった。
 
 八木秋子は迷っていた。閉ざした世界を語りたい、しかし、人に伝えられるか、それが表情と言葉に複雑に表われていた。

 しかし、皮肉なことに、八木秋子の老人ホーム入り、という彼女にとって、意にそぐわない出来事が、あるものを断念させ、表現することを決意させた。貧困をきわめながらも気ままな独り暮し。読書と物を書くことが自由に出来る環境から、一切の私物が制限される「前途に安全はあっても道のない老人の国」へ。


 通信『あるはなく』は私が書物や原稿のはしきれまで失って屍のような老人の姿を部屋の中に置いたとき、私の若い友が心に閃いた私のよみがえりの幻像であったかもしれない。老人の幸せとは何であろうか、私はそれをおもいつづけている。(八木秋子著作集『近代の〈負〉を背負う女』あとがき より)


 事実、老人ホーム入りを聞き、何か手伝うことはないかと、入院の数日前に訪ねたとき、雑然とした部屋の中で、独り呆然としている八木秋子がいた。

 人はたいしたことはやれないし、やれると思いあがってはいけない。想いだけが先行しすぎると、とかく、他人も自分も傷つく場合が多い。その時も老人ホーム入りについて、親族の方々との問題がありそうなので、わたしは何ら関わりを持とうとは思わなかった。手をさし伸べることが真のやさしさにならぬことがある。それよりむしろ、やれることだけを徹底的にやることが、わたしが信頼する八木秋子の「老人ホーム入り」に際してやれることだった。

 この時の気持をいま考えると、そのまま一人で暮し続けたり、どこかの家庭に引きとられたりしたなら、通信は発行されなかったろうと思う。それまでと同様、八木秋子との関係は続いたとしても、通信を発行するためのそれではなかったからである。だから、通信は「老人ホームに入っている八木秋子が表現する場」として成立した。

 「老人ホーム入り」という、彼女にとって不本意な、マイナスの方向へ事態が動いたから、一気にプラスにしようとするエネルギーが生まれたのである。その時、バネとなったのは、「表現したい」という欲求であった。それがなければ、やはり発行は不可能だった。

 しかし、改めていうまでもないが「八木秋子は信頼することができる」それは全ての前提条件であった。前にふれたように、なぜ、彼女を信頼したかという、自分の直覚を問うことが、あるいは、その後の作業のパトスになっているかも知れないが、一言でいうことは全く困難なことである。おおげさにいえば、自分を発見する作業、存在証明は、一つ一つ考えてゆかなければならない。

 なぜ子供のことから対話は始まったか

 通信発行に際し、契機となったことについてはもうふれた。では、なぜ「子捨て」から対話が始まったか、を考えてみたい。

 常に戻る原点であるということは、それが彼女をがんじがらめに縛っているということでもある。生まれた時代のせいもあるだろうし、キリスト教の影響、あるいは母親としての感情かも知れないが、わたしには過度に、自虐的に身を責めているように思えた。何度も繰り返される自問は、空まわりする。彼女はその呪縛から脱っしようとしていたが、飛び立とうとして翼を広げたとき、おそらく「子捨て」という冷厳な事実が頭をもたげ、梢然として翼を閉じていったのだろう。八木秋子の身にそくしていえば、何かを始めるには「子捨て」を避けて通るわけにはいかなかった。

 一方、わたしが八木秋子を清瀬のアパートに訪ね始めた頃、「子供のこと」は身に迫っていた切実な問題であった。「あるはなく、馬頭星雲号」で触れたから繰り返さないが、わたしは「生活」を始めようとしていた時期だった。

 長女が生まれたのは、初めて会った年の翌年7月だった。子供とは何だろう。もともと他人同士の男と女である夫婦では、ただいる、という関係が想定できても、子供は違う。人間の幼児は生物の中で一番弱い存在だから、大人が見放せばすぐ死んでしまう。ならば、いくつかの通過しなければならない儀礼を経るまで、子供は親の自由な生活時間を制限するのではないか。子供との距離をどうとったらよいか、そこを考えていた。家庭としての問題では主夫であるとか、主婦であるとかいっても、そこで問うていたのは親と子のことだった。

