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      <title>■注釈（付け加える）―Navi.相京範昭</title>
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         <title>●第５０夜　【注釈】をむすんで</title>
         <description>９月６日は八木秋子の誕生日です。
八木秋子の注釈の第１夜から第４９夜までを「むすび」、新たな出立としたいと思います。

この「注釈」を書き始めてから「八木秋子」に関心をいだいて問いかける新しい読者に出会う機会が多くなっています。それは、わたしにとって、ずっと心に期していた「八木秋子の甦り」であり、次の「ものがたり」が始まる気配が間近に迫って来ていることだと感じてきていました。

わたしが八木秋子に関わり続けて以来、ずっと心していたことは「アナキスト」「女流作家」「女流評論家」「女性農民活動家」などというレッテルを貼られて歴史年表に飾られ、セメントで固められて葬り去られるような無惨な姿にさせないということでした。

読むものに「どう生きるのか」と刃を突きつけて問い続ける存在として甦る八木秋子とずっと併走したいということでもあります。

その予感のようなものが世間に形となって現れてきたのは、残念ながら今年の春になくなった南澤袈裟松さんの『栗ひろい』・出版記念会や葬儀、そして「ちくま」での保阪正康さんの連載などがその一つでした。

そして、西川祐子さんの『日記をつづるということ』吉川弘文館 が発刊されました。そのサブタイトル「国民教育装置とその逸脱」の「逸脱」は八木秋子であると書かれていて、感銘深く読みました。特に、「性」＝関係性という点はその通りで、わたしが八木秋子と接している時は、息子であったり、同志であったり、父親であったり、もちろん母性も入り交じった多重多層な顔を見せていたという自覚がありました。それは彼女が＜「時」に踵をつかまえながら＞疾走し続けた数年、出会ってからの八木秋子と一緒に走り続けるにはそうするしかなかったし、だからこそ、交叉した一瞬に化学反応を起こした相京と八木の世界が存在したのだろうと思います。しかもそれは、今回、西川さんの著書を読んであらためて思ったのは、わたしにとっては母親との関わりもそうだった、子どものころからそうだったと思いを深くしてしています。

さて、第５０夜はこれまでの「注釈」を振り返って「むすび」、新たな出立のために備えたいと思います。なお、「注釈」本文の一部分をそのまま引用する場合が多く、以下を略していますことご承知下さい。また、少し読みやすいように手を加えています。


★第１夜
八木秋子のプロフィール(1895年～1983年)

１９７５年９月１６日、八木秋子と出会う。１９７７年８月個人通信「あるはなく」発行へ。


★第２夜
毎日新聞などが伝えた訃報

１９８３年４月３０日逝去。全国紙、特に毎日新聞は「戦前、婦人解放に活動」と。


★第３夜
脱走から通信発行へ

１９７７年１月３０日、八木（81）老人ホームからサンダル履きで脱走。相京宅へ。


★第４夜
訃報の注釈

昏睡に陥る前の数時間「書いた、書けない、書きたい」と走馬燈の如し。


★第５夜
出会いと背景　その壱

突然アパートを訪問。競馬人社長、白井新平氏に同行。偶然の出会だった。


★第６夜
出会いと背景　その弐

森崎和江の影響。他者との裂け目こそ出立の原点では？ 必然的な出会い。


★第７夜
出会いと背景　その参

１９７５年「ベトコンノート」。その「こころ構え」に今の相京も感慨深い。


★第８夜
出会いと背景　その四

清瀬の栄荘「４畳半独居生活」の八木秋子を何度か訪問。７月李枝誕生。


★第９夜
出会いと背景　その五

１１月、李枝の初外出先は清瀬の栄荘。老人ホーム入りで八木秋子迷う。


★第１０夜
注釈:八木秋子の周辺の人たち－川柳作家児玉はる－


★第１１夜
出会いと背景　その六 八木秋子の場合

老人ホーム入寮までの顛末。通信発行の動機は竹内好の死と埴谷雄高。


★第１２夜
八木秋子老人ホーム養育院へ（1976年12月10日）

身の回りのもの以外は私物厳禁。原稿・日記・読書ノートの保管を引き受ける。


★第１３夜
八木秋子個人通信「あるはなく」第１号
「あるはなく」第1号　発行にあたって


★第１４夜
題名「あるはなく」への注釈。

★第１５夜
八木秋子は投書がきっかけで新聞記者に

★第１６夜
島崎こま子と八木秋子

★第１７夜
島崎藤村と八木秋子

★第１８夜
清沢洌と八木ふじ

★第１９夜
小川未明と八木秋子

★第２０夜
小川未明と大杉栄、そして八木秋子

★第２１夜
家出前夜

★第２２夜
家出


★第２３夜
「あるはなく」第1号発行と有島武郎

このように、並べてみると見えてくるものがあります。まず第一に、「八木秋子との出会いとそれぞれの背景」からこの注釈をはじめるには理由があったということです。

　ふつう、プロフィールとして注目されるものは、八木秋子にとって「女人芸術や婦人戦線」などの女流作家、評論家としての顔であったり、「農村青年社」時代の女性活動家としての姿です。しかし、わたしは評伝のように彼女の生涯にそって時系列的に一つひとつ注釈を加えようとは思いませんでした。というのは、わたしが出会った八木秋子は、都下清瀬市の４畳半に独り住む老人であり、老人ホームに入ることを余儀なくされていた世間的にいえば「ふつう」の人物だったからです。

　「ふつう」の人物である八木秋子が醸し出す格別の雰囲気を察知し、彼女との共同作業の場を作りたいとして始まったのが、八木秋子個人通信「あるはなく」でした。ですから、その出会いは偶然とはいえ、それぞれにとっては事情(背景)があり、必然化していったと言えます。だから当然この注釈も、「あるはなく」の発行が主人公となって進んできました。
　ついでに言い添えますと、その個人通信の内容にも優先順位があります。まず「本人が執筆したもの」「本人が話すことを聴き書きしたもの」「かつて書いたもの」。通信に掲載するにはこの順番を間違えてはならない、それに尽きました。それが、八木秋子の尊厳を踏みにじらないことだ、と考えていました。

　続いて、第１３夜から第２３夜までは「あるはなく」第１号についての注釈が続いています。第１号で触れている「なぜ子どもを置いて家を出たか」について、八木秋子がそのころに出会った小川未明、有島武郎、そして島崎藤村や八木フジ－清沢洌、大杉栄などからの、直接・間接的影響があったという注釈を加えました。その際、予想していたことより遙かに強く実感したことがありました。

　わたしは大正という時代、特に八木秋子にとっての２０代－１９１５年(大正4)～１９２４年(大正13)－、とりわけ結婚して子どもを産み、健一郎をおいて家を出るころ、時代に大きな裂け目が見えたような気がしています。大きな時代であった明治が終わり、欧化思想一辺倒で覆われていた蓋がはずされ、垣間見えた「景色」があるように思えます。その後の軍部・マルキシズムの昭和にはまた再び、力によって押さえつけられていった世界、その世界が大正の真ん中の数年間に噴き出したように思えるのです。八木秋子が出会った人物それぞれが時代と格闘してわれわれに見せているのは、その「景色」ではないかと実感しました。それが何よりの収穫でした。


★第２４夜
「あるはなく」第１号発行。その反響

　八木秋子通信「あるはなく」は１９７７年８月１３日、老人ホーム養育院の４人の雑居部屋にいる本人のもとに届けられました。八木秋子の養育院での日記「転生記」には、それを何度も読み返し、次に何を書くかという構想に苦闘している状況が読みとれます。その際、力づけられたのは通信を読んだ人たちからの手紙でした。


★第25夜
パサージュと侠

　第２５夜は、「あるはなく」第２号（1977年）に掲載した、編集人としてのわたしの文章を載せます。そして、八木秋子がなくなって２年後の１９８５年に、第１号発行当時を振り返った文章を加えます。渦中にいた時は夢中でしたから当然ですが、およそ１０年後に書いた文章も事情の説明にはなっているけど、いま一つぴったりしないという思いがしていました。ところが、この注釈を書く動機となった「パサージュ」という言葉に出会った時、八木秋子はここから考えることが出来るような気がして現在に至っています（第１夜）。
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★パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である。境界をまたぐことである。ベンヤミンはパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事（Werk）にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものだ。しかし「本」とは本来はそういうものなのである。
千夜千冊0908『パサージュ論』ヴァルター・ベンヤミン(全５巻)
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　おそらく、その頃のわたしと八木秋子が共有した空間を言葉で表せば、ここで語られている「パサージュ」をかなり意識していたような気がします。それは「自在」であったり「自侠」という言葉も引き連れている世界です。著作集Ⅲを『異境への往還から』とし、帯文を「さらばわれ、わが生涯を不安と迷いに貫かん」とした理由もそこにあると、いま思います。

