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2007年09月27日

●第38夜 転生記(3)

 八木秋子通信「あるはなく」に連載した都立養育院での日記を、なぜ「転生記(てんしょうき)」と名付けたか、その理由を何度か聞かれたことがありました。実は、ちょうどそのころ出会った本、林竹二の『田中正造の生涯』に思うところがあったからでした。ここでは詳しく触れませんが、足尾鉱毒事件の田中正造は、最晩年に「思想的大変化=回心=自己否定」を行います。彼女の日記名を決める時、その「回心」から連想して浮かんできた言葉が「転生」だったのです。

 転生とは甦り。第36夜について、次のような感想をネットを通じての読者の方からいただきました。『八木さんの文章、世の中のたくさんの人に読ませたいと思いました。気負いがないのにこれだけ気迫が充ちる、とは・・。それが「老人ホーム発」という背景。そういう場にこういう言葉がしずかに、当たり前に、はっきりと在りうるんだということ・・』。このように彼女の声が新しい読者に伝わっている、この八木秋子の時を超えての多様な「甦り」をわたしは発行当初から願っていたのです。

 さて、今夜は「通信あるはなく」の発行に関わる転生記を一気に掲載しようと思います。長いです。1977年8月に第1号が出来上がり、翌年の3月に発行される第5号までの期間にあたりますが、第35夜で触れたように、この期間はわたしと八木秋子が最も頻繁に共同作業を進めた「熱っぽい雰囲気」に充ちた時期に当たります。第29夜~第31夜はその頂点というべき「対話」を掲載しました。そして、秋から春にかけて、八木秋子通信は読者の要望に応えて八木秋子著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』の刊行に向けて疾走したのでした。

では、お読みください。


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第1号(1977年7月17日発行)

 発刊にあたって  ★第13夜
 私の生きざま  
  常に私の戻るところ、負のバネ  
      ★第16・21・22夜
   キリスト教の影響について
   直前で諦める事は無意味なこと
   セックスというのは大きいことだ
   飛び出たけどそれからがね……
   それぞれが生きるということ
   再び家出する
   衝動的な直観と偶然を信じて
   跳び越えたいけど"我"が

第2号(1977年9月20日発行)

 わが子との再会  ★第27夜
 協力者の一人として 相京範昭  ★第25夜

第3号(1977年11月20日発行)

 わたしの近況  ★第35夜
 八木ノートより1 ★{割愛}
 父・八木定義のこと  ★{割愛}
 八木への通信  西川祐子  ★第24夜
 八木秋子著作リスト

第4号(1978年1月10日発行)

 独房  ★{割愛}
 薪の火を焚く  ★{割愛}

第5号(1978年3月10日発行)

 転生記(てんしょうき)
 父・八木定義のこと(2) ★{割愛}
 八木への通信      相京
             <松本市・牛山>
             <小金井市・赤松>
             <厚木市・しのだ>
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■八木秋子日記「転生記」 秋子(82)相京(28)

1977年8月15日
1昨日、相京君が私のパンフレット、「あるはなく」が刷れて、30部程養育院へ届けて下さった。体裁はさながら教会の通信類と同じ。どんなに薄っぺらで、表紙もなく、奥付もない貧弱なパンフレットでも、これは最初から相京君が骨折って世に出して下さったもの。読んでみると、私の気になっていたテープの写しとしては断片的な、そして浮いている感じがわりに少なく、少し筆の走りが早いくらいなことでガマンできる。私も養育院に入所してから、とにかくこれだけの仕事をなし得た、という感謝と満足が私を落ち着かせる。
 なかなかよい。

9月1日
 「あるはなく」は相京君が私の知人に何部づつか送ってくれて、その反響はたいしたことはないけれど、かなり明確な共感と、賛辞をもってよせられた人も多い。多いといったところで、根が少数の人々であるのだが、松本の渡辺映子さん、京都の西川祐子さん、『婦人戦線』で一緒だった大道寺房さん等である。西川さんは、相京君に宛て(内容は私あてのもので。註:第24夜)これまで私が書いた「婦人戦線と高群逸枝」に書いた永島暢子とのこと(註:八木の親友。敗戦直後に満州にて自死)、私が過去友捨てと子捨てで深刻な自己否定の結果、自己を捨てきったところに救われた最も純政治的な女性(註:これは八木秋子の誤解【原文:八木秋子はもっとも政治的でない人で】)―と評価し、しかし子捨ては内容がちがう、とその私の自己否定を評価している。彼女は、かって、農青運動の頃の日本の社会状勢を反省し、今日何が満たされているか、何が少しでも救われているか、その不分明なところに仮の安定を感じている内心の恐しさを表白した。彼女は、かって私が婦人戦線に書いたファシズムの鳥轍図社会時評(註:著作集Ⅰ159p)を高く評価し、私の図式の明晰さを認めている。そして、この小冊子「あるはなく」の発刊を喜んでどこまでも続けて欲しいと。この人の「あるはなく」の次号からの期待にぜひ応えたい。

 さて、では今後の執筆の方針は、根幹はどこに置くべきか。子捨ての途中、親と子の再会まできてとまどっている私は、今後の執筆の方向を決めねばならぬ。ただ母と子の泪―子の死、人情といえばいえる後半について迷いかつ苦しんでいる理由だ。1号を繰り返しくりかえし読むうちに、古山との結婚生活において、私の感じた性への絶望と嫌悪、性とは何ぞや、の考察をもっと私なりに深めていったらどうなるか、私の絶望なるものは、あくまで浅く、ほんの入口でしかない。子を捨てるまでの絶望は単なる心理的な理由だけでなく、もっと肉体的な、生身の生理の理由がなければならない。男と女との絶望にはもっと肉体的な性的な原因があるのは当然であろう。私のあたまに、その代表的作家として性を重視した人に坂口安吾・太宰治、という2人の作家が頭にのぼった。

 性―無頼な生涯、といえば、まず2人が挙げられよう。私の小冊子第1号は夫婦の性のほんの僅かだけ覗かせたに過ぎない。そして私のペンはその小さな入リ口しか描いていないが、性こそは自己否定の、全否定の、つまり全きか然らずんば死、という生命の問題の鍵である。いかなる否定も、いかなる苦悩も、いかなる愛も、この性を避けて通れない。性こそは人間存在の鍵なのだ。仮に<罪と罰>をとりあげてみても、あのラスコーリニコフに性のかけら、性の匂いだけでも加わったとしたら、あの作品はどれだけ様相が変わるだろう。主人公の否定に、もしくは主人公の絶望にどんな影を投げかけるか。<カラマゾフの兄弟>に、もし神の子というべきアリョーシャに、一切を否定する2男に性を体験として与えたならどういうことになるだろうか。これは想像しただけでも巨きな問題である、これ以上の宿題はないだろう。あまり巨きな宿題を持ち出すまでもない、ただ私は小冊子に何もまだ書いていない。まだ嬰児でもない胎児でしかない。私はこれから生きる残り少ない余生を、いっぱいの勇気をもって私の生命をかけて書いてみたいのだ。

 今からどんなことがあっても悲観することはない。どこまで書けるか書いてみょう。性に眼が届き、性を少しばかり覗きみたうえはためらわず書こう、書き続けよう。羞ずることはない、おそれることはない。どんな女でも子を生もうと思えば、子は簡単に妊れる。女である以上自然のことで可能だ。意志によらず、否定の理性によることもなく。

 しかし、性の深化、芸術的昂揚、美化はむづかしい。これからが問題。斜陽、人間失格、グットバイ、などを熟読すること。変わり者、変質者、人間失格はそれでゆけ。これからの生き方はそれしかない。周囲との違和感。孤立、抵抗に対する魂のあり方、全て自らの自己否定で押し進むこと、他者に働きかける捨身の抵抗と積極性。

 八木秋子は生きている、まだ死なない。死んではいない。ここに生きているのだ。

9月×日
 こんどの「あるはなく」で私の肉体と霊魂の中に僅かに残されたエネルギーがあの短い一文の中に絞りつくされた感じ。この短文の続きについて相京君から示唆を受けた。あの子別れをもっと続けること、農村青年との当時の理解、共感、活動など―。あの当時の農村の惨状は必要だ。―しかし、それの詳述には私の知識蓄積ではとても不足なのだ。そして、実際問題としてあの1930年代のアナキズム運動をありのままに列記するには憚るところが多いのだ。運動と名づけられない憚るところの多いのも事実だ。

