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●第41夜 埴谷雄高と八木秋子

 「あなたはキトクな人だ」という埴谷さんの声は今もわたしの耳に残っています。

 1983年の暮、八木秋子が亡くなった報告をしたことで、5年にわたって故郷の生椎茸を届ける行為に、もちろんそれはわたしが勝手にしたことですが、終止符を打つように言われ、「はい、わかりました。いろいろありがとうございました」と言って、辞去する玄関先でかけられた言葉でした。
 「キトク」ってどういう字を書くのだろうかと思い、家に帰って辞書を引いたら「奇特=非常に珍しく、褒めるべきありさま」とありました。
 
埴谷さんがなくなって10年たったこの秋、県立神奈川近代文学館で「無限大の宇宙-埴谷雄高『死霊』展」が11月25日まで開催され、おだやかな秋の一日、横浜の文学館を訪ねました。会場の展示は『死霊』を中心にして構成され、埴谷さんの声が展示を見ているあいだ遠くから響いていて、とても懐かしい気分に充ちていったのでした。流されていた声は、「縊り残され花に舞う-閉ざされた現代を撃つ表現は可能か」(1976年於京都大学時計台ホール)と名付けられた集会でのもので、一緒に講演した吉本隆明が後に「一点一画も揺るがせにしない講演内容を聞いてびっくりした。この人は衰えを知らないなと思った」と書いていた講演です。また、その集会は5年前に39歳でなくなった作家高橋和巳を偲ぶ集まりでもありました。高橋について埴谷さんは「作家で妄想とアナキズムを共有する人物」と書いています。そして、その頃、清瀬の八木のアパートを訪ねていたわたしにとって「より深く考えろというバトンがリレーされる」という埴谷さんの講演のタイトル「精神のリレー」は、人生で最も重要な言葉となっています。

 じつは、八木秋子著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』を発行した年(1978)の秋、わたしは埴谷さんを訪ねて八木秋子著作集Ⅱの帯文を書いていただきました。

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◆八木秋子著作集Ⅱ『夢の落ち葉を』帯文
 八木秋子さんが、すでに遠い50年ほど前、書かれたクロンシュタットの反乱も、マフノのウクライナ・コミューンも発表当時私はすぐ読み、また、私自身もそれらについて書いたので、忘失しがたい名になったけれども、八木さん自身については何ら知らなかった。ところが、今度、個人通信を読むと、八木さんは、それらの文章を書かれるずっと前から酷しい自立の道をひたすら歩みつづけ、そして、現在にいたっていることを知った。それは極度な困難の持続の道であったけれども、しかも、その困難こそ自立の場に他ならぬと長く長く立証しつづけたことに、八木さんの本質的な先駆性が存する。

*クロンシュタツトの反乱:
 1921年3月にロシアの軍港でおこった反乱。「すべての権力を党へではなくソヴェトへ」を合言葉にボルシェヴィキ党独裁に反対する労働者・兵士の権力を樹立したが、トロツキーの指揮する赤軍によって攻撃され粉砕された。埴谷雄高はこの反乱を党独裁に抵抗する先駆的なたたかいとして高く評価し言及している。『埴谷雄高語る』より 河合文化教育研究所発行1994
八木秋子(34)は『1921年の婦人労働祭』として「黒色戦線」に発表。1929年12月号。
*ウクライナ・コミューン:
ネストル・マフノらによるロシア革命時のウクライナ農民を中心としたコミューン革命。「史上初めての自由共産主義の原理が解放ウクライナに出現し、自治管理が進み、地主と争った土地はコミューンあるいは自由労働ソヴィエトとして、共同耕作されていった」【千夜千冊:941『神もなく主人もなく』(I・II)】より。これも赤軍によって弾圧される。八木は「婦人戦線」に「ウクライナ・コミューン」として2回にわたって発表。1930年3・4月号。
*埴谷雄高:
 1929年(19歳)「ソヴェット=コミュン」を起稿。文献を借りに石川三四郎を訪問。レーニンの『国家と革命』転倒を目指して「革命と国家」を構想するも未完 「無限大の宇宙-埴谷雄高『死霊』展』より2007
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 なぜ、埴谷さんに帯文を書いていただいたか。1978年の初夏から秋にかけて八木は感冒にやられて2度ほど倒れ、加えて療養中にベットから落ちて大腿部を骨折。そのためボルトで固定する手術を余儀なくされ、寝たきりの重症病室に収容されていました。その数週間、彼女の意識はずっと混濁しており、訪ねていくと「良く警備を突破してきたね」と警察に収監されているような妄想に陥っているのは2度や3度のことではありませんでした。