　帯の文は八木秋子の「独り居日記」から採ったものですが、まさにその八木秋子の日記自体が「日常への異常な興味」を書いたものでした。そして、いつも自己否定し「変わらなければ、変わらなければ」と言いつづけてわたしたちを刺激し、未完の作品を書き続けた八木秋子の時間はいいつも「通過点」であったと言えます。そして、「本になろうとしている過程そのもの」だったと思います。

「パサージュ」と同様、たいへん気に入っている言葉が「侠」です。

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★千夜千冊1149夜『中国遊侠史』
　司馬遷は、遊侠はその行為が仮に社会の正義と一致しないばあいでも、言ったことは必ず守るし（守）、なそうとしたことをやり遂げる意志があって（破）、なにより自分の身を投げうつところに、「存と亡」の境目を奔走する爽快感のようなものがある（離）、と評価した。
　つまり挟み打ちではなく、連なっていく。それが侠なのだ。賊か侠は紙一重のところもあろう。けれども、その紙一重を超えていかないで、なんで人生、面白かろう！
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　　◇愛侠としては　まったく 異議ナシ です◇


★第２６夜
注釈：八木秋子の周辺の人たち―川柳作家児玉はる―


★第２７夜
わが子との再会 1977/9/20

　１９７７年８月１３日、八木秋子個人通信「あるはなく」第１号は老人ホーム都立養育院にいる八木秋子のもとに届けられました。そして、「読者から寄せられた評価が起死回生のバネにならんことを願いつつ」と、８２歳の彼女は力をふりしぼり、「親と子の再会」（敗戦直後のわが子健一郎との再会）を書き上げました。その原稿の完成は「９月１１日」となっています。第１号が届けられてから１ヶ月も経たない日に完成させたその集中度は、わたしの予想をはるかに越えるものでした。これはやはり、一層きちんとつきあわなければならないと、気を引き締めた覚えがあります。読んでみて思ったのは、健一郎のことは心の中で何度も何度も繰り返して書いたに違いないということでした。まさに、時機を得た作品だったと言えるでしょう。


★第２８夜
八木秋子関連出版物


★第２９夜
対話１９７７年９月２３日

★第３０夜
対話１９７７年９月２３日（２）

★第３１夜
対話１９７７年９月２３日（３）

第２９夜から第３１夜までは、第１号発行の予想以上の反響に興奮している八木とわたしの対話（２ヶ月後）を掲載しました。そして、読者の反響に力を得て、わたしは翌年春発行することになる『八木秋子著作集Ⅰ・近代の＜負＞を背負う女』製作に向けて、八木秋子の著作物探索ためにあちこちの図書館を走り回っていきます。一方、八木秋子は長い間書こうと思ってきたものを、ようやく「あるはなく」という場を得て、その作業に向かっていきます。


★第３２夜
注釈:八木秋子の周辺の人たち－翻訳者はしもと・よしはるさん－


★第３３夜
アブダクション

第１号の発行から翌年の春の著作集発行までの間、通信「あるはなく」の発行を続けながら、どんな思いを抱きながら八木秋子との関係を考えていたか、その根源と思われるものを探ってみたいと思います。結論から書きますと、人との「関わりの方法」という点において、パースの言う「アブダクション」＝推感編集【千夜千冊1182パース著作集】ではないかということを書いてみたいと思います

相手との関係の中において、アブダクション＝推感編集しながら、その人物の歩む先を誘導し、「場」を提供してきたと思います。それがわたしは編集だと考え、そこを墨守してきました。

その時、何を頼りにしたかといえば、それは言葉で確かめ合う以前の世界を、互いに信頼し合っていたと思います。ではなぜ、わたしは「言葉になる前の世界」にすーと入ったのかと考えました。『パースの思想』有馬道子 岩波書店 には、補論として「老荘の思想」が加えてありました。そして、「パースと老荘には言語と実在（または、かたちとカオス）について深く目覚めた意味の思想としての根源的な共有点」があると書かれてあり、あっ、そうなのかと合点がいきました。ここでわたしの好きな「老荘」が出てくるとは思いませんでした。

　土蔵で寝食をともにしていた祖父や近所の青木園長先生が、３歳や５歳だったわたしに語りかけたものは、おそらく人間の在り方に向かう大切なものであり、その雰囲気こそわたしは大事にして来た、言葉にしがたいその世界であり、そこに絶対の信頼を寄せていたのではないかと思います。
パースの思想・アブダクション。
　パサージュに続いて良い言葉にまた出会いました。


★第３４夜
先達からの眼差し

「パサージュ」と「アブダクション」。
もう少しこの二つの言葉にこだわってみたいと思います。
まず、千夜千冊からあらためて引用します。

□パサージュ
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◆パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である。境界をまたぐことである。ベンヤミンはパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事（Werk）にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものだ。しかし「本」とは本来はそういうものなのである。
　◇千夜千冊0908『パサージュ論』ヴァルター・ベンヤミン
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□アブダクション
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◆パースは、すべての認知と認識のプロセスが相互に連携的で、総じて連合的で、すこぶる関係的であることに、すなわち【編集的である】ということに確信をもっていたのだった。
　このことをパースは思考における「シネキズム」（synechism 連続主義）ともよんだ。
　　　---------------------------------------
◆パースのアブダクションは、帰納法をとりこんだ仮説形成型の推論の総体を示していった。与えられているものから与えられていないものに思考が進むのが推論であるのだが、アブダクションはそのプロセスを順逆両方に動きまわり、「本来はこのように与えられていた仮説があったのではないか」という方向を仮想的に樹立してしまうのだ。
　そのためパースは、アブダクションにはレトロダクション（遡及的推論）の特徴が濃くあらわれるというふうに見た。
　これはたんなる推論の理論ではあるまい。むしろ「発見のための推論」というべきだろう。実際にもパースはアブダクションこそが「発見の論理」ではないかとも考えた。ぼくがもっとはっきりさせるなら、アブダクションは【仮説の創発】なのである。
　　　　---------------------------------------
◆【新しい認識はアブダクションによってこそもたらされるという可能性】を示したのである。それならアブダクションとは総合的な【推感編集】なのだ。そしてそうだとすれば、演繹や帰納はそのアブダクションの出来映えをテストしている役目をはたしている助さんと格さんということなのだ。
　◇千夜千冊1182『パース著作集』チャールズ・パース 
-----------------------------------------------------

　この二つの言葉はわたしが八木秋子に出会い、そして通信の発行から著作集製作へと通過してきたことを振り返っているいま、気分良く納得融合できる言葉です。出会いから現在までの八木秋子との世界は「パサージュ」であり、彼女との関係は「アブダクション」の連鎖であったと思います。

八木秋子とのアブダクション＝推感編集や、通信や著作集の編集を生まれて初めて行っていたわたしにとって、相京メモ（1983）にある「宇宙意思」や「先達からの眼差し」というこの二つの言葉が当時のわたしをどれほど支えていたか、３０年後の現在から眺めると、そのことの重要性がはっきりとわかるからです。八木秋子との「パサージュとアブダクション」を支えた原点をみつけた思いです。


★第３５夜
「あるはなく」第３号　わたしの近況

養育院での日常が書かれてあり、八木秋子の自負としての「覚悟と抵抗の姿勢」が読み取れます。しかし、実際の日常は「いつでも目覚めれば手近な所に読み差しの手慣れた書物があり、ノートがあった」孤独を愉しむ生活から一変した、多人数での共同生活からくる様々な軋轢もありました。

「あるはなく」第１号から翌年３月の第５号までの内容も掲載してあります。
この時期は７７年夏から７８年の春３月にあたり、３０数名宛ての通信ながらも、予想を上まわる反響に、わたしも八木秋子も興奮しつつ気を引き締め、彼女は執筆に力を入れ、わたしは八木秋子がかつて著わした作品収集のために奔走しています。第３号「八木秋子著作リスト」はその報告でした。


★第３６夜
転生記（１）

養育院での八木秋子の日記：「転生記」。
第３８号まで掲載するこの日記は、１９７７年８月に第１号が出来上がり、翌年の３月に発行される第５号までのもの。この期間はわたしと八木秋子が最も頻繁に共同作業を進めた「熱っぽい雰囲気」に充ちた時期に当たります。