 とにかく―「あるはなく」、を読みかえせばかえすほど、あれは八木の自己否定そのものだ。そして、どこにも理性や完結性のない、破滅への転落そのものである。情熱と瞬間しかない衝動そのものだ。子を捨てて後の生き方において、他人を説得できるような理性や指針となるものが根本的に欠けている。坂口安吾や太宰治のような旗色鮮明な没落や破滅はよほどの蓄積と混迷の上に立たなくては生まれない。私の「あるはなく」―の出来はよほどの険しい断崖を跳び越えぬ限り、生と死を越えた、否死をみつめ、死を覚悟した上でないとその破滅に至りつけそうにないと知るべきである。

 こう考えると、破滅の先にあるもの、現実畏怖、現実曝露の先きにあるものは性の再評価と性の再生でなければならぬ。性は人間にとって、殊に創作を志す者にとって避けて通れぬ人間性の昂揚であるといわねばならぬ。ことに、性は飛翔したことの経験のあるものにとって墜落の体験ともなり、そこから人間の自由が生まれる。自由は死より。死は復活を生み、その復活は絶望とともに美しく自然。死を眼前におくもの、見るものは何物よりも自由で、それゆえ美しい。

 「あるはなく」の構想が子との再会まできて行きづまり、苦しんでいたとき、「あるはなく」で知人の評価をうけたことが起死回生のバネとならんことを。否定と絶望から起きあがるバネとならんことを。
 さて、「あるはなく」を書き活字となったことが私の心の眼をひらいた。書くこと、書き進め、書き続けることは終焉を意味する。私は前途を顧慮することなく書きすすめよう。 まず太宰の斜陽を読み、人間失格を、さらに死に近づいた頃のものを読むこと。性の芸術的昂揚には古山時代からの道程を、小川未明氏の残せるものを、生田春月の不徹底さを宮崎(註:宮崎晃は八木秋子のアナキズム実践運動「農村青年社」における中心人物であり同棲していた同志)との思想と性の破局を。在満日本人の、ことに永島暢子の脆弱性を、半官半民という生温い生活の可能性を衝いて性の不徹底さを不変の志向に。生活の生温い依存と帝国主義の圧制の双股生活の不安。あのひと(女)の姿勢にはくずれたところが見えますね、の千葉課長の言葉―くずれた、といった言葉。
 満州事変の深化―皇旗のもとに満州開拓農民の選出、満州民族の冷静さと知恵。日米戦争の迫る気配のもと、ナチの没落によっても目をさまさない日本。戦争の恐怖を知らないのは性の奥態を知らないから、性の混乱が戦争を生み、その混乱が家庭の秩序をかため、その秩序の破綻から変革の曙光が射し表われる。革命運動と性の自由、最後の一線を越える民族、民族の独立、民族の自由と性―。
源流は食糧よりも性の志向と渇きの混乱、秩序よりも性の本態の生理的混迷、経済の視野に潜み秩序と生産の機能を動かすもの、視野の拡がりによる生理的把握。終末と死の断崖に脚をおく危機感(観)と自己解放。自己解放による政治の死滅、政治よりの解放は性に原点(食と)、組織や機構を変えるのは枝葉末節。

9月21日
 「あるはなく」第2号出来。やはり相京君の意見をいれて健一郎の酒店のこと。その死で終わったのは返すがえすよかったと思う。あれを理論や他のものにしたら、とても収拾がつかないものになったろう。母と子の再会の行くべき道としてよかったのだ。
 ★参考:第27夜、25夜

9月24日
 23・24日と相京君宅へ2泊。相京君の勧めで共同保育、ディン・ダン・ドンのメンバーなるママたちと半日を送り、団欒と理解のよき時間をもつことが出来た。どの人も若いママで、どの人も在るがままの人、若い母、若い妻で、さまざまの話題で語り合った。
 なかには思想の科学に執筆している「大御心と母心」の筆者(註:加納実紀代さん)で、鋭い人。高群逸枝の全集から、あるいは思想からの話題が多かった。話の中で、高群の書いたものには天皇制の否定はなく、むしろ夫婦とも擁護の理論であり、その点どうだろうか、という意見だったので、それは高群夫妻の擁護者であった下中弥三郎の思想傾向からきているかも知れないが、もっと深く、高群が女性史執筆の原点をどこに置こうかと考えたとき、彼女に閃いたのは本居宣長だった、本居の思想がそれであったのではないかナァ、といったら皆肯定した。高群全集を貫く思想はそういうところに発想があったのではないか、といった。
 皆の質問は高群夫妻の生活、その常識を越えた生活だったようだ。メンバーの女性達がどう感じたかは知らないが、奥さんの話しでは、どのメンバーも何かを私から感じたらしい。帰りには全員玄関前に出て、さようならを叫び、手をふっていた。

9月25日
 日曜。相京氏に送られ、帰途につく。花小金井駅まで、それから清瀬まで、判かっているようで判からない。わがあいまい模糊とした頭脳に腹が立つ。清瀬―池袋―大山と送って貰って明々寮へ。何のことなく帰った。責任のない私は外出にも心は軽いはず。部屋の間断なきおしゃべりには閉口。

9月27日
 私の返事を書かないのは小事を強いて大に何でもないことを深刻に考える性行によるものだ。他人に会いたくない、孤独が好きだという私の考えはエスカレートして、生活上に必要な事務的なことまで白紙のままだ。通信のたえること、無音がどれほどの損失と誤解の種子となるか、よく知っているが、とにかく手紙を書くのがいやなのだ、手紙の文章と原稿としての文章とは違うのだ。

12月6日
 どこも、部屋は変わっても大同小異、私はただ希望棟へ行く自由を確保したつもりである。この界隈の人達は、相京君の面会に来るのをだいぶ問題にして噂の花を咲かせているらしい。

12月11日
 相京君が来た。私の部屋で話す。通信第3号の刷れたのを持って。今度のは私の冴えない頭のせいか、書き終わりが尻きれになって映えない。相京君は次号に私の内面と宮崎君との公判廷における陳述、私の運動に対する幻減、運動全体とアナキズム運動の批判(男と女の相距たる相違など)をぜひ書くようにと繰り返し要望して去った。
 それを書こうとして、なんとしても筆がとれない。宮崎君との決裂、逮捕されたときの彼の最初のハガキ、差し入れとして岩波の植物学全集からその純学術的な終わりのない専門語、ドイツ語の困難さ、生活の問題を書かねばならぬ、何よりも宮崎君自身のアナキストとして指導的、指導者としての適否、アナキズム運動の空虚な実像―。農青イズムに目ざめた意義、そこで地方同志を知った実効などをとおして実感した農青イズムの実像などを書かねばならぬ、これは考えても大変なことだ。とても雑報に書けない、書ききれない。そこで低迷にまたしても落ち込むことになって何も書けない。

■第3号 後記(相京)
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 私の可能な限りの『目録』を作成した。その他、読者の方で補足されるものがありましたら是非御一報載きたい。読者からも指摘されることだが、通信の限られた枠内では彼女を識ることに一定の限界がある。そこで、ここに掲げた彼女の著作を復写印刷で来年3月を目標に発行する計画を進め、それを通じて、彼女の現在の一つ一つの言葉に込められている「闘いの中での蓄積」を感得する一つの手段にしたい。正直いって、僅か数号で彼女を識ることはできないし、何十号と継続する間でまた始めに戻って読み返せる通信を求めて行きたい。また、彼女の文はそれに充分答えうると思う。私が身近で接っする彼女はまだまだ充分に紙上で暴れ回ってはいない。読者が期待するものもそこだと思う。次号は彼女が書き溜めておいた活動中のものを一気に掲載し、12月中に発行したい。
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12月24日
 けさ、ようやく書いた「八木定義Ⅱ」が書けたので相京君に電話した。24枚だ、あす行くかも知れない、だったが今朝きた。父定義のは選挙に勝って、病院で大沢と八木との対話などを書き入れ、判検事の来たこと、などをからめてやがてくる没落と悲劇について予告を試みた。

12月24日
 西川さんの手紙は何度読みかえしても倦きない。だが分析が利いて本当に理解するのはむつかしい。

12月28日
 1時頃相京君から電話、午后2時にいつもの喫茶店で会おうという。いま駅前の喫茶店で待ちつつこれを書く。帰ってきてから書く、相京君から届けられた葉書により熊本の弁護士庄司進一郎氏(註:庄司宏弁護士の父)が熊本市内の病院で急性脊椎炎のため急逝されたそうだ。よい人だった、いよいよ、あの世へ急行する人の多いこと。

