様々な制度や方法論が行き詰っている。やみくもに前に進んでいればそれなりにつじつまが合う時代は過ぎ去った。
時代は「編集」を求めている。
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B■原型(型にして見る) 原型・模型・適合・列挙・配置・意匠・装飾・図解 J■周期(リズムをつける) 周期・曲節
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G■模擬(測って調べる) 模擬・測度・強調・変容 △■編集思考素

2007年08月14日

●第36夜 転生記(1)

 30年前の1977年8月13日。八木秋子の手元に届けられた個人通信「あるはなく」第1号は、30数名に送られました。すると予想以上の反響があり、意を強くした彼女は、およそ1ヶ月の9月20日には「わが子との再会(第27夜)をまとめ、老人ホーム養育院での通信発行活動にわたしたちは、一層の力を注いでいくことを話し合いました(第29夜~第31夜。なお、注釈全体の構成は第28夜を参照)。

 そして彼女は、「わが子のこと」ともう一つ書きたかったこと「父・八木定義」の執筆に入ります。わたしは八木秋子の軌跡を辿るため、図書館や近代文学館などを訪ね、彼女の記憶の断片を元に著作を探し求め、第3号(11・20発行)に「八木秋子著作リスト」を報告しています。一方、彼女は「父・八木定義のこと」をまとめると同時に、読者の友人たちに「わたしの近況」として、老人ホームでの近況を描写して伝えました。
 その一文では、八木秋子の自負としての「覚悟と抵抗の姿勢」が読み取れます。しかし、実際の日常は「いつでも目覚めれば手近な所に読み差しの手慣れた書物があり、ノートがあった」孤独を愉しむ生活から一変した、多人数での共同生活からくる様々な軋轢もありました。
 
 そのような日常を八木秋子の日記「転生記」より伝えたいと思います。

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1978年2月2日
 事務所に行ってみると、あんた高井ますさんを知っていますか、という。あの高井さんがきのう病院で死んで、きょう午後1時から病院の霊安室で告別式があるから行ってはどうか、という。あの高井女史が。病院で……。とうとう逝ったか。わたしを徹底的にきらって、バカヤロ、チクショーと呼び続けた人。わたしはその人に対して一度も抵抗もせず、挑戦もしなかった。

 彼女がいよいよ荷物をまとめて出る矢先、わたしの古い洋装の余りが欲しい、というので、渡辺さんの遺品としていただいたスーツの古いのを出し、着せてみたところ、どこもピッタリと合ってスマートな姿になった。私には身幅も腰もせまく、着られないのだ。彼女の満足した顔、様子は実に喜びに満ちていた。そのほか夏のワンピース、うすものの上着など、私はその人の歓びにうたれて惜む気を忘れ、それらを贈った。みんながぞろぞろ集ってきて彼女のニュースタイルを祝福した。前夜は寝る前、彼女の首途を送るのに赤飯、まきずし、チキンのもも肉、アスパラガスなどのごちそうをはずんであげた。彼女は顔一杯の満足と喜びを満面に浮べて喜んだ。盛んな食欲を発揮して次々と平らげて喜びを隠そうとしなかった。

 私はそこで初めて気がついた。私が羨やましかったのだ。私のところへは絶えずいろいろな面会人の慰問があり、菓子、果物、衣類などの差し入れがある。彼女は心に深く羨望をもって私を見ていたのだ。彼女は持金がある様子で、時々立派なマフラーやスカートなどを買ってきて、広げて得意気にみせた。しかし、私に対してはいつも敵意を抱いていて、バカヤロー、チクショーを連発してやまなかった。近所の人達、ことに新入寮には男性-といってはどうかと思うが、おじいさん達は彼女を攻撃した。しかし私は彼女に何もいわなかった。怒る、あるいは抗議するのはあまりに馬鹿げている。私は黙殺することに決めた。それらのことが一層彼女の反感をそそったのかも知れない。