 八木秋子が何度となく繰り返した健一郎との対話、それとわたしの問いは重なることもあったのだろう。問うことは自分を整理することである。わたしにとって、産もうとする子供の問題は、動き出すためにどうしても通過しなければならなかった。つまり、互いに子供のことは動き出すために避けて通ることができない共通の課題だったのだ。手探りで進み始めるとき、頼りとする感覚は「見えない糸」にたとえられる。糸の両端に触れれば音信可能な回路がなりたつようなものがあって、それで相手を確認することができれば信頼がうまれる。言葉も「見えない糸」を探すための一っの伝達方法である。表情やら語調、目の動き、視線、それらへの直覚が全て総合されたうえで、わたしは八木秋子を信頼したのだと思う。八木秋子もわたしを信頼してくれた。
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■20年前と30年近い前の文章を読みましても、現在の自分とそれほど変わらない考え方をしています。おそらくわたしにとって、八木秋子という人物と連なって無我夢中・熱中したあの時間と空間感覚のまま現在を突っ走っているのかもしれません。ここで、わたしの心構えにぴったりの言葉を千夜千冊からまた一つ引用して、2006年最後の通過点としての「注釈八木秋子」をまとめます。
 「パサージュ」と同様、たいへん気に入っている言葉である「侠」です。この二つの言葉に出会えた2006年にわたしは感謝したいと思います。

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★千夜千冊1149夜『中国遊侠史』
 司馬遷は、遊侠はその行為が仮に社会の正義と一致しないばあいでも、言ったことは必ず守るし(守)、なそうとしたことをやり遂げる意志があって(破)、なにより自分の身を投げうつところに、「存と亡」の境目を奔走する爽快感のようなものがある(離)、と評価した。
 つまり挟み打ちではなく、連なっていく。それが侠なのだ。賊か侠は紙一重のところもあろう。けれども、その紙一重を超えていかないで、なんで人生、面白かろう!
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  ■ 愛侠としては まったく 異議ナシ です ■

2006年12月07日

●第24夜 八木秋子個人通信「あるはなく」第1号発行。その反響

 八木秋子通信「あるはなく」は1977年8月13日、老人ホーム養育院の4人の雑居部屋にいる本人のもとに届けられました。八木秋子の養育院での日記「転生記」には、それを何度も読み返し、次に何を書くかという構想に苦闘している状況が読みとれます。その際、力づけられたのは通信を読んだ人たちからの手紙でした。

 八木秋子は1959年の母子寮寮母時代からわたしが出会う寸前の1974年まで、「独り居の日記」を大学ノートにびっしり書き続けていました。読書ノートであったり、社会で起こった事件への感想、そして彫刻などへの深い関心がつづられていますが、特に日常生活の観察は詳細に記述されてあります。

 そして、いつも日記は「書きたいものがたくさんある、書かなければならない」という言葉で満ち溢れていました。何度も書き始め、大きな物語の序章のようなものが立ち上がってきますが、たいてい未完のまま終わっていました。その繰り返しなのでした。ですから著作集を作る際、書きかけの原稿用紙のいくつかをわたしが繋いでまとめる作業もせざるを得ないこともあったのです。

 通信の発行においては、八木秋子の<こだわり>を振り切り、強引に作品として形にしたところもありました。おそらく老人ホームという環境でなかったら、彼女の手元で延々と書き直されてしまい、未完のまま(それはそれで良いのですが)まとまった形になったかどうか、わかりません。こだわりを<断念>してもらうしかありませんでした。その時も思っていましたが、老人ホームの4人雑居部屋という<負>の環境が「あるはなく」を発行させたとも言えます。そういった意味でこの「あるはなく」は、彼女自身「転生記」で書いているように、初めて一つの仕事を成し遂げたもので、ひときわ感慨深かったと思われます。