1977年12月31日
 大晦日である、思えばことしは私にとって特に記念すべき年だった。「あるはなく」私はむつかしいことは一とおり相京君にまかせて、ここの生活にふりまわされながらうろうろと書き続けた、文体にも自信とはいえないまでも落ちつける気持。

 日記を書くことに気がついて、相京君の賛成を得てからずいぶん気持に活気をとり戻した私だったが、肝腎の日記になるものの材料が少ない、まるで無意味みたいな日常なのだ。日記にしても現象がはっきりしていること、材料に興味と面白みがなければ。だがその出来事の羅列では仕方があるまい。ただその雑事、出来ごとと、人間のこころを指し示す認識なのだ。これは技術的にもむつかしく、永久に絶えない課題であろう。

1978年1月1日
 年賀状が沢山来た。85枚ほど。配達してくれた寮母がおどろいている。年賀状は書くのが苦痛だ、きまりきった型どおりの文句なのだ。テレビでシャガールをみる。シャガールが現存の画家とは知らなかった。彼はロシヤ生れ、大河の辺りで貧しく育った、ポーランドに居住しているとき世界大戦、ナチによるユダヤ人の迫害でユダヤ系の彼はアメリカに脱出するが、そのまえパリに行き、労働、ただ絵画にたいするおそろしい情熱、そして恋愛。そこでシャガールの原像、原色彩を発見、アウシュヴィッツの悲劇を知る。ピカソを知り、またパリに行きそこでゴッホの「馬鈴薯を食べる人々」―農民を見出す。彼は画くこと、そこに生きた―。

1月2日
 年賀状がちっとも書けない、短い文章を―と思っても思い浮ばない。

1月4日
 終日年賀状を書き50枚を越す。
 相京君から来信、帰郷し5日頃帰ろうと思う。来年(ことし)は<父・八木定義と養育院における今の日記><読者よりの手紙><古いノート>をのせて行こうかと思っている。いずれにしても、先日書くように勧めた八木定義・小川未明・有島武郎、女人芸術、農村青年社―満州、母子寮、の自伝とこれから始める日記の連載が主柱になります。続けてお書き下さい。私は5日に帰ってきます。15日前後に私宅にきて下さい。私は八木さんのお蔭で、生まれてこんな充実した月日を過したことはありません。私の内で言葉にならなかったものが、八木さんを通じて自身の中で整理されてきたような気がします。感謝いたします。(12月30日)
 私が相京君に発見されたか、相京君が私を体得してくれたか、奇縁、妙縁。どちらも似通ったものがあり、触発されたか。

 ようやく雑煮からごはんへ切り換え。やはり我々は米と味噌汁へと辿りゆく民族だ。わたしも希望棟行きを中止して久しい。いまはダンボールの箱を使っている。相京君から電話で、田舎から昨日帰京した、ついてはこんどの4号をすぐにも出したいので、未決での父親との対面の校正ができているか、との問いにイエスという、きょう4時すぎにとりに行くからいつもの喫茶店で落ち合おうとのこと、諾と返答。IはきのうMに頼まれて50円金を貸した、返すでしょうか、とバカみたいな心配をしている。夕食が遅くなるので、Iにごはんをとっておくことを頼んで例の喫茶店にでかける。
 相京君は私の仕事のことしか頭にない。実に若々しい、記憶がいい。私がしっかり書けばあとはスムーズにいくばかりだ。

 銀行事件-、崩壊の発端、新聞。村有林売却の7万円の件。町のさわぎ、銀行の取付事件。町の発狂者、家出人。ついに父の言葉により30冊の日記が下の小舎から出る。長野妾宅における悲劇、大沢の拘引、××病院長の声明。八木父の召喚状-長野行、汽車は闇の中を光りの尾をひいていく。
 諸々方々へ電報で-。見舞客、福島祭のタ。長野から大沢茂、杉本紀平など到着。弁護士の件、長野の大沢の容態、馬市の馬。教会の青年教師。木曾川の洗濯。保証人各家のさわぎ。初秋、大正4年秋半ば。
 その他、独房での父との対面。大正4年秋半ばーその前夜、長野の父より電話、朗々たる声。明夜帰る。手分けして道々に迎えに出る。電球、いろり。父・母・姉達、兄、父の眼。父は独房で差入れあり、三河屋のコック面会。

 私の書いた父との監房での対面、対話の原稿が出てきたおかげで随分助かる。これのおかげで4号は早々と出そうだ。相京君によると星野君は(註:八木の同志、後に『農村青年社事件・資料集』全3巻を共同編集した。94年刊行)、「あるはなく」について好意ある批評と援助を送ってくれた。山田よし子さんの不幸の時は一言もふれず冷たい態度と思っていたがやはりそうではなかった。沈黙の間に見守り、声援を送ってくれたのだ。うれしかった。

1月8日
 午前カレンダーを何気なくみると1月12日になっている。Mがたくさん日付をちぎることをして、本当は8日であったから日記を安心した。『傷ある翼』を読む。こういう平板な感じの文体は私はそのまま真似ようとは思わない。
 私信をみる。西川・渡辺・宮木氏からの来信はなかなか良い。きのう、相京君には古い関係の人に通信を送付するようたのんだ。注目のうちに帰る。異性の訪問者ということだ。

1月12日
 日取りがよくわからない。相京君から電話で、いま4号の仕上げで大忙がし、とのこと。明日は土曜日、明後日は祝日(成人式)、だから、土、日と僕の家へ泊るつもりで出かけてきてほしい。14~15日と泊る予定で-という。明日の14日に私宅へ来る予定で出て、ひばりが丘で降り、駅で待っているように。妻か、ディンダンドンの一人が迎えに行くから、という。いつまでたっても道順が不安な私を羞じる。

1月13日
 カレンダーの先千断りでよく日付がわからない。今日は13日だ、14日は土曜日、15日は祝日(成人の日)で日曜日。だから16日は休日で連休なのだ。カレンダーが判らないので事務所へ日付を聞きに行ったら、一ヶ月先まで千断ったことの理由を聞かれて、話した。くだらないことだ。我ながら。
 相京氏宅へ行く支度を考える。ズボン、セーターなど、よそゆきのもので一つもろくなのがない。ズボン二つのうち、茶よりも黒い方にしよう。セーターは、末明さんの御3女、岡上夫人からいただいたものにしよう。お菓子の残り3箱。

1月14日
 14日午前9時頃、Iさんの片脚痛、病身の人を残して、相京君宅へ向い出発、ひばりが丘下車。ディンダンドンメンバー林さんの自家用車で出迎えを受け、共同保育所に行く。2階に上り、相京君が買って下さった有島著『惜しみなく愛は奪う』を読む。私の目ざす有島の言葉はこれにはなさそうだ。李枝ちゃん成長しており、おどろく。当番のママがおひるにうどんの温くおいしいのを作って出して下さる。あとで聞いたら香代子夫人の手料理とのこと。○○の気しきり。心地悪く老衰を感ず。3時近く2人の若いママ来り、2階で話す。私の結婚上京頃の伊藤野枝、などの人物像など聞かれる。親疎さまざまの肌理で感想を語る。

 そのうち、私の記者時代の話になり、入社試験のこと、神近市子女史の記者像。断髪洋装の実行へ。その認識から木村泰賢博士【千夜千冊96】のサンスクリットの質問、芥川龍之介氏【千夜千冊931】の訪問など。記者時代の明暗を語る。インタビューの感触など。あと、林夫人の車にのせて貰って相京家に回る。林夫人は現在日劇に出演中の有名無名の俳優を相手にさまざまの面で接触しつつ、2人の幼児の母としてたいへんな活動だ。相京君は帰宅していて、さっそく通信の第4号をみせてもらう。こんどの号は「独房」という題名で、未決の独房の装置を描き、そこで15年ほど前の父・定義と再会する。

その父と私との対話を16ページに載せている。父と娘が父と女児らを語り、母ときを語り、宮崎を語り、そしてアナキズム運動を批判、運動の思い出を、私自身の情緒過多、そのあとの運動者としての自己批判、再生への道などの考察について語っている。最後は尻り切れだが、そのあとに私の唯一の詩「薪の火を焚く」が附加されて16ページ、厚みがあり付記として「ダンボールの空箱を机がわりに一字一字刻むように書き綴っている姿を想像されたい」と記してある。長すぎた感もあるが父と娘の気楽な対話の中に語られる思想、思想運動、そして夫婦、愛人、社会愛など語ってのん気な中にも面白い感情がある。
 全部を通してみると決っして感傷に溺れた訳でもなく貧弱の中にも真実があり、私もうれしい。