 部屋の中でも彼女は主権者であって、咳がひどいときは寝床をのべ、部屋の半分を占拠して、どんなに周囲が迷惑を感じようが、困ろうが、他人事で平気で通した。そのうち力のない咳が頻繁になり、牛乳、卵、果物など好きなものを買って食べた。好き嫌いが激しく、嫌いな食物など贈ってくれた人の見ている前で、庭の草木の上にぼんぼん投げて意に介しなかった。その咳は明らかに結核菌からくるものと想像されたが、事務所ではこれらの一切を知りながら放置していた。とうとう入院しろ、と事務所から命令が下った、彼女はこの命令を拒んだが駄目だった。

 お前が今後退院ということになってもこの部屋へは絶対に帰ることは許さんぞ、荷物なんて残っていても構わん、みんな放り出すからそのつもりでまとめて持っていけ、2度と帰らせないからな。寮長がそういって棚の上からダンボールの荷物をポンポン投げ下した。 午前9時、新入寮の玄関に彼女は一人立っていた。
 
 見送る顔といえぱ、部屋の人と私の2人だけ。「お世話になりましたねえ」と彼女は頬のげっそり削げた顔に笑いを浮べて私に手を差しのべた。私はその枝のように細い手を握った。「早く元気になって、おかえりなさい」私は淡々とした言い方だったが。ひとつの決心を肚のうちに秘めていた。自動車は走り去った。事務所のドアがあいて寮長の顔がのぞいた。いま高井さんが行きました。御心配かけました、と私はいう。「そう、いったか、ごくろうさん」と云った。

 高井さんは附属病院の結核病棟に入院した。結核病棟かどうか委しいことは知らないが11階の病室であると聞いた。玄関へ一緒に見送ったSさんがきて、「高井さんが病院の玄関のところに佇っていたよ、見つからないようにかくれて、そして飛んできた。」どうだった、やっぱり蒼い顔をしてた?「蒼いともなんとも生きてる顔じゃなかったね、見つかっては大変と、とたんに柱の陰に隠れたんだけどさ」といった。私のあげた揃いのスーツ、ぴったりと身体にあって、見違えるみたい、よく似合ったわよ、それだけに顔色の蒼さがいっそう……。とSさんは語った。

 彼女-高井さんの自ら語るところによると、彼女は新潟の農家の生まれである。近くの農家へ嫁いで一心に農で働き、農業で苦労した、子供はいなかった(真実は知らないが)。その農家の過労の生活が呪わしく、出奔して上京、上京してのちの彼女は女の職業というもの、あらゆるものを経験し、料理屋で働いたというのが大体の骨子であった。そのうち胸を犯され病院を転々とした後、この建物の中に放り込まれたというのであった。が、血縁者としては、本人の甥という50代の男、そしてその姉とも思える女の人が面会に来たことがあったくらいのものだった。

 彼女の告別式は病院地下にある霊安室だと事務所で聞いた。連れのSさんと連れだって私達2人は毛織りの服装にありふれた上っ張りを羽織った姿であった。世間ならば弔問客として小さくとも香典の包みを持つのが世間の礼儀であろうが、私達は2人とも手ぶらで地階への重々しい階段へ降りて行った。地階の一番奥まったあたりからほのかな線香の香りがうすく漂ってくる。室をいくつも通り抜けた奥に、天井も4囲の壁も白く塗られた白一色の霊安室があり、縁者の人々であろう7~8人の人々が並んでいた。

 どこの誰れの葬儀もそうであるように、正面は金襴めいた斎壇。壁の白い背景に2つの大きい花輪がどっしりと飾られてある。一つは大きい太字で都立養育院、もう一個の花輪は利用者一同、と記されてある。利用者、というのは現にここにいる我々のことで、収容者といえるであろう。利用者という言葉は、語感からもまた何とはなしの妙な現実感からも我々は親近感を持たないが、要するに葬儀のしきたりに従ってお前たちも死ねばここに移され、この形式に従って葬られることをすべて指し示したものであろう。