★ 第３７夜
転生記（２）

八木秋子が入所した「東京都養育院」は東京都板橋区栄町３５－２、東武東上線大山駅から歩いて５分ほどの所にあります。今回、彼女が養育院での生活を書き綴った「転生記」を掲載するにあたり、思い立って２５年ぶりに訪ねてみました。池袋から３つ目の駅である大山駅を降りるとにぎやかな大山商店街に出ます。踏切を渡り、商店街から路地を抜けるとすぐに、養育院の大きな建物が見えましたが、四半世紀前、何度も通った道筋はあまり変化が見られず、ちょっと不思議な感じが残りました。


★第３８夜
転生記（３）

八木秋子通信「あるはなく」に連載した都立養育院での日記を、なぜ「転生記（てんしょうき）」と名付けたか、その理由を何度か聞かれたことがありました。実は、ちょうどそのころ出会った本、林竹二の『田中正造の生涯』に思うところがあったからでした。ここでは詳しく触れませんが、足尾鉱毒事件の田中正造は、最晩年に「思想的大変化＝回心＝自己否定」を行います。彼女の日記名を決める時、その「回心」から連想して浮かんできた言葉が「転生」だったのです。

転生とは甦り。第３６夜について、次のような感想をネットを通じての読者の方からいただきました。『八木さんの文章、世の中のたくさんの人に読ませたいと思いました。気負いがないのにこれだけ気迫が充ちる、とは・・。それが「老人ホーム発」という背景。そういう場にこういう言葉がしずかに、当たり前に、はっきりと在りうるんだということ・・』。このように彼女の声が新しい読者に伝わっている、この八木秋子の時を超えての多様な「甦り」をわたしは発行当初から願っていたのです。


★第３９夜
八木秋子著作集Ⅰ 　『近代の＜負＞を背負う女』

□表紙
　『近代の＜負＞を背負う女』
　　　八木秋子著作集Ⅰ
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□帯
・高群逸枝、住井すゑらと共に＜女＞の解放を目指して闘い、そして８３歳の今日もなお、底辺の生活の中で自己の＜問い＞を背負い続けて歩む著者の初期評論集
　ＪＣＡ出版　　　１３００円

　--------------------------
□奥付
　近代の〈負〉を背負う女
　－八木秋子著作集・Ⅰ－

　１９７８年４月２０日初版発行
　著者 八木秋子
　編集 通信「あるはなく」
　発行 ＪＣＡ出版
　東京都千代田区神田神保町1-42日東ビル1F
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　Ａ５判　上製本　２０４頁


★第４０夜
八木秋子報道される：共同通信社配信 / 1978･6･21
□波乱に満ちた自立への闘い
　個人通信「あるはなく」発行　　八木秋子さん
◆家を捨て子とも別れ　良心に生きる老女の叫び
　　　　　　　　　　中村 輝子

★第４１夜
埴谷雄高と八木秋子

「あなたはキトクな人だ」という埴谷さんの声は今もわたしの耳に残っています。
１９８３年の暮、八木秋子が亡くなった報告をしたことで、５年にわたって故郷の生椎茸を届ける行為に、もちろんそれはわたしが勝手にしたことですが、終止符を打つように言われ、「はい、わかりました。いろいろありがとうございました」と言って、辞去する玄関先でかけられた言葉でした。
　「キトク」ってどういう字を書くのだろうかと思い、家に帰って辞書を引いたら「奇特＝非常に珍しく、褒めるべきありさま」とありました。
　
埴谷さんがなくなって１０年たったこの秋(07)、県立神奈川近代文学館で「無限大の宇宙－埴谷雄高『死霊』展」が１１月２５日まで開催され、おだやかな秋の一日、横浜の文学館を訪ねました。会場の展示は『死霊』を中心にして構成され、埴谷さんの声が展示を見ているあいだ遠くから響いていて、とても懐かしい気分に充ちていったのでした。流されていた声は、「縊り残され花に舞う－閉ざされた現代を撃つ表現は可能か」（１９７６年於京都大学時計台ホール）と名付けられた集会でのもので、一緒に講演した吉本隆明が後に「一点一画も揺るがせにしない講演内容を聞いてびっくりした。この人は衰えを知らないなと思った」と書いていた講演です。また、その集会は５年前に３９歳でなくなった作家高橋和巳を偲ぶ集まりでもありました。高橋について埴谷さんは「作家で妄想とアナキズムを共有する人物」と書いています。そして、その頃、清瀬の八木のアパートを訪ねていたわたしにとって「より深く考えろというバトンがリレーされる」という埴谷さんの講演のタイトル「精神のリレー」は、人生で最も重要な言葉となっています。

じつは、八木秋子著作集Ⅰ『近代の＜負＞を背負う女』を発行した年（1978）の秋、わたしは埴谷さんを訪ねて八木秋子著作集Ⅱの帯文を書いていただきました。


★第４２夜
注釈:八木秋子の周辺の人たち－川柳作家児玉はる（３）－


★第４３夜
アナキスト・八木秋子のこと　朝日新聞 1978/6/26

□アナキスト・八木秋子のこと　－著作集Ⅰを中心に－
☆鮮烈な魂の軌跡－農村コムミュンを夢見て－
　　　　　　　　　　堀場 清子

★第４４夜
女性のアナ・ボル論争－『女人芸術』誌上で藤森成吉に公開状－　図書新聞 1978/6/24

□女性のアナ・ボル論争
　　－『女人芸術』誌上で藤森成吉に公開状－
　　　　　　　　　　江刺 昭子

★第４５夜
著作集発行の経過と言うべきこと 1978/9/25「あるはなく」第7号

八木秋子著作集『近代の＜負＞を背負う女』は、発刊後、予想を上まわる反響を呼び、いくつかの新聞や書評紙、冊子に紹介され、八木秋子への取材が重なりました。

その書評を３夜にわたって紹介してきましたが、わたしにとってそのことはたいへん嬉しかったと同時に、本当にこれでよいのだろうか、八木秋子の生涯は正当に評価されているのか、わたしが編集した「八木秋子の世界」は彼女の尊厳を冒すようなことになっていないか、その不安はわたしの内部に沸々とわき上がってきました。

そこで振り返ったのがこれから掲載する文章です。八木秋子はわたしへの感謝の言葉を「転生記」で書いてくれましたが、わたし自身、自分の立つ位置を見誤ってはならないという戒めの文章です。爪先立って、必死に、無我夢中で時代に向かおうとして緊張した時間の連続をいまでも思い出します。誤解を恐れていては前に進めない、自負を持とう。しかし、一方で傲慢になってはならないという気持ちでした、それはいまでも変わらない「八木秋子から教えていただいたことの一つ」です。


★第４６夜
『近代の＜負＞を背負う女』出版記念会－南澤袈裟松さん

１９７８年４月２９日。東京文京区立新江戸川公園会館で出版記念会が行われました。出席者は約３０名。第５号まで発行された八木秋子通信「あるはなく」の読者がほぼその数くらいだったという意味でいえば、京都の西川祐子さんや信州の渡辺映子さんなどをのぞいて読者のほとんどが参加されたといえます。戦前からの同志である「農村青年社」の仲間、婦人戦線や女人芸術の同人、女性史研究の方々、八木さんの親戚や縁者の人、そして私の友人たちが集ったのでした。
そこで交わされた、それぞれの方々と八木秋子とのつながりや著作集出版への祝福などは「あるはなく」第６号にまとめてありますが、今回は参加者の一人、「農村青年社」の同志であった信州佐久の南澤袈裟松さんをご紹介したいと思います。

実は２００８年９月１５日、朝日新聞（長野版）に大きな見出しで南澤さんのことが報道されました。


★第４７夜
気配を残して立ち去った人たち（１）－信州佐久の農民と農村青年社

１０３歳の南澤袈裟松さんの軌跡をたどった『栗ひろい』の出版記念会は浅間山の麓、島崎藤村ゆかりの小諸城址の近くのホテルで催されました。
記念会は出版に関わった身近な人たちが南澤さんを囲んで祝おうというものでしたが、朝日新聞による取材の後、地元の信濃毎日新聞などいくつかのマスコミで報道されたため、熱い余韻の中で行われたともいえます。