★第4号 後記(相京)
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黄ばんだ原稿用紙が糸で綴じられ、何度も手を入れた跡にまるで彼女の心の襞を垣間みた思いがした。しかし、基本的にこの通信は彼女が現在綴る文章で埋めてゆく方針に変わりはない。部屋の片隅でダンボール箱を机がわりにして言葉を刻む姿を御想像願いたい。次号から現在の彼女の日記を連載しゆくので御期待を。

会計報告(77年11/17~12/30)
収入 
新規定期購読料 11250円
賛助金 27460円
支出
印刷費(第3号) 12600円
発送費 4100円
複写代 2350円
交通費他 3220円
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1月15日
 午后(赤松)という中学の女教諭が私に会いに来られる、理性的な冷徹ともいえる教育者だ。いろいろ語るのを聞き質問、説明など現代の教員の性格をみる。この女性が周囲の友人・知己に「あるはなく」を話し、購読に力を貸して下さっているときいた。すじ道を立て組織的に考え、語る。現代の教育者の考えのキメ細かさを感じる。

 夜、コタツで相京君と(通信)の今後のことについて相談する。私はこれを機会に少しジャーナリストの間に持ち込んだらどうか、と云ってみた、(農青運動史刊行のとき、私は新聞社の書評係へ出かけ、毎日を除く3社へ掲載して貰った。だがA君は反対、個人の結びつきを主張する。

1月16日
 午前、ざっと室の掃除などをしていくらか気持よくなる。同家で借りた身障児収容施設の事態と収容児が綴った本を読む。
 朝から李枝君が風邪気味、その子をおんぶして私をひばりが丘まで送ってくれる。ママは今日休日だが、おんぶして出かける。池袋で降りて西武の地下でパンケーキをコーヒーで食べる。そしてのりかえ、午後4時近くに帰寮、何ごともなし、平和、平凡。
実際、こういう広い施設の建物から見るとまず民家の暖房のない建物の寒さ、狭さが今更のようにピンとくる。日本人の住宅に改革の眼をむけよ。

1月18日
今日は希望棟へも行かず、一日通信への執筆を考える。4号の独房での八木の父上と私との会話も寓話みたいで思想の核心をぼやかしてしまった感じがあるにはあるが、結局ああ書かずには行き場所がなかったのだと思う。
 次の号に予定されている彼と私との対話というか、最後の決裂への自我の独立を宣言、宮崎がよこした通信を発表しようか、それを出発点としなければなるまい。相京さん宅でいただいた菓子折をあけたらおせんべいで美味しかった。開けて2人に分けてあげたら、あまり貰っていて悪いわね、何かお返しをしなければ-と言った。Iさんの右脚ははれて病む、それでも病院に行かず内職に通っている。平田しげさん、しげさんの手紙で木曾福島の長福寺御老師が92歳でつい先日永眠、20日にお葬儀とか、御老師に弔辞を送ろうか。

1月19日
 「あるはなく」の第5号に書くべきことを考えながら文庫本を読み、雪のあとの春日でつい居眠りをする。私達と左隣りの部屋にかかっているボロカーテン。それがいつも気になっていたので2人に話し、隣室の人々に話してみたらみな同感だった。それで事務所のS女史に話し、新しい布を見立てて買って、その実費を皆で分担すればよいということで諒解した。

1月20日
 1ヶ月先までカレンダーをちぎったので日も判からないし、曜日もわからない。すべてがぼやけ半分居眠りの状態、何度も4号の独房を読む。16頁で随分長い、あれには私の本心が含まれている、同志は憤り軽蔑し、私の本態をみて呆れるだろう、知らない人はここまで恥をさらすとは-と嘆息するだろう。かまわないのだ。もっともっと暴け、もっと書け、秋子よ。

1月21日
 次号に書くべき原稿に、この生活の中の日記がある。ここの利用者で早大出の人で風変わりな人がいる。このまえいろんな話を聞かせてくれた人だ。その人に「あるはなく」の1号を見せたら、じっと読んで何か書き込んでいる。その書きこみ、ボーダーラインをみたが、別にピンとこない。話しをするために講堂-会議室へ連れていかれたが、自分の経歴ばかり果てしなく喋言るので呆れ返り、私は何の発言もしなかった。ただ、こういうものを書いたという事実が、この中の生活から生まれたというのは、これは驚くべきことだ、といって占師みたいなことを言っていた。私の文章にはおどろいたらしい。

1月24日
 相京君から速達がきて、私の年譜などで月日など不明なところを探せよ、というので調べて氏に電話したら、箱根へ行かれた模様、近く訪問して下さるのを待つことにする。
 次号の八木父上の事件について書き始めようとしても、どうしてもペンが進まない、滑り出さない。あの4号は、ある人がみればふざけているみたいで腹もたつだろうし、情緒の人々はうなづけても理性には根が浅くて物足りない。しかし、あの文章にはたぶんに戯画化しているところもあるが、飾らず偽わらぬ私を出し、語り、踊らせているところに、人のよい私の真骨頂が出て面白いと思う。

1月25日
 どうしても独房の続きが書けない。書けなければ強いて書かなくてもいいじゃあないかと思う、その下から、ここまで歩みつづけてきてここで挫折するのかと思えば口惜しい。これからどんどん書き続けて、いくつもの障害をのりこえて歩むとしたらどんなことになるか。あまりに私のペンは、思いがけぬ変化によって、自分で思いもよらぬ境地に自分を引きずってしまうので、手が出せない気持になるのだが、まさにそれだからこそ、書き続け、書き続けよと自分に叫びたい、どんなものがいつどんな所から生まれるか、まるでわからないのだ。

1月29日
 日曜だ、日付も曜日も何もかも忘れてぼんやりしている、いまに自分を忘れてしまうときが来やしないか。

2月4日
 昨日電話したら、いま忙がしくて行けないが、土曜の紀元節に行けたら行く、との返事だったので、例の喫茶店で会うことにして待ったがついに電話も本人も見えず。やはり、私のサボタージュで立腹したのかと考えて心配になる。感冒で先月末以来のグズついたという事情はあったにせよ、私としては控訴院の言渡しのあと、宮崎との言葉のやりとりで受難の決着を考えなければならなかった。それをすませて、出所、東京での生活、就職運動、唯一人の満州への脱出(その前、彼との面会、会談の模様、その前、毎日の放送、出征軍人の見送りなど、そして奈良に降りて博物館の彫刻、出発など)一応書くべきことは多い。この大きな区切りに際し、宮崎との別離を書くことは必要だ。

2月11日
 日増しに春映温かしだ。3日ほど前、相京君が訪ねる電話をくれて、例の喫茶店で会った。彼は大きな紙袋にいっぱい校正の原稿をつめこんできた。『女人芸術』時代(註:発行人長谷川時雨【千夜千冊1051】)のこま切れ、アナ・ボル論争の端片、その他いろいろ。2月中に校正を仕上げてくれまいか、なるべく3月前に5号を出したいという。とにかく、あの幻影の獄中父子の会見、あれを境にうんとすべすべ角がとれ、円満解脱みたいな感じに傾斜しつつあることを銘記せよ。

 相さんの先日の話しでは、3月早々、早稲田あたりの小さい会場を入手して、八木さんを囲む会を開きたい、というわけで準備を進めるからそのつもりで、と言った。討論みたいになるかどうか、いつもの通り私はそのままの自分で出席するだけだ。準備としては、「あるはなく」に書いたものを読み返すだけ。

2月23日
 午後1時、講堂で、一時間半のいねむり、2月22日、夕5時半、駅前の喫茶店で相京君と会う。女人芸術連載の藤森氏とのアナ・ボル論争、ツェペリンの飛来、林芙美子【千夜千冊256】との九州講演旅行など沢山の校正を命ぜられた。なんとしても仕上げねばならぬ、出直せ。相京君は著作集に多大の望みと光をみつめている。私ももたもたした悩みを全てふきとばし、まずじぶんの足もとから出発せよ。
 2月23日、希望棟へ行き、まず校正に赤ペンのないことに気づき、さっそく区民会館通りの文房具店へゆき、赤ペン3本、帰って階上の静寂に身を埋めたところへ教会の小坂姉が現われる。大高姉と2人で来て待っているという。部屋に早くも大高さんとあの金丸さんが待っていた。雑談。Mは2人の信者に、お嫁に行ったことがあるか、子供を2・3人産もうと思うか、などと平気で聞き、自分の結婚せざるの弁を説き聞かせる、おどろいたことに。