 納棺は正面にきらびやかに置かれてある。これから遺体となった仏は一から十まで養育院内のそれぞれの係りによっていつもの葬儀の仕来たりどおりに、形式どおり、習慣どおりに運ばれるであろう。すべて飾られたとおりに、そして寺の和尚の経文につれて、流れていくだけなのだ。私とSさんはろうそくの光りを縫ってお棺に近づいた。電灯の光りに映し出されたその顔は蒼く、黄色く光りの下に静まっている。

 「高井さん」とまずSさんが呼びかけた。
「あんたはこういう仏様になっちまったんだね、随分苦労したわけだったね。もう大丈夫、苦労ないよ、安心して遠い冥土へいらっしゃい、みんなあとからぞろぞついて行くよ。迷わずに行きなさいよ、安心で迷わずにまっすぐ行きなさい、なんにも思い残すことないからね。こんどは丈夫な人たちといっしょ。薬も何も心配ないよ。病気も何もないんだから、またいい家に生まれ変わってね、幸せな家に生れ変っておいでなさいよ。幸せになってね、随分苦労したわね。今度は楽な、たのしい家に生まれるんだよ。私なんかお珠数もお線香もろくに持っていないんだけれども、ごめんね」
 と時々喉を詰らせながら言い聞かせる、割りとよどみなくすらすら云う言葉には、哀しみも何の耳を傾むけるいとまもなさそうである。私達2人は合掌して瞑目した。そして、その一つの物質となった人の顔に告別した。告別にきた女性2人、黒い服装にお珠数を手にしている。男達はやはり黒い背広である。

 和尚のお経は喉に時々からまりながら、いとも退屈げにいとも物憂くげにどこまでも続いていく、私は同じくこの建物のこの室内で死ぬ自分を想像してみた。しかし、死、ということがはっきり描かれるだけで、別段の感情もない。この真白い地下の白い静寂の中での死、などというものは白一色の、光るものの中に静寂の一刻一刻がすぎていくだけで、何の感情も感傷といったものもありはしない。 利用者一同はこうして何人であろうがここに無意味に坐するだけだ、妙に悲嘆したり哀傷など装おうとしないだけに、いっそ単純にさばさばと過ぎていく一時である。造り出される悲しみでもなく、何も惜まない死であるのもよいものだと思われる。棺の蓋をする石の音が響く、別に魂を刺す音でもない。彼女の生前、いろいろ身辺の世話を担当してくれた寮母のYさんが端の椅子にかけていた。

 お棺は4・5人の男たちに担われ、別の裏口へ、そこの自動車に乗せられる、私は身すぼらしいが、私達2人が生活を、起居を共にしたという縁でこのお別れに列っしたことは、少なくともよいことだったと思った。病院の地下は私達の知らない出口がある。そこから男達の姿と共に消えた。

 私もSさんも何一つ持っては来なかったので、煙草もなく、まして食堂で飲みものをとるわけでもなく、そのまま地上に出てきた。S子はいう「八木さんは百まで生きるのよ、その時は私が告別式にくるからね、ごめん、ごめん」「百歳とは途方もない。本当はね、あんたのような用心深い体を大切にする人が永生きするのよ、ぜったいに私が先き」などとバカを云いながら病院の玄関に帰りつき、カラーテレビを眺めてよしなしごとを言いあつた。外は風で樹々が裸になってしなっている。2人は明々寮の玄関に辿りついた、そこに備えてあった清めの塩を少しつまんで身にふりかけ別れた。