実際、反響は予想を上回るものでした。『安曇野文芸』（安曇野文芸の会発行）で八木秋子の評伝を発表していた望月武夫さんからは、「数年前に八木秋子の資料を求めたけれどその手紙が転居先不明で戻ってきた、相京さんの住所を教えて欲しい」との問い合わせが入り、その後『あるはなく』『パシナ』（Ⅰ～Ⅵ）、そして保存していた『八木秋子著作集』などを送り、行き来が始まりました。ていねいに八木秋子の軌跡をたどった文章をこれからも読ませていただけると思っています。また、東栄蔵さんが「八木秋子」についてお書きになっていることも知りました。八木秋子の出版に夢中になっている頃に出版された東さんの『伊藤千代子の死』（未来社1979）がとても印象的だったので、その方が書いた「八木秋子－精神の軌跡」（『索３４号』2004、後に『信州の近代文学を探る』信濃毎日新聞社2007に収録）をさっそく読みましたが、『八木秋子著作集Ⅲ』に収録した「八木秋子の日記」に対し、「秋子の最も優れた作品だ」という東さんの見解はわたしの編集意図に添うものでした。


★ 第４８夜
南澤袈裟松さん逝く

八木秋子の同志、信州小諸の南澤袈裟松さんが、春まだ浅き３月２９日午前１０時１２分、１０３歳と８ヶ月の「闘いの軌跡」に終止符を打たれました。

第４６夜で、南澤さんの著作や記録をまとめた『栗ひろい－南澤袈裟松の軌跡』の出版と反響、そして八木秋子著作集Ⅰ『近代の＜負＞を背負う女』出版記念会での発言を掲載し、第４７夜では小諸で催された出版を祝う会での「傾きぶり」に触れ、以前まとめた聞き書きを掲載しました。

そして、第４８夜には訃報を載せなくてはなりません。思えば、出版を祝う会の終了後、帰り際に「和服の裾をまくって祭り衣装を見せ得意げに笑う表情」が永遠の別れとなったのでした。


★第４９夜
気配を残して立ち去った人たち －信州佐久の農民と農村青年社（２）　

４月３０日は八木秋子の命日でした(第２夜 毎日新聞などが伝えた訃報）。そして、農村青年社のただ一人の生存者であった南澤袈裟松さんも、浅春の３月２９日、「気配を残して立ち去り」ました。

『ちくま』５月号「農村青年社事件：１０」（筑摩書房発行）には「地方同志・南澤袈裟松の革命と人生」が保阪正康さんによって書かれています。

３０余年前、信州小諸の自宅を訪ねた際の南澤さんの印象は「骨格のしっかりした、そして知的な風貌」だったと描写し、１０３歳まで生を長らえた南澤さんのことについて「連載の中で触れようとしていたが、書く前になくなってしまったことにたいへん申し訳ない思いが残る」と追憶しています。


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■第５０夜をむすぶにあたり、西川祐子さんの『日記をつづるということ－国民教育装置とその逸脱』吉川弘文館 「女性が書く内面の日記－『八木秋子日記』に再度触れたいと思います。

☆引用－「女性が書く内面の日記－『八木秋子日記』－
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日記を公開しながら、八木秋子は書かれたテキストだけでなく、生身のわたし自身が読むべきテキストである、読むことによって物語を創るのは読者であるあなたたちなのだ、と宣言しているかのようだ。

内面の日記は、八木秋子の場合、ながいあいだ現実のこの世では出会えなかった読者と交信するためのほとんど絶望的なコミュニケーション手段であった。しかし、この日記作者は生涯の最後の瞬間に、戦後復興と高度経済成長にたいする異議申し立てをした学園闘争世代の少数の人たちと出会うことにより、他人に見せないはずの内面の日記を自ら開示して、読者との交流の望みをはたす。日記にくりかえし書きつけた、形ある作品を書きたいという願望さえもその一部を著作集全三巻によって実現させた。『八木秋子日記』は、他人に見せない内面の日記とは、同時代の読者を拒否しながら、じつは遠く未来時間の読者にあてて書く手紙ではないか、ということを考えさせる。（P 278-9）
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この文章を読んだ時、ほんとうにうれしかった。八木秋子に関わって良かったなぁと心底思いました。八木秋子通信を発行して以来３２年、一貫して励ましてくださった西川さんをはじめとする伴走・並走のみなさんに感謝します。

「呼吸を長くして時を待つ」と養育院での日記に八木秋子が書いたように、われわれは３０数年間にわたって彼女と併走してきました。そして、時機が熟してきたように思える２００９年の現在こそ『八木秋子日記』を読み返し、３０数年前の八木秋子と相京からのメッセージを受け止め、未来読者に「精神のリレー」をしたいと思います。
これからも、みなさん併走をよろしくお願いします。
　
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         <pubDate>Wed, 09 Sep 2009 01:10:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>  ●第４９夜　気配を残して立ち去った人たち －信州佐久の農民と農村青年社（２）　</title>
         <description>４月３０日は八木秋子の命日でした(第２夜 毎日新聞などが伝えた訃報）。そして、農村青年社のただ一人の生存者であった南澤袈裟松さんも、浅春の３月２９日、「気配を残して立ち去り」ました。

『ちくま』５月号「農村青年社事件：１０」（筑摩書房発行）には「地方同志・南澤袈裟松の革命と人生」が保阪正康さんによって書かれています。

３０余年前、信州小諸の自宅を訪ねた際の南澤さんの印象は「骨格のしっかりした、そして知的な風貌」だったと描写し、１０３歳まで生を長らえた南澤さんのことについて「連載の中で触れようとしていたが、書く前になくなってしまったことにたいへん申し訳ない思いが残る」と追憶しています。

そして、
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農村青年社の運動は、日本の農村共同体が公権力によって解体されるのに異議を申し立てた側面があり、それを私は納得したのである。そして窃盗という事件の不名誉にいかに苦しんでいるかも、それはそれとして書き残すべきと思ったからでもあった。そのような決断のあとこの連載を始めることになった。

　南澤の返信(１９７８・４・２)を改めて読むと、その当時の南澤の心境もよくわかる。昭和５３年といえば、南澤は７３歳である。私の取材申し込みに日程の都合について幾つか記してあるのだが、そのあとに、「４月の下旬ともなれば、梅も桜も杏もというように長い冬の寒さをずっと待ちに待っていた草木の花々が一時に粧をこらして咲競う好期ともなりますので、その折にゆっくり私宅でお泊り願って種々とお話ができればまことに幸だと存じます」ともあった。
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わたしは「返信」の日付「４・２」を見てアッと息を呑んでしまいました。何という「時の連鎖」でしょう。その日は南澤さんの葬儀の日でした。まさに春まだ浅い、「殖ゆから張る」へ向かう時季で、第４８夜で伝えた信州小諸の風景でした。また、その手紙にはクロポトキンやファーブルを尊敬する南澤さんらしい季節への描写があり、「年若き探訪者への配慮」に保阪さんも感慨深く語っています。

そして、
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南澤は、岩佐や石川、それに八木や宮崎と同志の関係をもつことによって、確かにアナキストとしての地歩を固めていったことがわかる。浮わついた思いつきや単なる人間関係でアナキストになったわけではなく、自らの周辺の光景、そしてそのなかでの実践を通じてアナキズムこそがもっとも農村を救う運動なのだとの理論をもったともいえるであろう。南澤が、こうした農村青年社運動に傾斜していくプロセスを見ると、宮崎や星野、それに八木らに対しての信頼があったことがわかる。三人はいずれも真面目であり、真正直に昭和初期のあの時代と向きあっていたというべきであった。彼らの理論そのものよりもまず人間的な信頼があっての農村青年社運動へと入っていったようにも思われるのだ。
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第４９夜でわたしが伝えようとしているのはまさにそのことです。わたしは１９８８年に刊行された『続・現代史資料　アナーキズム』（みすず書房）の月報で、「農村青年社」について大澤正道が書いていることに不満を抱いていましたが、今から８年前、他の理由もあって一気に書き上げたのが、第４７夜と今回に分けて掲載するこの一文でした。

では、第４７夜に続けて、お読みください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
　　　　◇
　さて、この聞き書きの直後、農青社事件の裁判資料が１９８０年代後半に、長野で発見され、その一部が発行された（『続・現代史資料　アナーキズム』［虎ノ門事件、朴烈・金子文子事件、黒色青年聯盟とその銀座事件、農青社事件］１９８８年　みすず書房。『農青社事件・資料集Ⅱ』１９９１年　黒色戦線社）。