3月3日
 女の児の桃の節句である。沢山の原稿-女人芸術の古い原稿でおちおち眠れない。全く相京君の熱意に押され、その希望と八木秋子著作集の校正と執筆と校正の為に何もかも消し去って夢中の日を送っている。
 おひな様をきれいに飾り、午後2時からみんなのためにお節句のお祝いをして下さるとのことで、食堂は浮きだっている。こういう収容生活のことだ、あられ、草餅、じぶんのおはし、お茶わんなど持ちよりで集まる。職員の音頭で余興になる、因みにごちそうといえぱ、お昼は鳥肉のそぼろのごはん。さっきはまぐろのおさしみ、など。それぞれにさっぱりとした若がえりの姿、髪もどうやら整えた姿である。先日相京さんと行った写真屋の写真。できてきて見たらやっぱり幻滅。老衰そのままの顔、姿だ。

 お節句の余興になって、司会者が私に何かやれと迫ってくる。木曾節をうたう、どうも一つっきりののど自慢、お国自慢。よそ行きに飾った老女たちを交えた余興には、7つボタンやここはお国を何百里などが、そして女の側では従軍のうた(看護婦のうた)などが得意そうに-。環境も時代も思想もきれいに無視している。口のよくわからないおばあさんが、箱根の山は-のあの明治調を歌い出す、あの漢文調の唄はむつかしい。同室のMがいそいそとしてやっている。おもしろい。配給のあられをさっそく平げて心細い顔をしているM老のためにわけてあげた。

3月5日
 苦心惨憺だった原稿(八木著作集のはしがき)、八木父、の校正など、校正をのぞいて最も苦心したはしがきの原稿(11枚)を書きあげ、夜着いた相京君に渡して結果はともかくほっとした。八木著作集は通信「あるはなく」にひき続いて私の生んだ子供である。子供といってもこれは主として相京君の意志と熱意によって生まれるものだ、
 その第1集が出版されようとしている。私の著作の著作集が-。私はそれらの校正、正誤、その他の用務でまるで1日中夢中でおろおろと過している。


3月10日
 八木秋子著作集が、通信「あるはなく」に出版予告され、通信第5号が発行。その出版予告されてから、私はこの住居にあって心も生活もそれにつれて変わるべき運命というか、我が子が生まれるよろこびを感ずる。

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第5号
●八木秋子著作集Ⅰ 3月末完成
A5判 上製 1300円
本文200頁 9ポ2段組
口絵
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 八木秋子の著作集がいよいよ3月末に出来あがる。収録したものは「第3号」に掲げた「女人芸術』(座談会は除く)「黒色戦線』「婦人戦線』『農村青年』そして『婦人公論』の「回想の女友達吉屋信子」、「埋もれた女性アナキスト「高群逸枝と婦人戦線」の人々』の中の「明るい肯定の人・高群逸枝」「マルキスト・永島暢子との思い出」である。そして、その他に小川未明らが発行していた『種蒔く人』の婦人欄に投稿した「婦人の解放」、また昭和2年『婦人公論』に載った「優れた女性」等、京都の宮木典代氏、西川祐子氏、東京の関陽子氏の御助言で加えることができた。一応彼女の著作集第一巻としては満足のいく内容である。
 彼女の最大の魅力はその紀行文、文明批評的ルポルタージュにある。その予言者の如き言葉は様々な意味を持って私達に問いを投げることは、第3号の西川氏の文章の中でも語られている。中篇小説「1921年の婦人労働祭」、「ウクライナ・コミューン」はロシア・ナロードニキへの当時の血のたぎりを感じさせる。
 私は現在の「あるはなく」の文章とこの著作を重ね合わせて是非読んで頂きたいと思う。また末尾に彼女の略歴を載せた。その必要なことは発行以来、耳が痛くなるほどいわれたことだが、「あるはなく」の出発が私信の延長線にあることで、つまり彼女を多少とも知っている人に送り続けてきた事情で今までは載せなかった。が、読者が読者を誘って下さり、もはや私信といってはいられなくなった。そこでこの著作集を購入して頂くことでその点も補うことができるかと思う。是非沢山の方に読んで頂きたいと思う。<相京>

★第5号 後記(相京)
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 あわただしい一日が実感を伴って過ぎてゆく。しかし彼女の内にある時間には未だ及びもつかない。ぐっと地に潜む時は気を蓄え、一気呵成に空を飛ぶ、風を起し、そして批判を乞いたい。
 私は彼女の何に一番関心があるかと尋ねられたら、こう答えようと思う。それは宗教と思想の混じり合った世界に60余年棲息してきたということだ。だから彼女の用いる「神」だとか「愛」だとか「絶対」とかは一般的な言葉でとらえられないと思う。たとえば健一郎さんのことに触れて「相京さんわたしは本当に母性愛が無かったのよ」と突然私に語り始めた。私は丁度その時彼女と同時代に華々しく活躍したアナキスト詩人竹内てるよの超然的な母性愛自叙伝を読んでいたので、それと異なるという意味で「そうですか」と肯定の抑揚で答えた。があとで「はてな、彼女ほど他人に無償の愛を振撒いた人はいないし、まして子供にだって最後まで見守ったじゃないか」と思い不審だった。が前述の竹内てるよや高群逸枝の戦争中の問題と重ね、彼女が母性と母性愛の言葉を峻別する姿勢に気づいた。母性愛、父性愛、夫婦愛、郷土愛、祖国愛、そして同志愛。その世界を吸いあげて造りあげたのが国家であリファシズムであるなら、今一度私達は彼女の世界を探る必要があるのではないだろうか。彼女は少なくともその「愛」なるものの虚妄さを拒否して生きてきた、そして真の価値を求めて生きている。その秘密は第一号でいう「飛び超えたい』一線を、即ちその間合いを、彼女自身で切ることができるからではないかと思う。

会計報告(78年1/1~2/28)
収入
新規定期購読料 15000円
賛助金 28450円
支出
印刷費(第4号) 29700円
発送費 4580円
復写代 1100円
雑費(写真代・交通費) 29700円
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2007年09月07日

● 第37夜 転生記(2)

 八木秋子が入所した「東京都養育院」は東京都板橋区栄町35-2、東武東上線大山駅から歩いて5分ほどの所にあります。今回、彼女が養育院での生活を書き綴った「転生記」を掲載するにあたり、思い立って25年ぶりに訪ねてみました。池袋から3つ目の駅である大山駅を降りるとにぎやかな大山商店街に出ます。踏切を渡り、商店街から路地を抜けるとすぐに、養育院の大きな建物が見えましたが、四半世紀前、何度も通った道筋はあまり変化が見られず、ちょっと不思議な感じが残りました。
 しかし、院の敷地に入ろうとして門を見ると、看板には「養育院」を示す文字が消えていました。「東京都立養育院」は1999年12月に127年の歴史に幕をとじていたのでした。
 門から入ってすぐに実業家渋沢栄一の大きな像があります。彼は92歳でなくなるまで50年にわたって院長をつとめ、月に一度は養育院を訪ねていたそうですが、その銅像のそばにあった案内図を見ると、いくつかの建物の名称は黒いテープのようなものが貼られていました。八木秋子が入っていた「明々寮」の表示も消えていましたが、あたりを見回し、見覚えのある建物の方に向かって歩いていくと、八木秋子が通った図書室のある「希望棟」がありました。しかし、周囲は夏草に覆われており、もう何年も使用している形跡は見られません。坂を下っていくと、今度ははっきりと記憶していた3階建ての「明々寮」が見えてきました。
 八木秋子が大腿骨を骨折して瀕死状態で入院していた他の施設、「光風・和風寮」は現在も板橋ナーシングホームとして存続しているようですし、隣接する老人病院もたくさんの利用者が行き通っていましたが、しかし、八木秋子が入っていたあの明々寮は、廃墟のように全く人の気配がありません。しかし、この「転生記」をまとめているせいか、一瞬、あの「廃墟」特有の時間を超えた何とも言えないざわめきが聞こえてきたように思いました。八木秋子が居た1階の部屋、食堂、事務室、玄関、そして、よく車椅子で行った公園の藤棚の下、等々。25年振りに訪ねた建物が「廃墟」だったから幻影としてそれらが思い浮かぶものなんですね。いまこうして転生記をあらためて読み返すと、あの「廃墟」に一つひとつ情景が重なっていくように思います。「廃墟」は饒舌。行って良かった。