2007年08月04日

●第35夜 「あるはなく」第3号 わたしの近況

 ここで、「あるはなく」第1号から翌年3月の第5号までの内容を書き出してみたいと思います。この時期は77年夏から78年の春3月にあたり、30数名宛ての通信ながらも、予想を上まわる反響に、わたしも八木秋子も興奮しつつ気を引き締め、彼女は執筆に力を入れ、わたしは八木秋子がかつて著わした作品収集のために奔走しています。第3号「八木秋子著作リスト」はその報告でした。

 八木秋子個人通信「あるはなく」第1号の発行日についてですが、実は奥付がないので発行日の記載はありません。わたしの家に外泊して最終的に原稿を確認した1977年7月17日に入稿して(おそらく7並びにしたかったのでしょう)8月10日に完成。13日に老人ホーム養育院八木秋子の手元へ届けました。発行日を入れることも忘れてしまうくらいの編集素人ぶりがここでも見られます。
 
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第1号(1977年7月17日発行)

 発刊にあたって
 私の生きざま
  常に私の戻るところ、負のバネ
   キリスト教の影響について
   直前で諦める事は無意味なこと
   セックスというのは大きいことだ
   飛び出たけどそれからがね……
   それぞれが生きるということ
   再び家出する
   衝動的な直観と偶然を信じて
   跳び越えたいけど"我"が

第2号(1977年9月20日発行)

 わが子との再会
 協力者の一人として        相京範昭

第3号(1977年11月20日発行)

 わたしの近況
 八木ノートより1
 父・八木定義のこと
 八木への通信       西川祐子(京都在)
 八木秋子著作リスト

第4号(1978年1月10日発行)

 独房
 薪の火を焚く

第5号(1978年3月10日発行)

 転生記(てんしょうき)
 父・八木定義のこと(2)
 八木への通信      相京
             <松本市・牛山>
             <小金井市・赤松>
             <厚木市・しのだ>
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 これが翌年3月までの発行内容です。八木秋子は「子ども・健一郎と父・八木定義」について書くことに執念を燃やし、書き下ろした「父・八木定義のこと」を3号と5号に掲載しましたが、それは未完のまま終わることとなりました。4号の「独房」はすでに原稿としてまとめてあったもの。これは1930年代に活動した農村青年社運動で逮捕された際、留置された信州篠ノ井警察署の独房で運動を振り返ったという内容で、それを父・定義との対話という設定で書いています。だいぶ前に書かれたもので、黄ばんだ原稿は糸で綴じられて大切に保管されていました。発表を待ち望んでいたものが時機を得て「あるはなく」4号という「場」に掲載されたのでした。これは書き下ろしを補充する意味で掲載しました。

 後に振りかえれば、通信の5号までが、体力気力ともに充実して最も執筆活動が旺盛だった時期でした。しかし、結局書き下ろしたものはこの3編ということになります。つまり老人ホームでの日記=転生記をのぞけば、今回掲載する「わたしの近況」は「発行にあたって」と「わが子との再会」とともに、貴重な文章と言えます。第34夜に書いたように、わたしは八木秋子の「覚悟と抵抗の姿勢」が明確に見える得難い文章となっていると思います。

 翌年4月、岡山の親戚を訪ねる八木秋子と同行した際、たまたま一人訪れた岡山美術館(林原美術館蔵)で『巌頭の鵜図』(北斎)と出会ったことは、わたしの人生にとって、絵画との出会いという意味で重要な意味を持っていました。そこに描かれていた「鵜」は、まことにその頃の八木秋子のイメージそのものでした。やや丸かがみの背から首はいったん下がり、しなやかな曲線を描いて再び地から「ぬぅっと」もたげて、そして、打ち寄せる波しぶきを全身にあびながらたじろぎもせず、厳頭で獲物を一瞬も逃さぬかのように、「氣」が全身に充ちている、ほれぼれする佳品でした。