 そのため、長年彼女があたためていた自伝風な幼年期の思い出を綴った作品を著作集Ⅱとして発刊しようと急ぎました。83歳という高齢もその理由の一つでしたが、事態は切迫していました。
 
 その編集を進めていたある日、珍しく体調が安定していたのでいろいろ話が進んだおり、「いま一番会いたいのは有島武郎だ、生きている人物なら埴谷だ」と言った発言にわたしはハッとひらめきました。「そうだ、埴谷さんに帯文を書いてもらおう」と思ったのです。というのも、たまたま通信の読者に平林たい子を研究している方がおり、その方が「戦後の埴谷雄高と平林らとの対談で、戦前、アナキズムの農民運動の実践活動に入り治安維持法で逮捕された八木秋子の消息をたずねる埴谷さんの発言があった」というのです。わたしは埴谷さんがアナキズムに深い共感を抱いていることも知っていたし、もっとも尊敬する方でもあったので、思い切って帯文を書いていただきたいという手紙を送りました。

 すると、埴谷さんから吉祥寺の自宅への道順を書いた地図が届いたのです。「3分の見通しでやる時もある」という大杉栄の言葉。お訪ねしてから帰るまでのことは良く覚えていませんが、夢中で八木の通信や現況を話し、帯文を依頼したと思われます。最初は断られました。しかし、前日埴谷さんを訪ねるというわたしに対し、病床の八木が「埴谷さんかぁ、武田泰淳の死に際しての文章はよかったねぇ、それと武田百合子の文章もとてもいい」と語った録音テープの声を聞いてもらいますと、埴谷さんは「百合子さんの文章を褒めてくれている声を聞いたのがうれしい、では、書いてみましょう」と言ってくださったのです。帰りには通信の印刷費のカンパもいただき、夢を見ているような気分でお宅を後にしました。

 数日後、さっそく文章を送って下さりました。わずかな謝礼を渡すことも失礼かと思い、そのお礼として田舎の特産物を毎年の暮れに届けることを自分に課したのでした。
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 ところで、不思議なことがあるものです。神奈川近代文学館の会場の入り口に展示されていた埴谷さんの幼い頃の写真を眺めていると、「相京さんじゃあないですか」と声をかけられました。見ると、埴谷さんとも関わりの深い20年来の年上の友人たちで、一人はカメラマンの菅沼清美さん、もう一人は真辺致一さんでした。

 真辺さんと初めて出会ったのは、1987年、共通の先輩である笹本雅敬さんが亡くなった時のこと。城西教会での葬儀から新宿花園神社社務所での追悼会、そして追悼集『追悼 笹本雅敬』を発行するまでの作業を背負った最も親しい人物でした。平日の午後に、これほどばったり偶然に会うとは、埴谷さんが引き合わせてくれたに違いないと、展示を見終わったあと、中華街で久し振りに酒を酌み交わしました。
 