 さて転生記です。この養育院での生活日記「転生記」は、およそ1年間にわたる日記で、彼女は何冊かの小さな手帳に書き続けていました。文字量は400字×200枚。そのうち、今回は生活に関わるものを抽出して編集しました。

 八木秋子はその中で、日記について、次のように書いています。

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1977年12月24日
 私は一年、ついに日記を書かずに空白の日を送ってきた、書けなかったのだ。この空費した一年の欠落は何とも大きい。私は日記をつけようと思いたった。このことの意義は大きい。抽象的なことよりか、ここの生活を書くことで私の心が定着する。生活に影響するところは大きい。資料として残す意義も大きいし、生活そのものが生きて躍動する。おもしろいものが出来るだろう、捉われずに踊らすのだ。それで私の重なる一年の迷いもどうにか定着するに違いない。
秋子よ、長い眼で物を、人を見よ、心を開いて見たものを一応天空に放げろ。
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 わたしはここに八木の魅力の一つがあると思います。日記とは何でしょうか。彼女は1950年代半ばから1970年代前半まで、10数年にわたって日記を書き続けておりました。その一部は八木秋子著作集Ⅲ『異境への往還から』に掲載しましたが、大学ノートで20冊ほどの日記(独り居日記)が残されています。それらを前にすると、八木秋子独特の「日記に対する想い」を感じます。彼女は「生活を書くことで心が定着する、資料として残す意義も大きいし、生活そのものが生きて躍動する」と書いています。おそらくそうだと思います。記録資料であり、独白もあります。しかし、彼女はただひたすら「書くこと」に憑かれて日記を書き続けていたのだと思います。周囲の「モノ」「ヒト」を見て書き、自分が「こころ」を開いて見たか、確かめていたのです。

 「書く」という行為は何のためにあるのでしょうか。その時もいまも八木秋子の日記を読むたびに、彼女の自問自答に考えさせられます。それだけ、彼女の日記には何か不思議な「ちから」が満ち溢れているのです。

 この文章の最終行「秋子よ、長い眼で物を、人を見よ、心を開いて見たものを一応天空に放げろ」という言葉には、わたしは何度も励まされて来ました。天空に放げたもののうち、両手でつかめるものが「いまの自分にとって必要なものなのだ」。詰めに詰め、どうにも手に余って決断する時、振りかえるな、未練を持つな、余剰を捨てろ! 


では、養育院での日記「転生記」(2)をお読みください。

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1977年9月21日
 明々寮へ引っ越し。昭和51年12月10日この東京都立養育院本院に入所以来、一ケ月の間に厳重な身体検査を受け、本来ならば新入寮は一ケ月以内に病者以外は凡てどこかの寮へ定着を命ぜられるのだが、私は1月早々脱走事件を引き起したせいか、その後一度も移動の話はなかった。明々寮食堂で「9月誕生会祝会」、ごちそう。事務所の係長のすすめで私は立って木曾節をうたう。終わりを待たず新入寮から荷物を運ぶ。肝心の借りた本の大切な風呂敷包みがないのに気づき、あちこち往復してもない。
 新しい明々寮の室は7半帖、M、Oと私。これが私の終の棲家か。Mは目の覚めているかぎり喋言りまくって止むことがない。Oは沈黙で彼女の雑言と悪口に耐えている。この一階に先んじてきたSが訪ねてきて、相変らず食物をくれる。これからやはり食物のやりとりであろう。相京君から借りた吉本隆明の『最後の親鷺』が出てきて大安心したら、今度は返本、村上一郎の「無名鬼」『人生とはなにか』がそっくり不明(あとで古巣に預けてきたことを思い出す)。一方の饒舌がうるさいので希望棟へ-と思うが雑念、雑事で行かない。

1977年12月7日
 Mに着衣を何枚も盗られたというO老婆、85、86才との戦闘はつづき、電話でよびよせたOの実妹が横浜から上京、事務所の寮母2人もここへやってきて、昨日の盗品の話になり、明日2人が付き添ってMが盗品を入質したという質屋へ実地取調べに行くことになる。ところが、被害者のOはあたまが呆けて品物の陳述がしどろもどろ、はっきりしない。当の私の下着類や着物などまるで少ない。それを言いたてたら事はますます面倒になる。誰もが記憶がうすれ、誰もがしどろもどろなのだ。バカバカしい争いに巻きこまれたくない、第3者として終始したほうが潔くて気持がいいではないか、そう思って私は被害者になることを避けた。Mの浪費癖は相当なものだ。いつもカラッ尻なので彼女は金欠病に骨まで蝕ばまれている。だから他人のもの、たとえば衣類、はきもの、下着類、などと大小を問わず、眼にうつるほどのものを我物として、何の反省もないのだ。一方のOはこれはもう激しい被害者意識で、あとからあとから幻のわが愛する着物、羽識、帯、時計、など思い浮べ、老の説明を試みる。一方の加害者といえば、まるで底なしの水流のように滑らかな舌から阿呆だら経よろしくあとからあとからと限りなく言葉が流れる。2人の対峙の仕方がつくづくいやになる。Mは他に移そうにも引き受ける室がなく、この部屋を出れば住む所がない。最後の室だと断定せられていて行き場所がない。そんな人物の生きているこの部屋へ何故私を入れたか、どんな目的で押しつけたか、意味がわからない。私はどんな人物と同居したとしても大低意味が判っているので、最小限度、希望棟の図書室を利用させるよう押す外はない。どんな室だって大同小異、この建物にいる限り自由はないのだ。

 人間を変えることは至難中の至難だ。私などその代表者かもしれない。まずこの部屋の小宇宙で、なんとか生活の雰囲気を変えることが-と思ってキリストの愛を、罪の許しを体現せしめつつ来たのだが、何一つ実らなかった。空白、空虚のみ。新入寮の何ケ月かの私の体験として、ある病院からきて病院に追い返された高井女史との3、4ケ月の生活に対し、我が一切の自我を殺して、仮の、偽りの平和を生んだあの期間の忍耐が、あるいは事務所に逆の私の印象を与えたのかも知れない。闘いか忍耐か、一切をすてた私に一切の重荷がかかってきたのだ、私がもっと戦闘的で裁判官のような切れ味と重荷をもって、そして女の道に徹した敬慕される女性だったら良かったのだ。そういう模範的な老人だったら、そして善は善、悪は悪と峻別する独裁者の断定をもっていれば-これこそ私としては至難な道なのだ。こういう生活の中では指導的立場にある人は、独裁者の凍りつく冷たさと決断がある時には必要であり、おおらかな円味がなくては-という、私が間違いか。何しろ、ある場合には冷たい決断と、言葉以上の態度が人を動かすのかもしれない。といって支配と、決断と、大局をみる瞳が必要なら、それが一歩誤まればどんな誤りを招くか、悲劇の種子を蒔くことになるか-。
 いま同室で争いの渦の中にいるO老、わたしに寄り添っているMも。私は少し濃密にすぎるようだ。いつもある距離をおけ。
 こういう施設などでは盗難事件が起きたらまず品物の有無を調べ、それには質屋を調べる、その上での談判で、まず盗品を証拠として調べる。この順序というわけで事務所の寮母、それに被害者たるべきO、盗癖者のMと3人が何の質札もないMを案内して3軒の質屋へ証拠固めに出かけた。その結果、一枚の質札もない所から衣類3点を引き上げてきた。但しMの記憶によって選び出した3点で、その他には一点もなし。Mの発見した衣類は、その場で寮母が支払い、Mの物となった。Oは大分被害額を数えていたが、結局3点の品を買い戻して貰ったMの勝利となって了った。
 どこも、部屋は変わっても大同小異、私はただ希望棟へ行く自由を確保したつもりである。この界隈の人達は、相京君の面会に来るのをだいぶ問題にして噂の花を咲かせているらしい。

1977年12月11日
 私たちの隣室にすらりとした人で静かな人がいる。松尾輝子、という人。日本画を描き、書もりっぱで、希望棟の2階階段の上に大きな達磨の肖像-座像を描いたのと、その並びに立派な書風で達磨の心が書いてある。これが彼女の話した入選の画であろう。阿弥陀如来や仏の悟りが書かれている、この人となら-つきあえるかもしれない。

1977年12月24日
 私は一年、ついに日記を書かずに空白の日を送ってきた、書けなかったのだ。この空費した一年の欠落は何とも大きい。私は日記をつけようと思いたった。このことの意義は大きい。抽象的なことよりか、ここの生活を書くことで私の心が定着する。生活に影響するところは大きい。資料として残す意義も大きいし、生活そのものが生きて躍動する。おもしろいものが出来るだろう、捉われずに踊らすのだ。それで私の重なる一年の迷いもどうにか定着するに違いない。