 北斎の「鵜」を八木秋子に見立てる面白さを知ったわたしは、その後いろんな絵画と出会って触発連鎖していくのですが、まずは北斎でした。それ以降、北斎に関して発行された画集、カタログ、文献などを漁り、関連する展覧会には必ず行きましたし、各地にある、たとえば信州の小布施岩松院、別所温泉常楽寺、秩父の長泉院、木曽の小野の滝など、北斎の絵やゆかりの地を訪ねるようになったのです。そして、著作集の最後を飾るⅢ『異境への往還から』の表紙にこの「巌頭の鵜図」を、カバーには『雪中の虎』を目一杯に飾りました。やはり最晩年の肉筆画『富士越龍』を加えたこの3点が、わたしにとっての「北斎最高傑作」となっています。

 では、その八木秋子の得難い文章を掲載します。

★わたしの近況(「あるはなく」第3号 1977/11/20発行)
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 こう書き出しては見たものの、改めてじぶんについて生活のうごきとか、変化などについて外部の人びとに事あらためてお知らせするほどのことがあるかどうかーと戸惑いを感じる。老人ばかりの、それも何かの病気を抱えて朝晩の寝床のあげおろしや部屋の整頓などにも苦労している人びと、長年不自由な躰を物心両方面で痛めつけながらようやくここに辿りついた老人たちの、その視力のうすれた眼や、耳のとおくなったという事実、それから誰もが悩む腰から下の脚部の痛み、不自由さなど、殊に老人にとって頻繁になってくる排泄の脅威、など、悩みはつきない。

誰しもが悩むのは現実に「あたま」が呆けてくること。過去の回想だけに生きる、それが生活の全部といえる老人にとつて「忘却」というのは救いでもある筈なのだが、1室に3人、4人という雑居生活のなかでは、「救い」どころか混乱のもとになり、整頓の能力にからんで「所有」ということが意外に大きな問題に拡がって諍いのもとになることはいつものことだ。

 最初入所するとき、「一切の私物の持ち込みは最少限度」という鉄則があって、夜具蒲団、寝台、机、洋式・和式の家具調度類、洗濯機、冷蔵庫など生活必需品類は、みなそのときそれぞれに処分して、衣類(着がえの最少)とわずかな身のまわりのこまごました雑貨だけを持ってこの集団生活のなかにのりこんできたのであった。

 私は最初からこういう雑居生活の寮にはいる気はなく、生活保護法とは別種の「軽費老人ホーム」を志望してみずから養育院本院を訪ね、諒解を得たつもりだった。その科長殿の話では、現在その軽費老人ホームへの入寮希望者が多すぎて、2年ほど待機しなければならない。若しその上抽籤に外れたら、また待機、をくり返さなければならないがその間の生活維持をどうするか、それに、身許確実の保証人が必要で、病気した場合は保証人が引きとる義務がある、とのことであった。保証人を引きうける血縁者はあるし、その縁者が軽費老人ホームの場合、月々の捻出する費用(といっても月平均1万円~2万円)を出すから、と約束してむしろ軽費老人ホーム入りを勧めてくれたいきさつがあったので安心して志願したのであった。
 
 ところがこの血縁のつながりは脆くも崩れ、私の唯一の目ざす灯は当然のように消え去った。一口にいえば、血縁の者が将来保証人として負うべき義務、責任の重さについての理解の甘かったことを理由に、きっぱりと拒絶してきたからである。そのとき私はすでにいまの寮に入り、雑居生活の中のひとりとして生活していた。

 若しこれが生活といわれるものならば、83歳というじぶんの年齢もわきまえ、前途には老衰と死があるだけだと思う。その覚悟を肚に据えて、まだすべての終焉までにはいくばくかの時間的余裕もあろうし、わずかな能力の残滓も生活のなかに身をおいて老衰と退歩に抵抗する、抵抗を継続するその闘いの中に、現在の私の生命が光りを得て燃えることもあり得るにちがいない。ちがいないという楽観的な予測は、私が過去80余年に経験し、思考のなかで摂取し、生活の中で思索しつつ闘ってきた、その闘いの中で徐々に蓄積してきた現在の八木という存在を善かれ悪しかれ信ずるほかないと思う。