☆笹本雅敬:
 1966年10月19日、ベトナム反戦直接行動委員会はベトナム戦争に関与している国内の兵器工場を襲撃したが、その中心的メンバーであり、アナキスト。

 笹本さんの追悼会は1987年7月12日新宿花園神社社務所で行われました。その際、埴谷さんは追悼の文章を寄せてくれました。
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 ◆埴谷雄高
 【笹本君追悼】
私はまだそれほどの年齢でもないのに、椅子に長く腰かけていると、疲れるばかりでなく、その疲れが翌日まで持ち越すことになったので、訣席させていただき、この手紙をお送りします。
 笹本君とは古い知り合いですが、個人的なつきあいはなかったので、この会の世話人を引き受けたとき、はじめてその名を知りました。尤も「雅敬」をなんと呼ぶのかいまでも解りませんけれど。
 私達の多くは、自分独自のアナキズムを持ちつづけていると、私は思っています。ここで、私が、自分独自、という注釈をつけたのは、私のアナキズムの傍らには、マルキシズムふうな分析、そしてまた、この宇宙存在と私達人間を含む全生物に対する薄暗いニヒリズムも取除けがたく横たわっていて、私の中軸にあるアナキズムは決して全的に幅広いものではありません。
 従って、全的行動者としてのアナキストと見える方々に対しては心から尊敬の念をいだいています。例えば、自分の任務をはっきりと自己規定して、東西のアナキズム文献を復刻している大島英三郎さんを私は尊敬しております。
 笹本君についての最初の記憶は、すでに遠い昔、或るバアに腰かけている私の隣りに坐った彼が、当時、絶版になっていた『死霊』の海賊版を出したい、と申し出たことにはじまります。勿論、著者である私が海賊版を容認することなどできませんが、笹本君に何かの計画-この海賊版はまことに小さな計画ですけれども、次第に大きくなってゆく計画の才能があったことは、その後、二、三回、私の家を彼が訪れたとき、必ず、何らかの計画を携えてきたことで明らかです。
 その一つは、人民戦線時代のスペインの人間か、或いは、映画を来日させるという計画で、他の一つは、アナキズムの雑誌についての計画を私に説明することでした。つまり、或る計画を述べるという目的なしに笹本君が私の家へ来たことはないのでした。
 そしてまた、この追悼会の追記に、笹本君が自由思想社という営利を度外視した出版事業を行っており、その在庫処理に協力してほしい、と述べられています。
 アナキズムが多くのひとびとの深い心の奥底にありながら、いまは少数者の運動というかたちにとどまっていることは、この自由思想社にも、また、大島さんの黒色戦線社にも見られるところです。けれども、私達の心の奥の渇望の深さは底もないもので、たとい少数者の運動であっても、その運動自体がとどまることはあり得ないことです。私自身もその運動の遙か遠い隅で小説を書いています。
 この笹本君を追悼する会は、多くの計画をなしとげ得ず若くして逝った笹本君を追悼するとともに、また運動の持続でもあって、このような私達の心の深い渇望が未知へ向って決してとどまることもないことを述べて、この手紙を終わりたいと思います。
       埴谷雄高  1987年7月

*その後真辺さんとは、映画評論家としても知られている松田政男さんの紹介で一緒に埴谷さんの自宅に伺い、朝まで語り明かしたことがあります。なお松田さんは埴谷さんの没後も「アンドロメダ忌」を主宰しています。
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 いまこうして、埴谷さんとの決して多くない出会いを辿ってみると、不思議なことに10年ごとの出会いであることに気付きました。およそ30年前の八木秋子、20年前の笹本雅敬さん、10年前の埴谷さんの死。そして現在の八木秋子の注釈で触れている事実です。

 この際、埴谷さんとの関わりをもう少し広げて触れてみたい気分になってきました。10年前、新宿区御苑にある太宗寺での埴谷さんの「お別れ会」の光景も思い出されます。寺の境内にはたくさんの方が階段に並び、本堂の中に入ると埴谷さんの遺体が安置されており、一人ひとりが別れを告げられるようになっていました。
 
 毎日新聞の「葬送」というコラム欄にその時のことが書かれていました。とても印象深いので、その一部を抄出したいと思います。
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☆葬送
 自身の「ボケ」をすら観察の対象とし、死の床でも絶えず声を出して、自身を奮い立たせた。意識は、最後の眠りに入るまで明晰だったという。
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 その「お別れ会」は、献花の他は遺志通り「スシとビールでにぎやか」に。87歳の最期まで闘った作家をねぎらう温かい、カラリとした会になった。「死霊」四章途中までが連載された雑誌「近代文学」の同人、本多秋五、小田切秀雄、中村真一郎3氏のほか、吉本隆明氏、小川国夫氏、黒井千次氏らゆかりの文学者、読者、出版関係者ら約700人が参列した。
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 死去11日前の2月8日、作家は「くやしい、くやしい」とつぶやいたという。未完の「死霊」に対する思いと同時に、年齢によって消滅する「不完全な自然」としての自身の体には、絶対に屈服しないといった、生涯貫いた「反自然」思想の、最後の表現であったに違いない。(脇地炯)
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 この文章を書いた脇地炯さんは当時毎日新聞学芸部の記者で、埴谷さんのインタビューを何度も手がけていた方です。実は埴谷さんの帯文を得たことが縁になって、八木秋子著作集が完結した際、毎日新聞学芸欄の一面を使って「八木秋子の軌跡-戦前戦後の思想風土に抗し続ける」1981・7・1 西川祐子(参照:第24夜)を企画してくださいました。また、八木秋子が1983年になくなった時、脇地さんに連絡したところ、その西川さんの文章が効を発揮して、脇地さんの予想も超える「顔写真入りの訃報記事」扱いになって大きく取り上げられました。翌朝刊で全国紙の多くが写真入りの八木秋子の訃報を載せるといった第2夜の事情がここにあったのです。なお、脇地さんとの出会いは、たまたま住んでいた家が近くで、子ども同士が遊び仲間であったのがキッカケ。これがその訃報にいたる「ものがたり」の出発です。すべて偶然ですが、埴谷さんの帯文がそのおおもとにあることは間違いありません。