解説の小松隆二慶應大学教授（注：当時）は、農青社の活動の位置づけについて次ぎのように書いた。
　　　………………………………………………………………………………………
　この「事件」が注目されるのは、弾圧の激しい昭和に入ってから、表だった活動や一般労働者や農民との接触を抑えられていた最左翼のグループが、まったくの例外といっていいほど現場に入りこみ、現場と結びついた活動に従事することに成功したこと、したがって革命家や活動家の中によりも、一般農民の中にその思想を浸透させていったことであろう。
　　　………………………………………………………………………………………
　そして、予審判事江幡清も予審調書の巻頭で、農青社運動は国体維持中枢を為す農村に対し潜行的に粘り強く活動したと書いている。

　　　　　　◇

　ところが、その月報の「地に落ちた一粒の麦」（大澤正道）というタイトルの文章の内容は、農青社の運動に対する批判であった。タイトルにそって内容をまとめれば、次のようになる。

　石川三四郎がかつて自分（注：大澤）にこういった。農民は信頼できるが都市の労働者は当てにできないと。その時はわからなかったがしかし、今は石川の体験からでた言葉だろうと思う。それは信州佐久の農民自治会メンバーとの接触が貴重な体験として石川の気持ちに残っていたのだ。

一方で、農民自治に関わった小山四三らが参加する集まりが佐久で現在もあるように、石川との接触から産まれたものが信州にも残っている。それは言ってみれば一粒の麦として生きながらえているということである。それも、信州の土地にしっかり根を張っている農民たちの生活があったからにほかならない。

　石川三四郎が、接触して感激した例として「野良着に素足で、わらじばきの農民に大喜びしてフランス仕込みのウサギ料理」を会合の参加者みなに振る舞ったこと、また「土の家」に泊まり込んだ時の思い出は忘れられない、と挙げられている。ちなみに、かつて農民自治に関わったとその文章に書かれている小山四三は、北御牧村村長であり、南澤さんの義兄でもある。

　つまり、ここで語られている情報データは私が聞いた南澤さんの聞き書きに出てくるものとほとんど同じなのである。これだけなら「石川と佐久の農民」とのエピソードとして違和感はない。問題は農青社の運動に対する批判の文章を加えていることである。

　ところが大澤は、農青社を突然出してきてこう批判する。農青社のリーダーたちは石川三四郎との接触はほとんどなく、むしろ批判的である。そして農青社のバイブルといわれる宮崎晃がまとめた「農民に訴ふ」はクロポトキンの引き写しであり、石川三四郎の土民生活論とは異質である、というのである。だから石川が感激した、あるいは石川に感銘した佐久の人たちがそんな理論に影響を受けるはずがないといいたいのだろう。批判の文章を引用しよう。

　　　………………………………………………………………………………………
　農青社が計画したいわゆる「信州暴動」はそもそも信州の同志をあてにしたもので、そこにはかつて農民自治会に結集した人びとやその影響を受けた人びとがいた。たとえば小諸の南澤袈裟松、小県の鷹野原長義など。農青社が決起の場所に信州を選んだのは必ずしも地勢上からの選択ではなく、そこにすでに農民自治会が蒔いた下地があったからだとみるべきだろう。
　東京のリーダーたちが窃盗事件などで次々に逮捕され、壊滅していったのちにも信州で独自の運動が続いた理由もまたここから説明できる。都会人の「理窟」は別に彼らにとって「権威」でもなんでもなかったのだ。
　　(中略)
　信州の土地にしっかりと根を張った農民たちの生活があった…。それこそが歴史の根っこであることを忘れないようにしたい、とわたしはおもう。事件は枝葉のようなものである。

　　　………………………………………………………………………………………
　このように、農青社の運動は信州の農民に対してたんなる「理窟」を送るに過ぎない関係だったと言っている。つまり、農青社の運動は、都会から農村に対して一方的に「理窟」を「権威」的に押しつけ、運動を展開するというパターンであったと言っているのである。戦前の活動の内実、人と人とのつながりを全てひとつのパターンにあてはめて済ませている。たしかに当時のマルクス主義や都市からの啓蒙活動の多くはそうだった。
　しかし、そういったワンパターンの発想を安易にあてはめることが農青社の運動の実体でないことはこれまでみてきたことだ。

　運動の現場での基本が人と人とのつながり、信頼関係で成立する、特に戦前においては場合によってはイデオロギーをも超えることがあるということがわからないのである。
　また、このパターンは、でっち上げをもくろんだ権力とそれを報道・記録するマスコミの記事を「資料」として鵜呑みにしている。権力はマルクス主義を対象とした治安維持法にこの農青社運動をでっち上げようとしたため、農青社の組織は中央集権である必要があり、都会人による「信州暴動」のシナリオを検察側はたてて、フレームアップをしたのである。まさに、この大澤の文章はそれにそった認識になっている。

　農青社の運動を枝葉と言って文章を終わらせる姿はまったく嫌みであるが、ことはこの月報の一文を書いた大澤正道の肩書きである「評論家」としての解釈の問題だということではすませられない。なぜなら彼はアナキズムの理解者であるといわれているからだ。
　ある運動は枝葉であるとかないとか、当時の権力に対する運動を振り分けるその感覚は、はたして当時の運動の渦中にいたものの真情をいかにくみ取り、運動の歴史として残そうと言うのだろうか。

　私はここで農青社の和佐田芳雄の言葉を引用したい。＊注１
　「ぼくは、農青でなければならないと言わないかわりに、ぼくの確認した内容を、一方的な無意味な批判で否定されることも許さないという感覚をもっています」。

　　　　　　◇
　彼らとは何をした人たちか。
　そういった場合、彼らの行ったことを事細かく調べ、必要事項として書き並べて事足れりとする場合がこれまでは多かった。機関誌紙などの活字になった文章や官権側から発表される裁判資料記録などを材料とするのだ。

　しかし、そこから見える像はその人たちの一部分に過ぎないということを肝に銘じなければならない。戦後の人間が、既成の知識体系から戦前の人物や関係の形を安易に決めつけてはいけない。歴史のデータを正確に整理・編纂することは必要なことであるが、データを読み解く時、生きた人間、とりわけ人生に自負を持つアナーキストを安易に決めつけてはいけない。彼らこそ常に自由と変革を求めようとした人たちだからだ。

　当然、既成の枠にあてはめず、いろんな解釈の可能性を保障すべきである。もしあえて発表する必要があれば、それはその対象に対する途中経過報告であるということをキチンと語る必要がある。「現時点」であり「私が判断した」ものであるという時間と空間を限定し、その呪縛が解かれたらその対象はもとに戻れるようにしなくてはならない。
　つまり、いってみれば水のようなものだ。形を定めず、枠にはめず、自由自在性を与えることが前の世代の人たちに対する恩義というものである。

　私はこれまでも『農青社事件・資料集』全三巻・付録で資料的に運動の実体、当時の雰囲気を伝えてきた。それを通じて人と人との関係や彼らの感性などを考えてきた。

　彼らが一様に伝えようとしているのは、「アナーキズムはたんなる行動の形式や自由社会に関する思想以上の、自然と社会に関する哲学の一部である」(『ある革命家の手記』クロポトキンより)。
　彼らは「人生」に自負を持っている。それゆえ彼らの人生のどこを取り出してきても、彼らの面影があり、声が聞こえ、ぬくもりがある。だから気配が残るのだと思う。そして不安と迷いに満ちている時代の私たちに、いっそう「哲学せよ」と伝え、励ましているかのようである。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「黒：４・５号」２００１
　　＊なお、今回の掲載にあたり、一部文章を訂正した。


＊注１：『農村青年社事件・資料集Ⅲ』所収。初出『農村青年社－その思想と闘い』:農村青年社を語る 和佐田芳雄 1988･1/2　広島無政府主義研究会発行
『農青社事件・資料集』全三巻－黒色戦線社発行 1994 なお「別冊・付録－追憶・交叉する眼差し」1997 農村青年社運動史刊行会（編集人相京範昭）は別売。
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         <pubDate>Tue, 05 May 2009 16:42:03 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>● 第４８夜　南澤袈裟松さん逝く</title>
         <description>八木秋子の同志、信州小諸の南澤袈裟松さんが、春まだ浅き３月２９日午前１０時１２分、１０３歳と８ヶ月の「闘いの軌跡」に終止符を打たれました。

第４６夜で、南澤さんの著作や記録をまとめた『栗ひろい－南澤袈裟松の軌跡』の出版と反響、そして八木秋子著作集Ⅰ『近代の＜負＞を背負う女』出版記念会での発言を掲載し、第４７夜では小諸で催された出版を祝う会での「傾きぶり」に触れ、以前まとめた聞き書きを掲載しました。