 84歳という待ったなしの時間をかかえた八木秋子に対し、28歳のわたしに何ができるのか、<彼女の尊厳を損なわず押し進めるにはどうすればいいか、しかし時間は限られている>という状況のなかで、通信発行に向けて必死に疾走する数年間がこの時点から始まるのです。

 5年後の1982年『思想の科学』1月号に載った『八木秋子著作集・全3巻』の書評は、<「時」に踵をつかまえられながら>というタイトルでした。まさに、そのとおり、「あるはなく」全15号と著作集全3巻が発行されたのは、肉体の衰えや進行する精神のゆれに踵を捕らえられそうになりながら、かろうじて辿り着いた奇跡の出来事だったのです。

 その書評の一部を紹介したいと思います。
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■「時」に踵をつかまえられながら 1982年1月『思想の科学』 西川祐子
手づくり手わたしの通信から生まれた《八木秋子著作集》の短所は、通信と共に読まなければ著作集は説明不足でわかりにくいところである。著作集に前記の空白(相京註:著作集Ⅰ・Ⅱ・Ⅲの間にある空白)があるだけでなく、八木秋子の文章には自分にだけしかわからない表現も多い。だが編集人は事実をおぎなう他の解説をできるだけひかえ、その代わり著作集各巻の表題と表紙装丁にありたけの思い入れをこめている。著作集Ⅱ『夢の落葉を』だけは八木の物語の一つの題からとられているが、著作集Ⅰ『近代の〈負〉を背負う女』、著作集Ⅲ『異境への往還から』は編集人の命名であって、一語で八木秋子という的を射ようと狙いさだめた緊張と、それとは逆に読者にさまざまな解訳をゆるす余韻が同時に感じられる魅力ある題になっている。著作集Ⅲの表紙は画狂老人と落款をのこした北斎90歳の「雪中虎図」であり、虎とも蛇ともみえる怪獣は、現在86歳、すでに「時」に踵をつかまえられながらなお激しく身をよじって生きている八木秋子の姿とみえる。-------------------------------

 この書評を書いてくださった西川祐子さんは、「あるはなく」第1号を送ってただちに反応された方の一人でした。しかも、彼女と八木秋子にはその前史というべき関係がすでにあったのだと知りました。そこで、発刊直後の八木秋子日記「転生記」と西川さんの感想を続けますので、その臨場感を感じ取っていただきたいと思います。
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■八木秋子日記「転生記」
1977年8月15日
 一昨日、相京君が私のパンフレット、「あるはなく」が刷れて、30部程養育院へ届けて下さった。体裁はさながら教会の通信類と同じ。どんなに薄っぺらで、表紙もなく、奥付もない貧弱なパンフレットでも、これは最初から相京君が骨折って世に出して下さったもの。読んでみると、私の気になっていたテープの写しとしては断片的な、そして浮いている感じがわりに少なく、少し筆の走りが早いくらいなことでガマンてきる。私も養育院に入所してから、とにかくこれだけの仕事をなし得た、という感謝と満足が私を落ち着かせる。なかなかよい。
 9月1日 「あるはなく」は相京君が私の知人に何部づつか送ってくれて、その反響はたいしたことはないけれど、かなり明確な共感と、賛辞をもってよせられた人も多い。多いといったところで、根が少数の人々であるのだが、松本の渡辺映子さん、京都の西川祐子さん、『婦人戦線』で一緒だった大道寺房さん等である。

 西川さんは、相京君に宛てで(内容は私あてのもの)これまで私が書いた、「婦人戦線と高群逸枝」の永島暢子とのこと、私が過去に友捨てと子捨てで深刻な自己否定の結果、自己を捨てきったところに救われた、最も非政治的な女性と評価し、しかし子捨ては内容がちがう、とその私の自己否定を評価している。