 さて、第41夜はすっかり埴谷さんをめぐるいろんな偶然の出会いを書き綴ってしまいました。こうなったら埴谷さんの「笹本君追悼」に出てくる黒色戦線社の大島英三郎さんにも触れたいと思います。
 大島さんとの初めての出会いは、1967年、わたしが群馬県の前橋で浪人(19)していた頃に遡ります。地元でのデモで一緒になり、大島さんの皇居発煙筒事件を経て(埴谷さんは弁護側の証人として法廷に立ちました)、印刷所のバルカン社(参照:第32夜)で、印刷を発注する立場と印刷工のわたしという関係で再会しました。バルカン社では埴谷さんが読んだという石川三四郎の『マフノの農民運動』を含め数多くの復刻本をわたしは印刷製本しました。これは八木秋子と出会う5年前のことでした。

 そして、大島さんはその後、八木秋子の通信や出版活動を遠くより見守りつつ、八木たちが1930年代に活動した農村運動、農村青年社関係パンフの復刻をしたいという意思を粘り強く語り続けました。結局八木秋子の死後、かつて農村青年社運動を一緒に推し進めた同志と一緒にわたしは資料集を完成させましたが、黒色戦線社はその発売元を引き受けてくださったのです。『農村青年社事件・資料集』の編集は10数年にわたって続けられ(完成は1994年)、その中心的メンバーの星野準二さんとの共同作業の回想はまた別の機会にゆずることにしましょう。同メンバーの和佐田芳雄さんたちとの想い出も尽きることはありません。その当時のメンバーは今年102歳となった信州小諸の南沢袈裟松さんを除いて他界されましたが、南沢さんとの交遊はいまも続いています。

 本当に埴谷さんとの出会いは、わたしにとって考え方ばかりでなく、具体的な事実として言葉にならぬほどの影響をいただきました。最後に一番好きな言葉を引用して埴谷さんと八木秋子をめぐる話を終わりたいと思います。
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☆『老年発見』NTT出版 1993
 松岡正剛…そのときに、われわれのコミュニケーション手段とか表現手段を、言葉だけに限っておくのがもう危ないという気がしますね。
 埴谷雄高……そうですね。言葉はただの先駆の先駆の先駆に過ぎないわけです。花火はバーンと弾けたらポンポンポンポーンと火花が宙空へ散って行くわけですよ。火花が散る最初は言葉で投げるだけであって、それからどんどん青、赤、黄、紫の火花を散らして最後に暗黒になる前にさらに何かを閃かせる。これがこれからの新しい役目なんですよ。その新しい役目を見通すということが必要です。

 ★暗黒になる前にさらに何かを閃かす

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*昨日、その頃の通信類を整理していたら埴谷さんからの葉書を見つけました。
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 ☆相京範昭様
 長いあいだ、御苦労様でした。八木さんは姪の方の所へ行かれるそうですが、八木さんの健康も祈っています。私自身、日毎に老化していますが、気にしません。
  埴谷雄高   1982・9・8

 これは八木秋子が亡くなる前年、姪の方に引き取られて世話をしていただくことになったことを報告した「あるはなく休刊号」に対する葉書です。

 慈愛に満ちた言葉、そして「気にしません。」という意気。
 いま、わたしの内に響くものを忘れず、「心の深い渇望」を黒色振動として未知に向けてリレーしていきたいと思います。

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