私は日常性にたいして如何にのんびりと楽観的であるか、日常の生活技術にいかに拙劣で理解がおそく、そのために無意味な誤解を招いたりする。それを私自身の資質のこととして反省し、反省から自虐に近い心理におちこんで悩んだ歴史のくりかえしともいえるかもしれない。が、現在ではその束縛というか、反省というものの自己閉鎖癖から少しづつ解放されつつある。これは私の現在の生活に、ほんとうに少しづつではあるが「慣れてきた」ことの証左であるかもしれないし、慣れ、からくる反射神経の鈍化ともいえよう。

だが、もっと大きな、もっと私自身の魂にまで鳴りひびき、重い瞼をあげて朝の清洌な光りを見たいという欲求が生まれつつあることの発見である。この発見はまだちいさく、季節はずれの狂い咲きを思わせる花のようではあるが、季節も肥料も栽培の手入れもなかばお構いなしに、私から生まれた変種の芽として愛して育てたい。

「あるはなく」の出生は、私じしんの何ものかを露呈し、善も悪も美も醜もあるがままに投げだして、知己友人の前に女性の一個の生き様として批判を乞いたい希いがあった。もう年月を経たいまとなっては引きかえす道程ではなく、やり直しのきく歴史の素材ではない。

 わたしがこの養老施設に身を沈めたのは一切の環境から離れて、孤独の境地に自分自身の存在を眺めたい、そこから長い年月の生存をたしかめたい、という希いもあった。が、ここへ移ってきたという事実は、老年の私にとってはまったく思いもかけない大きな断絶であり、突然変異ともいえる変化の大きさであった。長いあいだの木造アパートの独りぐらし、貧しく素朴で簡単な独り暮しの中で、静かな読書や思索の日々であった単調な日常性は、まことに意外な他者との生活体に代り、そして組織と機構という網の目にとりかこまれた中での単純な思考方法は、それを身につけていない者にとっては、まったく遠い異国の距離を思わせる。突然変異とも隔世遺伝現象ともいえるかもしれない。常識を越えた常識が支配している広大な近代的建築の一廓である。

いつでも眼ざめれば手近なところに読みさしの手なれた書物があり、ノートがあった、といったような些細な習慣がそんな微細なことに気づかせる。その長い日々の為すこともない長い時間-ことに三度の食事は広い食堂に整えられてアナウンスによって始まる。ニュームの食盆を抱えて順番を待つ列のなかに、最初わたしはソクラテスの顔を見いだし、またつぎのときにはルオー描くキリストのかおを発見したこともあった。境遇の激変した砂漠への彷徨という形容詞の中で、ものを書きたい衝動にうごかされ、変種の生長を覚悟の上で、これからあらゆる困難や支障と闘いながら、自由に奔放に書きつづけたい、それを一つの意志のもとにぜひ実現させたいと、知人の方々に表白したいと思う。