 彼女は、かって、農青運動の頃の日本の社会状勢を反省し、今日何が満たされているか、何が少しでも救われているか、その不分明なところに仮の安定を感じている内心の恐しさを表白した。彼女は、かって私が婦人戦線に書いたファシズムの鳥瞰図-社会時評を高く評価し、私の図式の明晰さを認めている。そして、この小冊子「あるはなく」の発刊を喜んでどこまでも続けて欲しいと。この人の、「あるはなく」の次号からの期待にぜひ応えたい。

 さて、では今後の執筆の方針は、根幹はどこに置くべきか。子捨ての途中、親と子の再会まできてとまどっている私は、今後の執筆の方向を決めねばならぬ。ただ母と子の泪-子の死、人情といえばいえる後半について迷いかつ苦しんでいる理由だ。

 今からどんなことがあっても悲観することはない。どこまで書けるか書いてみよう。性に眼が届き、性を少しばかり覗きみたうえはためらわず書こう、書き続けよう。羞ずることはない、おそれることはない。どんな女でも子を生もうと思えば、子は簡単に妊れる。女である以上自然のことで可能だ。意志によらず、否定の理性によることもなく。

 八木秋子は生きている、まだ死なない。死んではいない。ここに生きているのだ。

 1977年9月X日
 こんどの「あるはなく」で私の肉体と霊魂の中に僅かに残されたエネルギ―があの短い一文の中に絞りつくされた感じ。この短文の続きについて相京君から示唆を受けた。あの子別れをもっと続けること、農村青年との当時の理解、共感、活動など。あの当時の農村の惨状は必要だ。しかし、それの詳述には私の知識蓄積ではとても不足なのだ。そして、実際問題としてあの1930年代のアナキズム運動をありのままに列記するには揮るところが多いのだ。運動と名づけられない揮るところの多いのも事実だ。

 とにかく、「あるはなく」を読みかえせばかえすほど、あれは八木の自己否定そのものだ。そして、どこにも理性や完結性のない、破滅への転落そのものである。情熱と瞬間しかない衝動そのものだ。子を捨てて後の生き方において、他人を説得できるような理性や指針となるものが根本的に欠けている。坂口安吾や太宰治のような旗色鮮明な没落や破滅はよほどの蓄積と混迷の上に立たなくては生まれない。私の「あるはなく」の出来はよほどの険しい断崖を跳び越えぬ限り、生と死を越えた、否死をみつめ、死を覚悟した上でないとその破滅に至りつけそうにない、と知るべきである。

 こう考えると、破滅の先にあるもの、現実畏怖、現実曝露の先きにあるものは性の再評価と性の再生でなければならぬ。性は人間にとって、殊に創作を志す者にとって避けて通れぬ人間性の昂揚であるといわねばならぬ。ことに、性は飛翔したことの経験のあるものにとって遂落の体験ともなり、そこから人間の自由が生まれる。自由は死より。死は復活を生み、その復活は絶望とともに美しく自然。死を眼前におくもの、見るものは何物よりも自由で、それゆえ美しい。

 「あるはなく」の構想が子との再会まできて行きづまり、苦しんでいたとき、「あるはなく」で知人の評価をうけたことが起死回生のバネとならんことを。否定と絶望から起きあがるバネとならんことを。

さて、「あるはなく」を書き、活字となったことが私の心の眼をひらいた。書くこと、書き進め、書き続けぬことは終焉を意味する。私は前途を顧慮することなく書きすすめよう。
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★西川祐子さんから寄せられた手紙。1977・8・22