そして、第４８夜には訃報を載せなくてはなりません。思えば、出版を祝う会の終了後、帰り際に「和服の裾をまくって祭り衣装を見せ得意げに笑う表情」が永遠の別れとなったのでした。

信州小諸は、まだ梅の花が咲き始めた季節で、風も冷たく、北の方角を見ると、真っ青な空に、噴煙なびく浅間山が、雪に覆われていました。

南澤袈裟松さんの戒名は「鳳仙院徹翁禅綱居士」。

小諸商業で１６歳の時、安曇野出身の溝口義雄教師からクロポトキンの相互扶助論にまつわる話に深く感動して以来、「百歳萬歳記念碑」に至るまで、クロポトキンに「徹した精神」はまるで「太い綱」のようだと戒名の意味についてご住職は話しました。

２００人ほどの「灰寄せ」という故人を偲ぶ会食の席では、葬儀委員長の小山正邦氏（戦前に鶴見祐輔らと活動をともにした国会議員で、戦後小諸市長にもなった小山邦太郎氏のご子息）も、お寺のご住職も、昨年作った私家版『栗ひろい－南澤袈裟松の軌跡』をおおいに讃えてくれました。そして「百歳萬歳記念碑」に書かれている「クロポトキンの相互扶助論」について、地球との共生を語るその碑文には「相互扶助の精神こそ現在必要とされている」という一貫した南澤さん姿勢が見られると深い共感を持ってご挨拶をされました。

昨年の出版報道以来続いていることですが、袈裟松さんは死しても「クロポトキンと相互扶助」をたくさんに人々に伝えた、まさに「生きることも闘いだ」と思い知りました。

そのこと自体はまことに気分壮快な別れの場となりました。

しかし、
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●第４７夜　気配を残して立ち去った人たち －信州佐久の農民と農村青年社

アナーキズムに共感を持って戦前活動した人たちが逝ったあとにある気配が残る。それに対する感情として私は「哀慕」という文字をあててみた。私たちはその余韻の中で生かされ、新たに生きる勇気を自覚する。死者によって生かされているのである。こういった気配を残して立ち去る人たちは、日本でも、彼らに特有の雰囲気ではないだろうか。
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ご自身もとうとう気配を残して立ち去ってしまった、戦前の八木秋子を知る人が一人もいなくなってしまった。

集まりの場から出ると、すぐ傍には古城がありますが、帰京してそこで詠まれた島崎藤村の「浅春の詩」を読み返しましたら、まことに、心に滲み入りました。まいりました。

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☆小諸なる古城のほとり

小諸なる古城のほとり　　　雲白く遊子悲しむ
緑なすはこべは萌えず　　　若草も籍くによしなし
しろがねの衾の岡辺　　　　日に溶けて淡雪流る
あたゝかき光はあれど　　　野に満つる香も知らず
浅くのみ春は霞みて　　　　麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか　　　　畠中の道を急ぎぬ
暮行けば浅間も見えず　　　歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよう波の　　　　岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて　　　　草枕しばし慰む

☆千曲川旅情の歌

昨日またかくてありけり　　今日もまたかくてありなむ
この命なにをあくせく　　　明日をのみ思ひわづらふ
いくたびか栄枯の夢の　　　消え残る谷に下りて
河波のいざよふ見れば　　　砂まじり水巻き帰る
嗚呼古城なにをか語り　　　岸の波なにをか答ふ
過し世を静かに思へ　　　　百年もきのふのごとし
千曲川柳霞みて　　　　　　春浅く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて　　この岸に愁を繋ぐ
－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－


途中の車窓から見える上州の山は、妙義山をはじめとして、傾ぶいています。それらを眺めながら革めて読み耽った千夜千冊『神もなく主人もなく』【0941】は クロポトキンの葬儀から始まっています。
－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－
　1921年２月８日の早朝、モスクワ郊外の寒村でクロポトキンが死んだ。翌日、特赦された数名のアナキストを先頭に、ノヴォジェヴィチの修道院にいたる５マイルの道に、チャイコフスキーの第１と第５が流れた。その葬列には黒旗が林立した。
　葬列がトルストイ博物館にさしかかったときは、ショパンの葬送曲が流れ出した。修道院での出棺には２００人の合唱団がふたたびチャイコフスキーの『永遠の追憶』を歌った。そして、アアロン・バロンの燃えるような怒りに満ちた告別の辞が、時の空気を黒く切り裂いたのだ。
　「神もなく主人もなく、クロポトキンはこう言った、さあ、命なんぞは君が持っていきたまえ！」。 　http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0941.html
－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－
　これまた、まことに、身に滲みる千夜千冊でした。


昨年発行した『栗ひろい』には、１９８４年と翌年の８月に上州へ帰省した時に南澤さんの自宅を訪ね、聞き書きしたテープが陽一さんの手によってまとめられました。南澤さんが敬愛した「クロポトキン」について、わたしと交わした箇所に少し手を加えてここに載せたいと思います。お読みください。

■南澤袈裟松、あの頃のことについて語る

★小諸商業時代、溝口義雄先生の影響
相京　南澤さんが小諸商業時代、溝口義雄という先生からの感化を大きく受けたとのことですが。
南澤　溝口先生は安曇野出身の先生だと思う。
相京　この人はキリスト教の洗礼を受けているのではないでしょうか。
南澤　受けているかも知れない。この人がたまたまそういう話(クロポトキンの相互扶助論にまつわる話)をしてくれたのが私に素晴しい影響を与えた。
相京　安曇野というと井口喜源治の研成義塾が。
南澤　そういうことであるいは研究していたかも知れない。
相京　商業の先生がクロポトキンの話をする。	
南澤　そういう話をするということは大きいことですね。若い人の一生がそういう人によつて一言の話で左右される程大きいこと。
　　　その話を聞いた直後に、ちょうど今頃の八月はじめの朝五時頃、たまたま私が自転車ですっ飛ばしてきた村はずれで、雀が一群団湧き上がるように出た。その時鷲だか鷹だか藪の中へすごい勢いで飛んできて飛び込んだ。すると、雀がその後追ってワーッと来て、見ていると、ヒョイヒョイヒョイヒョイと鳴いていて、一方は潜ったきり出てこない。しばらくして雀が退散していった。雀を捕らえて鷲づかみで藪の中に飛び込んだのを追ったんだと思う。百数十羽いたかもしれない雀が黒くなるほど来て襲って藪の中へ飛び込んだ。
相京　象徴的なことでしたね。
南澤　そういう光景を見て、たまたまそういう本を読んでいてなるほどクロポトキンは偉い人だなと、私は若いときで非常に感じやすいときだから強く思った。普通なら相手は猛禽類だから雀が一対一では負けるけれど。
相京　それが小諸商業に通っている頃、溝口先生の話を聞いた直後だけに鮮明に残っているのですね。
　　　この人は何を教えていたのですか。
南澤　当時「博物」と言っていた。理科の系統。クロポトキンは科学者でもあった。

★現在の思いを

相京　今いろいろなものが便利になって、どう思われますか。
南澤　今生活が豊かになって、そういう運動とかそういうものに対する理解とか薄らいできている。中流意識とかが横溢して。頭はますます後退しているのでは。(それに対する危機感は)危機感はなければおかしい。
　　　老人会で核兵器反対運動、長野県老人会が全国で初めて。取り組み初めて一年になる。新聞などで取り上げた。
　　　私達老人は二十一世紀まで生き延びることはできないだろう。しかし、その次の世紀を担う若い人たちが核戦争を受けたら大変なことになる。文化もへったくれもなくなる。焼け野原になってしまう。
　　　若い人たちをそこへ持って行かないために私達は証人でもある、戦争は絶対にやるべきではない。
　　　少なくとも核戦争だけはとにもかくにもやらないようにすることが第一だ。今の緊急の問題はそれ
　　　ではないかと言ったら、老人会の役員が両手を挙げて賛成だという訳。偶然でしたね。私に意見発表してくれということで、当時の会長の支持もありました。
相京　戦争というのは、人間・人類が生きている限りなくならないと思いますか、それともなくなると思いますか。
南澤　人間の醜い姿ですね。(争いはなくならないか)それを避けて通れないものは、ダーウィンの進化論を待つまでもなく、あるけれど、クロポトキンに言わせれば、だからこそ人間の文化を維持し、人間の生活を守ってきたものは相互扶助だったというのですね。それに力を合わせてきたものは栄え、やらなかったものは滅びたと言っている。生存競争は生物間に避けがたい宿命。宿命と言ってしまえばそれまでだが、なぜある生物は栄え今日まで命を繋いできたか。相互扶助の原則を守ってきたものは栄え、そうでないものは滅びた。しかも私が言うだけでなくて、ダーウィンだって『人間の由来』の中で書いているではないか。ダーウィンは最初は『種の起源』で生存競争について書いているが、『人間の由来』で反省している。クロポトキンはダーウィンに対して理解を持っている。