秋子よ、長い眼で物を、人を見よ、心を開いて見たものを一応天空に放げろ。

1977年12月31日
 大晦日である、思えば今年は私にとって特に記念すべき年だった。「あるはなく」-私はむつかしいことは一通り相京君にまかせて、ここの生活に振り回されながらうろうろと書き続けた、文体にも自信とはいえないまでも落ちつける気持。
 この季節になって文字どおり、一文無しのMばあさんは興奮して弟にお金請求の電話をかける、電話番号が間違っていて、いくらしてもかからない、間違っている。事務所に泣きついてようやく通じた。その結果5000円速達で送ると、それを聞いたとたん歓声をあげ、とめどなく万歳の真似を演じ出し、とどまる所がない。飢え渇えた者への慈雨だ。やっと安心。

 日記を書くことに気がついて、相京君の賛成を得てからずいぶん気持に活気をとり戻した私だったが、肝腎の日記になるものの材料が少ない、まるで無意味みたいな日常なのだ。日記にしても現象がはっきりしていること、材料に興味と面白みがなければ。だがその出来事の羅列では仕方があるまい。ただその雑事、出来事、人間のこころを指し示す認識なのだ。これは技術的にもむつかしく、永久に絶えない課題であろう。


1978年1月1日
 年賀状が沢山来た。85枚ほど。配達してくれた寮母が驚いている。年賀状は書くのが苦痛だ、決まり切った型どおりの文句なのだ。テレビでシャガールをみる。シャガールが現存の画家とは知らなかった。彼はロシヤ生れ、大河の辺りで貧しく育った、ポーランドに居住しているとき、世界大戦、ナチによるユダヤ人の迫害でユダヤ系の彼はアメリカに脱出するが、その前、パリに行き、労働、ただ絵画に対するおそろしい情熱、そして恋愛。そこでシャガールの原像、原色彩を発見、アウシュヴィッツの悲劇を知る。ピカソを知り、またパリに行きそこでゴッホの「馬鈴薯を食べる人々」-農民を見出す。彼は画くこと、そこに生きた-。

1978年1月2日
 年賀状がちっとも書けない、短い文章を-と思っても思い浮ばない。
 同室のMばあさんは待てども弟からの送金が届かないのでめちゃくちゃの興奮とヒス、おしゃべりで手がつけられない。おひる少しまえ3階の沢田さんが年賀にくる。干柿とキャンディを出してごちそうする。一時間ほどして帰る。彼女は私が新入寮のとき同室だった人で、ヒス気のないおとなしい何でも手まめに出来る柔和な人だ。日医大教授で兄弟で病院を経営していた病院に20年勤め、15人ほどの入院患者の食事から一切世話をして働き通した。中途で脊椎になり、一年間下谷病院に入院加療、その末が院長たちの勧めでここへ来た。
 テレビで野村万蔵・万之助などが花折りの狂言をやった。子猿がよくやって愛らしい。日本の能と謡に狂言があるのはおもしろい。Mが、つまらないとヒスを起しテレビをまわす、私がおこって直す、とうとう私は(つんぼの強情っばりばばあ)にされて、おこりながら終わった。あの人達の好むものはつまらなくて-。久木田さん、新聞のおばさんと廊下の小林君に信州リンゴを2つづあげた。

1978年1月3日
 おもち、おぞうに、のごちそうだ。お昼過ぎお風呂から上がってきたら、息子-娘の家に帰ったIさんが娘と息子に送られて帰ってきた。せめて3が日は遊んでくるだろうと思っていたのに。息子は日大の夜学を出て警視庁に勤めている。母の自慢の種だ。「どうも、おっかさんがたいそうお世話様になります。なにしろ、ごらんのとおりの強情っばりで言うことを絶対にきかない年寄ですから」「ほんとうに困ります、この通りですよ」とこもごもいう。みかん、そして羊カンなど3個づつのおみやげ。その場でお茶のおかしとしていただく。いくら待っても弟から送金のないMばあさんはしきりに2人にとり入ってお世辞を言っている。こんな良いところにきて何もかもけっこうで、私たちは年寄りのうちでも一番しあわせ、息子と娘は、ああいうばあさんですからどうぞがまんして面倒みて下さい、と繰り返して夕飯少し前に帰って行った。賀状を書く手がだんだんふるえて字が下手になった。何が仕合わせか、ああいう人たちの集団生活の中で何が-。
 言語障害の人がある。その人と私は食堂で隣り合わせだ。その人はやかましい人で、忘れものでお風呂でうんと怒鳴られたことがある。その人は病気でほとんど御飯を食べない。そのことで話し合って、気の毒とは思ったが他の人のように過食よりどれだけましか。帰ったらMに非常な激しさで、あんな女と決っして話しをするなと食ってかかられた、他の部屋にいた時、ひどく怒られたことがあるのだろう。そんなことに干渉される必要はない。ひとりで怒っている。愛もなければ喜びもない、テレビをみてゲラゲラ笑ってやまない。

1978年1月4日
 終日年賀状を書き50枚を越す。
 相京君から来信、帰郷し5日頃帰ろうと思う。来年(ことし)は<父・八木定義と養育院における今の日記><読者よりの手紙><古いノート>をのせて行こうかと思っている。いずれにしても、先日書くように勧めた八木定義・小川未明・有島武郎、女人芸術、農村青年社-満州、母子寮、の自伝とこれから始める日記の連載が主柱になります。続けてお書き下さい。私は5日に帰ってきます。15日前後に私宅にきて下さい。私は八木さんのお蔭で、生まれてこんな充実した月日を過したことはありません。私の内で言葉にならなかったものが、八木さんを通じて自身の中で整理されてきたような気がします。感謝いたします。(12月30日)
 私が相京君に発見されたか、相京君が私を体得してくれたか、奇縁、妙縁。どちらも似通ったものがあり、触発されたか。

1978年1月6日
私はMと同室になってから、この生活に絶望し、書くというたった一つの生き甲斐にさえ絶望しかけている。3分毎にくるくると人間が全く豹変する人間のおそろしさ。これはもう人間ではない、人を一瞬時も安定させることのない変幻極わまりない獣の感覚である。感応するとか、受応するしないの区別ではない。

1978年1月11日
 来信の中に三鷹の小谷秀三氏の手紙あり、前便に(美しく老いることを願っている)と書いてあったので、あの人にとって私の老い方など何の関心もあるものか、と思いながら読んでいくと、「あるはなく」に記された私のひたむきな生き方に大きい同意を示し、自分の生き方、一家の平凡な生き方は-

 小谷秀三氏の手紙-美しく老いることの難しさを乗り越えて、わが道をとことん追及しいてゆかれるお姿に心からの敬意を捧げます。小平の相京さんから貴女の人生記録と思想の通信3部を頂きまして拝読。お若い頃からご自分の人生を探究されて、その道をひたむきに歩まれた80年の人生の在り方に圧倒されました。私も私なりに若い頃色々な思いに迷いましたが、迷いをそのままにして、安易な人生を歩いてきてしまいました。-何か生活にコクがないようにも思います。比島での苦しみは-安易な人生で終始してきたことが本当の真実であったかどうかと疑問を持つことも-。「あるはなく」を拝読し、一筋の道を歩く貴女の姿に心をうたれます。
 数年前の拙宅での郷土を偲ぶ集いは-やはり古稀をすぎてくると、回想を喜ぶことが中心となります。孫と遊んでいてつくづく、無事に過ぎる子供達はこれでよいのだろうかとさえ思います。平和すぎて回想さえもない老後になりはしないかとさえ思います。失礼な言い方かもしれませんが、貴女にとって理解されない良人をもたれたことは却ってよかったことではないでしょうか。麦踏みのように、逆境こそが人間を成長させるとか。何だかそんな感じがします。
 相京さんはよくああいう事をされました。幾分の御協力をさせていただきました。またつづいて4号~5号を出版されることを待ちます。筆をとり、人生を考え、老いることなきお心に、重ねて敬意を捧げます。
 乱筆失礼  小谷秀三