 西川祐子(京都在)
 「あるはなく」第1号の「知れば知るほど、それ(困難さ)は魅力あるものとなり、生きる興味の素材となって、苦しみが新しい生活を発見して行ったようである。」という文章にとくにひかれました。困難が苦しみといわれるのでなく魅力(そのとおりであったろうと信じます)といわれるところに、通俗でない魂と、もっと底しれぬ、だからことばは届かないかもしれない魂の深淵を感じました。どうか通信が私たちにことばの橋をかけてくださるようおねがいいたします。
 秋山清の八木秋子論(相京註1)の題は、「己れの足跡を消しつつ生きる」でした。この文章が再録された記録「埋もれた女性アナキスト、高群逸枝と『婦人戦線』の人々」(相京註2)のなかに、「太平洋戦争下のアナキスト、八木秋子の場合」、があり、そこで八木秋子さんは、その秋山清の文章をさらに消しつくそうとするかのように、終戦時の満州における友捨ての話を語って自己否定をしていらっしゃいます。これを読んだとき、私は自己否定の徹底していることにうたれると同時に、「永島さんを一人おいてきたことで積極的に生きる意欲がなくなった。」とこだわる、こだわりの内容はこれだけ語られてもまだわからないと思いました。

 こんど子捨てを語られてすこしわかりました。子捨てと友捨てはちがうのではないでしょうか。女にとって幼い年齢の子どもは完全な他者ではない、子捨ては自己否定の一種で、八木秋子は自己否定においてはいつも捨身で勇猛果敢、それゆえに救われている。だがあのとき語られた友捨ては、他者(満鉄少女社員他、彼女の庇護のもとにあった人たち)を捨てられなかった結果として起っている。他人の人生や生活や生命や自由を素材にして作品をつくることが政治ののがれることのできない一面であるとしたら、八木秋子はもっとも政治的でない人で、その人がおそらくはそれゆえに、いつも政治に吸いよせられ、またときには友捨てのような主観的にみて、客観的にみてさえ苛酷な極限にさそいこまれるその悪夢も「魅力」のなかに数えられるのでしょうか。

 私は雑誌『婦人戦線』(昭5)を図書館でみつけて、そこではじめて八木秋子の文章を読みました。「調査欄・日本資本主義の鳥瞰」という文章は紡績業における合理化の動きを見ることにより、このとき(昭5)すでに満州事変、支那事変、.太平洋戦争さらには敗戦とその後までを正確に洞察、予言したものであり、読んだときのおどろきは忘れられません。この明晰さが、自身の予言どおりに終局へ向う時代の奔流から無事にはなれるのに役立つのでなく、合理主義も非合理主義も共に渦の破滅的な中心に吸いこまれる、ことを考えて、私にははじめて恐怖の実感がわきました。自分たちの問題と重ねますと、戦後民主主義世代に属して、いまその理念の変質を感じつつ、何を守りとおしたいのか、という肝心のものは少しも形にもことばにもならない。しかし相手はある、と確信するようになる。それは張子の虎的な安心して批判できる敵でなく、日常性そのものといったおそろしさであって、このおそろしさについてもっと知りたいです。
 1975年に、八木秋子さんから、「『婦人戦線』の全存在を知る上には当時1930年代の社会状況を知るべき」であるというお手紙をいただきました。1930年代の主な社会問題が整理してありました。以来、くりかえし読み、昭和5年と50年代とを重ねて、考えています。 1977・8・22  「あるはなく」第3号(77/11/20)
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■相京註1:婦人公論 己の足跡を消しつつ生きる昭和のアナキスト・八木秋子 1972年5月号
 この秋山清の文章について、「あるはなく」第2号(1977/9/20)でわたしは次のように反発している。「過去を美しく語るわけでもなく、また悔いるようでもない。〈己れの足跡を消しつつ生きる>のではない。己れの足跡に一つ一つケジメをつけ、いまなお明確に刻印するかのように格闘している。その姿は、安易にスルリスルリと世を渡る術を拒否しており、その人達に向けた刃は一瞬も磨くことを怠らないかのようである」