            1977・11・12

2007年08月01日

●第34夜 先達からの眼差し

 「パサージュ」と「アブダクション」。
 もう少しこの二つの言葉にこだわってみたいと思います。
 まず、千夜千冊からあらためて引用します。

■パサージュ
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★パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である。境界をまたぐことである。ベンヤミンはパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事(Werk)にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものだ。しかし「本」とは本来はそういうものなのである。
 ◇千夜千冊0908『パサージュ論』ヴァルター・ベンヤミン
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■アブダクション
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★パースは、すべての認知と認識のプロセスが相互に連携的で、総じて連合的で、すこぶる関係的であることに、すなわち【編集的である】ということに確信をもっていたのだった。
 このことをパースは思考における「シネキズム」(synechism 連続主義)ともよんだ。
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★パースのアブダクションは、帰納法をとりこんだ仮説形成型の推論の総体を示していった。与えられているものから与えられていないものに思考が進むのが推論であるのだが、アブダクションはそのプロセスを順逆両方に動きまわり、「本来はこのように与えられていた仮説があったのではないか」という方向を仮想的に樹立してしまうのだ。
 そのためパースは、アブダクションにはレトロダクション(遡及的推論)の特徴が濃くあらわれるというふうに見た。
 これはたんなる推論の理論ではあるまい。むしろ「発見のための推論」というべきだろう。実際にもパースはアブダクションこそが「発見の論理」ではないかとも考えた。ぼくがもっとはっきりさせるなら、アブダクションは【仮説の創発】なのである。
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★【新しい認識はアブダクションによってこそもたらされるという可能性】を示したのである。それならアブダクションとは総合的な【推感編集】なのだ。そしてそうだとすれば、演繹や帰納はそのアブダクションの出来映えをテストしている役目をはたしている助さんと格さんということなのだ。
 ◇千夜千冊1182『パース著作集』チャールズ・パース
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 この二つの言葉はわたしが八木秋子に出会い、そして通信の発行から著作集製作へと通過してきたことを振り返っているいま、気分良く納得融合できる言葉です。出会いから現在までの八木秋子との世界は「パサージュ」であり、彼女との関係は「アブダクション」の連鎖であったと思います。

 これまで書いてきたように、東京郊外のアパートに独り住む八木秋子(80)とわたし(26)の出会いにはそれぞれ理由がありました。全共闘運動の余燼の中にいたわたしの問いに対応する、彼女の毅然とした姿勢には感応するものがあり、「触発連鎖」の連続でした。そのころ、彼女の半生を詳しく知っていたわけではありませんが、まずは信頼し、その世界に関心をいだき、彼女の未知なる世界を発見したいと、個人通信発行に突き進んで行ったのでした。その際の心境は第33夜に書いたことにも理由を見つけることが出来そうですが、それとやや違った視点からの未発表メモが見つかったので、ぜひ掲載したいと思います。


■相京メモ(1983)
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八木秋子に係わって以来、ずっと続いていることなのだが、何か大きな力によって私が動いているような気がしてならない。その大きな力は、「宇宙意志」という言葉があるかどうか知らないが、宇宙線のように日々私たちの体を突き抜けているような気がしている。銀河だったか小宇宙だったか忘れたが、その周囲に膜がありその外から眺めると人間の細胞に似ていると聞いた時、「宇宙意志」は確かにあるに違いないと思った。

 波に身をまかせ、流れにさからわず、気をため、一気に駆ける。気配を感ずるというその皮膚感覚のようなものを、私がずっと小さいころから体験してきた気がする。記憶として確認できないころ大人が語りかけてきた言葉は、後に想像の世界で甦る。

 いつも意識していることだが、その時点で自分が考えていることは、70~80歳ぐらいの人からみてどうなのか、様々な人生を歩んできた人から見るとどうなのかと、その視線は意識している。彼らと対面する時、彼らはその体験の中から私<たち>の表情と心をたちまち読み取る。だからそのような人たちの前に出ると自然体で、ある一点に集中しないと嘘の上塗りをしてしまう。その人たちは全て哲学者である。特に、言葉にならない世界を沢山もっている人は、やさしくて、凛としている。怖いところだ。

 それまでに得た地位、知識が、どれだけその人の血となり肉となりえているか、どれだけ<気>となっているか、その全てを瞬時のうちにさらけ出す。私はそこの世界を基底に置こうとしてきた。それを強く意識することで自分の選択肢を決めてきた。

 言葉でものを表現するということを考える。どれだけその言葉に切実さがあり、身体に沁み込んでいるか、それがまた滲み出るように言葉となっているか、そこが問われるのだ。

 私はトタン板の上に砂があって、その上に裸足でのぼる感覚がたとえようもなく嫌だ。そういうリンチをされたらまずオシマイだな、と考えている。上京したてのころ、学生運動内でもつ言葉の世界がたまらなくいやだった。<知らない>ということを<知らない>と言わない空間だったように思う。連合赤軍の結末は充分すぎるほど感知されていた