★「コンチャン」と呼ばれる

相京　ファーブルは読まれましたか。大杉栄も翻訳していますが。
南澤　あれは生物の生き方の仕草を巧妙にとらえ、しかも彼はそれに深遠な哲学や詩を歌っている。
相京　ファーブルの昆虫記で、ファーブルは動物自体がそれぞれが共存しているという言い方をしています。やっつけるというのがあるけれど、全体の自然の昆虫の世界・動物の世界をみれば、それは相互扶助というか奇妙にバランスがとれている。だから、ダーウィンはファーブルをとっても気にしていたらしい。
南澤　そのような素晴しい姿勢と叡智を彼等はいつ身につけたかという驚きを禁じ得ないものがある。それがたいしたものだ。やっぱりファーブルという人は偉い人ですな。
相京　その頃一生懸命翻訳して紹介したのは大杉栄だというのは、ぼくは一つのあれがあると思う。
南澤　もっと訳したりやりたかったと彼は言っている。
相京　大杉栄は、南沢さんは随分と読まれたと思うのですが。
南澤　あちらこちらしか読まない。信濃日々新聞社にいる時分、仲間から私のことを「コンチャン・コンチャン」と言われた。私はその頃昆虫記を放さず読んでいた。他の社会思想は持てないから。

　以上です。
　
　サヨナラ　南澤袈裟松さん




　
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         <pubDate>Thu, 09 Apr 2009 01:00:30 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>●第４７夜　気配を残して立ち去った人たち（１）－信州佐久の農民と農村青年社</title>
         <description>
　
　１０３歳の南澤袈裟松さんの軌跡をたどった『栗ひろい』の出版記念会は浅間山の麓、島崎藤村ゆかりの小諸城址の近くのホテルで催されました。
　記念会は出版に関わった身近な人たちが南澤さんを囲んで祝おうというものでしたが、朝日新聞による取材の後、地元の信濃毎日新聞などいくつかのマスコミで報道されたため、熱い余韻の中で行われたともいえます。

　実際、反響は予想を上回るものでした。『安曇野文芸』（安曇野文芸の会発行）で八木秋子の評伝を発表していた望月武夫さんからは、「数年前に八木秋子の資料を求めたけれどその手紙が転居先不明で戻ってきた、相京さんの住所を教えて欲しい」との問い合わせが入り、その後「あるはなく」『パシナ』（Ⅰ～Ⅵ）、そして保存していた『八木秋子著作集』などを送り、行き来が始まりました。ていねいに八木秋子の軌跡をたどった文章をこれからも読ませていただけると思っています。また、東栄蔵さんが「八木秋子」についてお書きになっていることも知りました。八木秋子の出版に夢中になっている頃に出版された東さんの『伊藤千代子の死』（未来社1979）がとても印象的だったので、その方が書いた「八木秋子－精神の軌跡」（『索３４号』2004、後に『信州の近代文学を探る』信濃毎日新聞社2007に収録）をさっそく読みましたが、『八木秋子著作集Ⅲ』に収録した「八木秋子の日記」に対し、「秋子の最も優れた作品だ」という東さんの見解はわたしの編集意図に添うものでした。

　１０３歳という長寿がその報道の話題を提供したといえますが、わたしは「長寿も一つの闘いだ」と記念会での挨拶で言いました。その記事が契機となって望月さんとの関係も生まれ、八木秋子の世界が濃く語られることになったからです。
　南澤さんは酒も呑み、食事もし、挨拶もされました。帰りの挨拶をしようとしたら、廊下のソファに座ったまま、和服の裾をめくり、下に着ている「祭り衣装」を見せましたので、思わず顔を見合わせ大笑いをしました。相変わらずの「カブキ」具合です。さすがです。

　さて、第４７夜は、以前、南澤さんの聞き書きを中心にまとめた文章をこれから２回にわたって掲載します。

●気配を残して立ち去った人たち －信州佐久の農民と農村青年社

  アナーキズムに共感を持って戦前活動した人たちが逝ったあとにある気配が残る。それに対する感情として私は「哀慕」という文字をあててみた。私たちはその余韻の中で生かされ、新たに生きる勇気を自覚する。死者によって生かされているのである。こういった気配を残して立ち去る人たちは、日本でも、彼らに特有の雰囲気ではないだろうか。
　　　　　◇
　これから読んでいただくのは信州佐久で活動され、現在もなお気配を放っておられる南沢袈裟松さん（長野県小諸市在住）の聞き書きである。十数年前に聞いた物だが、昭和六年に設立された農村運動グループ「農村青年社」（以下農青社と略す）の同志である八木秋子からの手紙が一九八六年、半世紀ぶりに発見されたと聞き、私がご自宅を訪ねた時のものである。一九三四年（昭和九年）一〇月二二日、隣の群馬県での陸軍特別大演習に天皇が観戦するに際し、長野県下のアナ系一八名は一斉検挙され、一一月一八日まで警察署に予防拘禁された。その直前、押収を避けるために八木秋子の手紙類を兄の家に隠して、それが約五〇年ぶりに発見されたのである。その時はすでに八木が亡くなってから三年ほど経っていたため、八木秋子の個人通信『あるはなく』や著作集全三巻には収録できなかったが、その後、星野凖二さんと一緒に作った『農青社事件・資料集』全三巻（同刊行会発行）のうちの「Ⅱ・資料」に収録した。

　八木秋子の手紙は二通あり、一つは最愛の同志であり中心メンバーであった宮崎晃の逮捕前のもので、満州事変後の緊迫した状況下で闘いもいよいよ決死的になりつつあるとする認識を示すもの。もうひとつは農青社の理念をあらためて主張するもので、長野県下の深刻な状況に応じた具体的な実践活動をより積極化するという決意表明である。これは宮崎逮捕直後のため悲壮感あふれる内容であった。

　まずは南沢さんの略歴を簡単にまとめたい。

　南沢　袈裟松（みなみさわ・けさまつ）
　一九〇五・七・一〇～　長野県北佐久郡南大井村生まれ。二五年東洋大哲学科に入学。クロポトキン、バクーニンの著書にふれ、アナキズムを信奉するようになった。二七年大学を中退し、地元へ帰る。農業のかたわら、農民自治会長野県連の闘争、長野県下全県水平社運動、製糸労働組合運動、電灯料値下げ運動等に関係した。三一年二月、東京の宮崎晃、星野凖二、鈴木靖之、八木秋子らによる「農青社」設立に呼応し、三月、長野県内での同志間の連絡網を確立、創造的コミューン運動展開の方針を決定したと小県郡大門村の同志鷹野原長義から伝達をうけ、参加に同意した。八月、伊那の伊沢八十吉、諏訪の島津徳三郎や山田彰、鷹野原らが八木秋子を浅間温泉に迎え、県下全村運動の地区別連絡責任者を決定した。この日出席できなかった南沢は数日後鷹野原を訪ね、南・北佐久地区責任者になることを了承。一〇月六日、岩佐作太郎、八木秋子を講師に招いた小県アナキズム講演会（小林茂夫、鷹野原主催）のあとをうけ、ついで八日、南大井村・十念寺で佐久地方講演会を林定直らと開催。一二月、「アナキズム運動に対する２、３の実践的見解」（筆名藤代高雄）『農村青年』三号などに寄稿。三二年三月、長野地方機関紙『信州自由連合』刊行決定を知らされ、四月二〇日創刊号（望月秋幸仮発行人）に主張「信州農民の進むべき道―自由連合主義の精神」、六月二〇日第二号に「多収穫は生活を楽にするか」を執筆（『信州自由連合』は星野、八木、望月ら在京グループの逮捕により二号で廃刊、九月二七日鈴木靖之が「農青社解散声明」を発表）。三三年七月一〇日発行『自由連合新聞』八二号に「全農全会議派の批判とアナキストの動向」を寄稿。三四年三月、鷹野原らと協議し、信州自連廃刊後の長野県下全村運動再建のため、「信州アナキスト連盟」創立について合意。しかし島津らの上京により機関紙発行は延期。三四年一〇月二二日、群馬県での陸軍特別大演習に天皇が観戦するに際し、隣接長野県下のアナ系一八名は一斉検挙され、一一月一八日まで各署に予防拘禁された。三五年六月、信濃日日新聞経済部記者として入社。一一月二七日、無政府共産党全国検挙で岩村田署に拘引され、 農青社事件を追求された。三六年一二月三一日、長野地裁予審終結し保釈出所。三七年四月一二日地裁判決で懲役二年執行猶予四年となった。四六年アナ連設立とともに加盟。七二年『農青社運動史』刊行会発足に際し、長野県の資料収集に努力し、以来その同人として参与する。著書『「平家物語」の原作について』（ＡＣ研究会、八九年）。別名＝藤代高雄。（星野凖二作成より抄出） 