■相京註2:埋もれた女性アナキスト/高群逸枝と「婦人戦線」の人々/犬塚せつ子・城夏子・大道寺房・松本正枝・望月百合子・八木秋子1976年9月30日発行。
*目次
『婦人戦線』のひとびと 城夏子座談会。
『婦人戦線』同人のころ逸枝さんの印象 望月百合子
明るい肯定の人。高群逸枝 八木秋子
『婦人戦線』あの人この人 大道寺房
高群逸枝のある恋愛事件 松本正枝
高群逸枝の葉書 犬塚せつ子
己れの足跡を消しつつ生きる昭和のアナキスト・八木秋子 秋山清
『婦人戦線』総目次(昭和五年三月~六年六月)
『解放戦線』総目次(昭和五年十月~六年二月)
 付・回想談:大平洋戦争下のアナキスト八木秋子の場合
   「マルキスト永島暢子との思い出」
★この冊子は婦人公論の記者(当時)だった関陽子さんがまとめたもの。八木秋子の回想談:「マルキスト永島暢子との思い出」は満州時代のことが中心となっている。満州において永島の同僚だった人から関さんは永島の消息を聞かれ、親友の八木秋子にインタビューしたものだが、永島の痛ましい最後に触れていたため反響は大きかった。たとえば、岩織政美さん(永島の出身地青森県八戸の共産党市議)はその後、『永島暢子の生涯』1987『永島暢子著作集-批判を持つ愛の深さ』1994 をまとめ上げた。その出版記念会などでわたしは何度か八戸の岩織さんを訪ねて交遊を深めた。そして、1994年の9月、京都新聞で「おんなの50年<彼女は満州で死んだ>」として24回にわたって永島暢子が特集された際、名乗り出てこられた京都市内の読者こそ、実は関陽子さんに永島暢子の消息を訪ねた「同僚だった人物」という、これまた偶然で、不思議な「ものがたり」となった。


 その京都新聞での掲載にも協力してくださったのが、西川祐子さんでした。前に書いたように、「すでに<時>に踵をつかまえられながらなお激しく身をよじって生きている八木秋子」の通信発行に奔走していたわたしにとって、「子捨てと友捨て」についての西川さんの文章にとても励まされたことをいまでも鮮明に覚えています。それは八木秋子通信を継続することによって、戦争や戦後民主主義を考えるというテーマと併走していけるのだという道しるべをいただいたということです。 今回、京都在住の西川さんに「あるはなく」第1号を手にした29年前のことについてうかがってみました。

★西川祐子さん------------------------------------------------------
 八木秋子の個人通信が送られてきたことがわかったときには、心底からほっとし、うれしかった。わたしは、『思想』(岩波書店)の1975年3月号に「高群逸枝と『婦人戦線』」と題した論文を載せたところ、『婦人戦線』の同人の方々のご生存を教えられました。雑誌の主催者である高群逸枝がすでに亡くなっていたのと、『婦人戦線』が1930年―31年に発刊された戦前の雑誌であったため、戦後育ちのわたしは、同人の方々を歴史上の人物のように思ったのだと思います。不明を恥ずかしくおもい、さっそく同人の方々に抜き刷りをお送りしました。全員からご返事をいただきました。 どのお手紙も高群逸枝さんだけではない、私もあれからずっと生きてきて、今ここに居るよという内容のご返事でした。みなさんをお訪ねして、のちに「自立と孤独―『婦人戦線』の人びとをたずねて」(岩波講座『老い』)を書きました。ご返事の手紙のなかで、1マスに2字をつめこんだ400字詰め原稿用紙11枚の八木秋子の手紙がもっとも強烈でした。 この方は発信している、受信者を待っている、とすぐ思いました。でも飛んでゆきたいのに、私は当時、失職中であり、子どもたちもいて、東京は遠かったのです。八木さんからいただいた厚い封書を1年も机の上において眺めながらお返事を書くことができませんでした。そこに届いた八木秋子個人通信「あるはなく」第1号でした。
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 西川さんは、八木秋子著作集が完成した時も毎日新聞に「彼女はその後、未完の大作のあるべき読者にむかって、投稿とか長い手紙の形でメッセージを送りつづけた。虚空に消えそうであった発信を最後に受けとめたのが自分も悩みながらさまよい、アンテナを張っていた世代であったのは偶然ではない」と、わたしの気持ちを理解して書いてくださった(毎日新聞1981/7/1「八木秋子の軌跡・戦前戦後の思想風土に抗し続ける)。自分自身の顔も鏡を通してしか見えない人間にとっては、このような「他者という鏡」を通してはじめて自負が持てるのだと思います。