1978年1月29日
 日曜だ、日付も曜日も何もかも忘れてぼんやりしている、いまに自分を忘れてしまうときが来やしないか。
 3度の食事を知らされ、卓について食べるということは一体何であるか、スチームがどこにも通って寒さ知らず、感冒の非を知ったら床をとって寝る。わたしなど年中お菓子だの果物などほとんど買わない。行住坐臥、ボリボリ、モグモグ口を動かし通しに動かしている人も相当ある。お茶は配給で、ただ。熱湯は時間によって汲んで来られる。この生活の子ども同士のような、単純な言葉のやりとりからくる争い、それさえなければここの生活は規則の中の自由、束縛の中の自由意志、などの微妙な兼ね合いでどうにでも加減できるみたいだ。規則を、束縛を感ずるときは感じ、用のないときは横を向けばそれで時の動きとともに流される、危機をのり越えるということもなく、環境慣れからずいぶん鈍化してゆくのだろう。おそろしいといえばおそろしいが、何よりも生理的に当然来る老化現象と解すれば-。とにかく私は老化に抵抗を、鈍化に抵抗する鋭化を-。意識してなるべく規則的に積極的にやらねばならない。とにかく近いうちに病院の眼科へ行く必要がある。老眼鏡の度が合わなくなって活字に骨が折れる。

1978年2月1日
 2月だ。2月、怠け、さぼり、連絡も何もせず、する気もなくとうとう2月だ。何の変化もありはしない。このところわが部屋は無風で無病だ。いまは私も彼女を無視して気にせず、語らず。感情とは無縁に、要するに当らずさわらずで無視しているからだ。彼女がどうあろうと、無視して我がまま通すに限るのだ。自分の挙措に一々注意を向けられる気配がないと知ると、一度に緊張がゆるんで何も張り合いがなくなるのだろう。自分に注意を向ける周囲というものは、そのまま存在の価値がなくなるのだ。
 とにかく忘却の速度の速いこと、この速度で記憶力が薄れてゆき、この生きている世界が茫漠と消えていく、そのことはおそろしい。


1978年2月5日
 明々寮3Fの老婆が3階の裏側から中庭のコンクリートの床に投身自殺したことを夕方聞いた。浴衣のねまき、前もって脚立を手すりの前におき、その上に草履のはきものをきちんとおいて、手すりの下は人眼につきにくい芝生(私達の部屋からは裏側)に跳び降りて頭骸骨と胸骨を折って死んだのだ。76才と聞いた。聞いたのは告別式のあった翌日で何も知らないあいだの死であった。弟が一人だけ参列と聞いた。


1978年2月20日
 ながく日記を遠ざけた。このあいだ感冒(流行性)というふれこみにしていたが、本当はスランプというより外ない状態であった。ここの空気になじんで生活の雰囲気に慣れてくるに従って、私の唯一の武器とも鋭気ともいうべき闘いの意志・意欲が少しつつ剥がされていくのはわかる。これではいけない。ここにいることが何物にとっても私には無意味に思われる。欲しいのは肝の底からの闘志、図太い闘志である。これがもし磨滅する、あるいは平和の旨酒に唇をふれること、これが一番の敵でなければならない。

 ところがいまの私の状態はより多くより甘美な平和ではないか、常に絶対の現実に対する不満、孤独の不安、現実に対するというより自己に対する暗黒な不満、これが最もわたし自身の深部にある不満と焦燥ではなかったか。何も強く捉え得ない自己への不満である筈だった。ところが、この自己に対する不満の奥底には私自身の生活との強い繋りがあったのではないか、満たされざる幻想、内面とともに刻々と迫りくる貧と空虚との絶えまない追跡への闘い。内面の空虚との喝望との不毛の闘い。

 そうした不毛の闘いであった、と思うようになった。では現在はどうか。それを想うことは私には大きい変化である。この異常ともいうべき他人との共同生活、心のふれあいもなく、言葉の喜びもない、美しいもの、温かいものへの感動のない、ただ生きているという物理的な、生理的な無感動な存在にしか過ぎないのではないか。変化から変化へとその時の感情のままに、感傷のままに生活を衝動的に生きてきて、いまこの人生の終焉に近づいて、これほどの空虚な場所に身を置いて、あたりを見回わして、「さて」と、わが安全な場所を改めて眺めまわす。

 私自身、低迷、文章への懐疑などから、まず身近に迫っている問題、沢山の人々に対し返事も書かず、そのままにして省みないこと、この返書の負債感の重みはどうしようもない。この重荷をぶち破って一気に魂の接触に迫りたい。それを実行しなければならないという切端詰ったところに来ているのに、私自身の心理がどうにもならぬ沈滞の状態にきているのだ。どうにも打開できぬ沈滞、スランプでしかないのだ。

1978年3月5日
 さて、年老いて、最後の終焉も近づいてきた私は、いま何を為すべきか、わがこととして、わが周囲のこととして、悦びも悲しみもともに感じ、ともに生きる、その生きることをいまここで掴み、いまこの時点で生きる出発点としなければならない。生物として、足りないものの一応ない。生きる条件の整って、別に不足のない今の境遇に安住していいのか。物足りて何か想う。与えられるものを感謝して受け、感謝の祈りを捧げつつその日その時を生きよ、と。衣食住、欲っするものは与えられ、たとえその質が問われたとしても、別に不満を洩らすことは許されるのであろうか。最低として許されたとしても、それを当然の恩恵として甘受していいのであろうか。


1978年4月4日
 私は新入の人を迎えて感慨深い。この前、もう1人ふえる(部屋に)ことを宣言されたときから寮の職員たる人にいうべき言葉を用意していたのだ。「Mという女性とともに生活する限り私の生活は滅茶苦茶だ、この私を生かしてくれている<物を書く>という仕事は中絶しかあるまい」と思って、私はかなり強硬に抗議した、どうしてあの人を精神病者の思考構造者と同じの手つけようもないあの人をなぜ、いつまで私たちに押しつけて置くのか-。
 しかし、事務所では忍耐の一点張りで押しつけたままであった。が、一緒に暮してみると堪えられない、というまでの嫌悪、一瞬も無言で過ごすことが出来ず、目のあいているかぎり何か喋べり通さなければ一時も我慢ができないのだ。その他、その粗暴な感情とふるまいは忍耐の底辺にいる同居者を苦しめて離さない。私は思考の上にも、この自己犠牲をもっともっと深めて行ってみようと決心した。そうして思った。彼女はいつも自己しかない、欲望にも喜怒哀楽の感情の上でも裸のまま、ありのままである。他人の目、耳、感情などに支配される必要を認めない、いつも裸のままのいつも感情をむき出しにしてどこでも独歩であった。その中に、何とはなしの致し方ない愛嬌がある。悪意の中の曲った愛嬌か。

1978年7月15日
 昨日、14日、隣室の松尾輝子さんが歌集、逝かれし良人との思慕のうた、神、仏、幻影のあくがれ、そういう文集だ。まず亡き夫君はまだ30代ぐらいで永眠されたらしいが、愛妻を想うこと切。妻に寄せる愛絶の情はもう非常なものだ。その切々たる思慕を書簡に表現している見事さ。ここまで妻を識り、愛し得る男性は少なかろう。ただ、その愛絶の良人はヨーロッパ各地を回って自転車の売り込みを本分として、虚弱な肉体を酷使した人だ。しかも自転車の売り込みという強行日程で虚弱な体の不安を秘めつつ、大企業の利益のために早逝を覚悟の上で酷使し、その間自己の仕事にたえず不安を感じていたのだ。自動車ならぬ自転車の売り込み競争とは。どうしてそれを○○(2字不明)しなかったのか。しかし、この人の信仰は夫婦の愛を超え、さらに我が子の死さえも超えて全身が燃えていたのだ。歌集には随分自由な、佳いものがある、大きな何か、悠々たる何かを持っている人だ。

1978年7月16日
 夜、隣室の松尾輝子さんと面会室で定刻まで話す。彼女は私が貸してあげた「あるはかく」の5号までを読んだという。そして、彼女は「アナキズム」とは何ですか、という質問から始まって、私の経てきた軌跡を話したら、何か感じたのか、何からどう聞いたら良いか分からないらしかったが、久しぶりで生きた社会の勉強をさせて頂いて、久し振りで人間社会へ帰ったような気がします、と言っていた。彼女は類いまれなよき良人をもち、熱愛され、富豪ともいえる家に嫁ついで、その夫が結核になり財産も凡て注ぎこんだ末に死なれ、子供も死に、ここへ送られてきた。幻影の仏さまは絶対である、夫の生前から、生花、茶湯、書道、俳句、日本画の修業をして、いまも相当その名残りが光っている。絶対の仏と神を信じ、その信仰に全く安心し没入している。その人が私の思想を知りたがり、興味をもっているとは。だが軽々しく人を信じてはならない。彼女は私の文章の若さと男性めいた断定の仕方などに興味をもっているらしい。



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