 その頃、政治にほんの少し関わった時、自分は何か特別な人間で、たいそうなことをやれる人間であるかのように思い、突出することだけで人との差を見て、満足していた。その満足したという虚像が現実である実像を衝き、やりきれなさを感じ、学生をやめた。印刷所で働き始めても、無力感を隠蔽するかのように、逆に観念的、先鋭的言葉を使って消耗を繰り返していた。いっそう苛つくばかりだった。

 そんなある日、印刷所で仕事を終え、新宿の新田裏の交差点にやってきた時、電柱にその年の3月に新日本プロレスを旗上げしたアントニオ猪木とカールゴッチ戦のポスターが貼ってあった。歩きながら、ふと、そのポスターを見た瞬間、お前はただの印刷工じゃないか、それでいいじゃないか、たいしたことをやろうと思うからいけないんだ、と思った。その途端、気持ちがいっぺんに軽くなった。新しく旗上げすればいいじゃあないかということだ。村松友視の本を見たらそれは1972年の10月とある。夕日が照りつける中を、西口の菊屋でビールを飲もうか、などと思っていた。

 その気負っていた部分を意識できたことはよかった。その時その時を精一杯生きられたらそれでいいじゃないか、ということだった。だから八木秋子の文章の中でも通信第3号の文章が好きだ。

 『83歳というじぶんの年齢もわきまえ、前途には老衰と死があるだけだと思う。その覚悟を肚に据えて、まだすべての終焉までにはいくばくかの時間的余裕もあろうし、わずかな能力の残滓も生活のなかに身をおいて老衰と退歩に抵抗する、抵抗を継続するその闘いの中に、現在の私の命が光りを得て燃えることもあり得るにちがいない。ちがいないという楽観的な予測は、私が過去80年に経験し、思考の中で摂取し、生活の中で模索しつつ闘ってきた、その闘いのなかで徐々に蓄積してきた現在の八木という存在を善かれ悪しかれ信ずるほかないと思う』

 ここには、いろんな困難な状況に直面しながら、決断する場面において間違ってこなかった八木秋子の強い自負と責任のもちようが書かれている。組織や理論や時代のせいにせず、自分の所で処理している。わたしは八木秋子のこの文章に出会うために「在る」のだと思った。うれしかった。
   以上。
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 このメモにある個人通信「あるはなく」第3号「わたしの近況」全文は、次回に掲載する予定ですが、今回この一文を先んじて載せた理由は、「第33夜:アブダクション」に続き、当時の心境を書いた数少ない文章だったからです。八木秋子とのアブダクション=推感編集や通信や著作集の編集を生まれて初めて行っていたわたしにとって、「宇宙意思」や「先達からの眼差し」というこの二つの言葉が当時のわたしをどれほど支えていたか、30年後の現在から眺めると、そのことの重要性がはっきりとわかるからです。八木秋子との「パサージュとアブダクション」を支えた原点をみつけた思いです。

 ともあれ、1977年の夏から秋にかけては「あるはなく」の予想以上の反響に喜び(第29夜~第31夜)、「八木秋子」の位置づけを必死に考えていた時期だったので、「アブダクション」という言葉に感応し、その時の気持ちを2回にわたってまとめてみました。続く秋から翌年の春にかけて、彼女は「父・八木定義」の執筆に専念し、わたしは「八木秋子著作集」製作に向けて奔走することになります。その後は、通信・著作集の編集発行を進めつつ、彼女に襲ってくる老いと病への抵抗と折り合いをつけつつ、二人とも精一杯の4年間が始まるのでした。

■2007年7月28日、猪木と対戦した「プロレスの神様」ことカール・ゴッチの訃報が届いた。享年82歳。


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