 先日西川さんが上京された際、上野の西洋美術館で開催されている「ベルギー王立美術館展」に誘われました。入り口のベンチに腰掛けていた待っていた西川さんは「相京さんに見せたい絵がある」とおっしゃった。それが「ブリューゲルの<イカロスの墜落>」でした。わたしは見たあとの感想として「墜落ではなく、別な世界への脱出とも見えますね」と言ったら微笑んでいた。

 そして、八木秋子の日記「1977年9月X日の末尾:飛翔と墜落」について、西川さんは今回、次のコメントも寄せてくださいました。

☆ブリューゲルの<イカロスの墜落>」に通じる墜落であり、「そこから自由が生まれる」という文章も暗示的ですね。「死を眼前におくもの、見るものは何物よりも自由で、それゆえ美しい」とは、これからの私のためにあるような気持ちがします。

 西川祐子さんの主な著作です。
 著書:『高群逸枝 森の家の巫女』(新潮社 1982、第三文明社 1990)、『花の妹 岸田俊子伝』(新潮社 1986)、『私語り 樋口一葉』(リブロポート 1992)、『住まいと家族をめぐる物語』(集英社新書 2004) 『近代国家と家族モデル』(吉川弘文館 2000)『借家と持ち家の文学史「私」のうつわの物語』(三省堂 1998)
 ・1937年、東京生まれ。京都育ち。現在、京都文教大学人間学部教授

 今回のコメントにも感謝したいと思います。八木秋子の言葉はまたリレーされ、未来に向かって開かれたからです。このように、「あるはなく」発行以来、西川さんからはいつも適切なメッセージが届きました。かつて安部公房は、石川淳への追悼に「相通ずるものは生来のアナーキストだったという点、潜水作業中の孤独な作家に石川さんは酸素を送りつづけてくれた」と書いていました。わたしにとっても西川さんから送られてくる酸素はそれこそ格別なものでした。

 これも八木秋子が繋いでくれた「えにし」だと思います。

 30年前のちょうど今ごろ、12月5日から連日、わたしは彼女のアパートを訪ねていました(第12夜)。部屋の真中に茫然と座っている八木秋子に力を尽くしたい、時代に筋を通した人に恩を返したい、そう考えたから、今ここで注釈を加えている「ものがたり」の全てが始まったのでした。
【千夜千冊:1149】【千夜千冊:0817】【千夜千冊:0736】


■参考
石川淳と「しのび別れる会」88年1月25日 千日谷会堂 「お別れの言葉」
★安部公房
「あらためて弔辞を述べるつもりはありません。弔辞というのは、ナメクジにかける塩のようなものにすぎない」「それは危険な、不穏なものを消してしまう呪文だからです。石川さんには危険で不穏な存在のままでいてほしい。文壇というムラ構造に異議申し立てを続け、潜水作業中の孤独な作家に酸素を送り続ける仕事を引き受けた石川さんに、なお休息は許されない。石川さんのポンプから送られてくる救命用酸素を待つものはいまなお後を絶たないのです。むろんぼく自身もそのひとりです」「石川さんとぼくとの間に現象的な共通項はないかも知れない。日本のボルヘスというべき石川さんの膨大な知識と教養を思えば、ぼくとは余りに違う。だが、より根本的なところでは、相通ずるものがあった。それは多分生来のアナーキストだったという点です。………あるべき表現、望むべき表現を<精神の運動>と言い切った石川さんは、孤独な深海作業者のための命綱であっただけでなく、自分自身も深海作業者だった」
★武満徹
「世界はさまざまの異なった考え方によって成り立ち、そして思想は他者を自覚することなしには生まれようもない。………先生のこの考えは若いころの、気負ったわたしに実に重く、意味深いものでした」


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