　　　　　◇
　【聞き書き】南沢　袈裟松さん　

　よくこんなものが残っていたものだと思いますね。（注：次回に掲載予定）
　ほかの、その頃のいろんな本やビラなんか、ゴッソリ持っていかれてしまって、何一つ残ってはいませんが。こういうこともあるんですね。先日、一番上の兄、もう死んでますが、そのせがれが、叔父さん、こんなものがあったよ、そういって持ってきたんです。聞くと、屋根裏にあったといいますから、私のために農家の屋根裏にでも隠しておいてくれたのでしょう。

　見ると、もう五十年以上も前の手紙類で、特に八木さんからのレポートは達筆で、しかも当時の生々しい事情が書かれていまして、それであなたに連絡したんです。宮崎さんたちが捕まる前と後で、緊迫しています。本当にみんな真剣だったと思います。実に農青社の人たちは真面目の前にクソがつくような人達だった。

　農青社に連絡の通信を出したと八木さんの手紙に出てくる、この中村浩子という女の子は可哀想な娘でした。私が当時住んでいた南大井村の娘でした。彼女が運動の中にいるということは重要なことで、紅一点だったもので、われわれの運動のカモフラージュにも使いました。まあ、囮といったら語弊がありますが、一種の看板みたいでしたね。連絡した三ヶ月後ですが、私の関係で小作争議なども支援したと大井隆男さんの本に（『農民自治運動史』四〇九頁）書かれています。
　それが、われわれの知らない間に、売られっちまったんですよ。群馬県の桐生の女郎屋に。父親が実の親じゃなかったこともあったけど、そんな警察さたになるようなことをやってるようなら、売り飛ばしちまえ、てなわけで、母親、これは実の親だけど、それも知らないうちにね。 

　ひどい話だけど、われわれが知ったときはもう売られてたんです。それで向こうから連絡があってね、高橋定市君という同志が、奪還に行って、一度は連れ戻すのに成功したんだ。それで終ればめでたし、めでたしだが、そうは行きませんよ。みんな、あの頃、検挙されたり、飛び回ってるうちに、警察が介入してきましてね、高橋君が「警察じゃ、人身売買を認めるのか、太政官の布告の中にちゃんと出ているじゃないか、人身売買は禁ずる、やってはいかんということが」と言って、警察の連中がやって来た時、「金は十年年賦で返す」とか、タンカ切ったんですが、まあ、今の時代と逆です。人権なんてなものはなきに等しいようなもので、それが世の中のしきたりとして当然だ、といった考え方でしたから、いってみれば牛馬に等しい扱いでした。二十歳ぐらいだったかな。結局わかんなくなってしまって、部落の人で知ってる人もいたようだけど、私たちには全く情報が入らなくなっちまった。

　本当に、どうにもならなかったね。人一人が生きてくのに精一杯の時代だったから。奪還の勇をふるった高橋君も、その後、満州へ行ったまま行方不明になってしまったんです。

　あの頃のことは、どう話しても伝えきれません。本当に農村の暮しは貧しかったし、そりゃあ今とは生活のレベルが全然違います。決定的なことですよ、これは。だから、と言うか、だけど、と言おうか、今は、人と人とのつながりも難しくなってしまったように思えますね。あの頃は「われわれ」っていえばすぐ通じるものが、それぞれの気持ちの中にありました。思想的立場とかいったものじゃなくて。 
　あなたがそこに関心を持っていて、ひとと人とのつながりで、変わったものと変わらないものを考えたい、とおっしやるのだから、やはり、もう少し具体的に話してみましょうか。 　　　　　　　

　鷹野原長義という男は実にさっぱりした男でした。ああいう男を、だから、河原でケツを洗ったような男というんでしょう。同い年ということもあって、本当に、親しい、まあ親しさを通り越して、刎頚の友といってもいいでしょうね。おたがいに気持ちを許して、私も彼の家へ行って泊まり、彼も私の家にきて泊まって連絡しあいました。
　考えてみますと、気が合ったのでしょう。彼は自然児でした。何でもやったが、岩魚を取る名人で「おい、手伝え」なんて言うので、行くと、そのへんにある山葡萄のつるを捕って、幾つにも枯れている枝の先に付けて、岩魚を追ってきて、私が下で待ち受けていて何匹も取ったもんですよ。いやぁ、全く自然児でしたねえ。

　彼のところは大門村でも諏訪に近い小茂谷という部落でしたが、よく行ったものです。もちろん今みたいに舗装なんかされてませんから時間はかかりました。そこまで自転車で二～三時間。諏訪まで農青社の会合で行くときは、朝、家を出て、その日のうちに帰るなんて出来ません。冬の雪が降ったときなんか、峠を越えるのに自転車をかついで上りました。一日がかりでしたよ。たいてい大門峠を行きました。若い時代でしたからやれたのでしょう。
　鷹野原は若い頃、諏訪で製糸工場に勤めたことがあって、そのとき、海野高衛という同い年の男からアナキズムの影響を受けたようです。海野という男は、これがまた、もの凄い男で、昭和の初めに死んじゃったんで、私は残念ながら会わずじまいでしたが、素晴らしい男でした。

　鷹野原はその頃、爆弾を作っていたんで捕まったことがあったそうです。ピース缶にダイナマイトを仕掛けていろいろ実験したようでね。実際、やっていたようだけど、よくボカせたもんです。ちょうど大正天皇が死んだ直後のことだったので、検挙されたけどウヤモヤのうちに特赦で出されっちまったんですね。（『農青社事件・資料集Ⅰ』二三三頁参照）
　だから、鷹野原、その頃はタカ、大門のタカ、そう言ってましたが、「なあに、こんな人生なんて長いもんじゃあねえから、思い切って、一つ、やることはやらなきゃあだめだ」。もう、それははっきりしてるんだ、あれは。
　おやじが大門で大工をやってたから、そこに戻って、生活してましたが、後で大門村の村長になった小林茂夫という男とバカに気が合って、『大門時報』など出して頑張ってました。パンフやビラなんか「とにかく読んでみろや」てなことを言って、地主でも何でも片っ端から配っていくような男で、本当に素晴らしい男でした。彼は結局昭和五三年、八木さんの著作集が出た年になくなりました。戦後も開拓団などとやってました。

　満州から引上げた連中しか着ないような外套を着てきたから、お前、満州の連中みたいじゃねえか、なんて言ったら「こりゃあそうさ、満州のさ」なんて言ったこともありました。

　その頃の、彼の思い出はつきませんが、八木さんの講演のことを話さなければ進みませんね。昭和六年一〇月六日、鷹野原の依頼で八木さんは、アナキズムの先輩としての岩佐作太郎と一緒に大門から小諸まで歩きました。たぶん馬車か何かを利用して回ったと覚えてます。まあ、この丸子町まで出れば、大きな製糸の中心地でもありましたから、何でもありましたが、丸子あたりまではみんな鷹野原が連絡してやったもんです。女工さんの町でもあったので、もうそれは大変な集まりだったですね。

　八木さんは着物で、女の人の講演なんていったら珍しいから、どんなことを言って話すんだろうか、興味津々といったところですか。そのへんの電柱にビラを貼れば、ワッショイ、ワッショイとやってきましたね。みんな生活に追われていたから、どこかではけ口が必要だったし、そういった講演に対してみんな一生懸命に聴こうとしてました。
　そういった、まあ、社会情勢にたいする見方を求めていたんです。生糸不況で、使われていない蚕糸会社の集荷（場）で話しました。たしか長窪古町だったですね。

　そうですね、四五百人集まったでしょうか。会場満杯で、主に女工さんだったです。いやあ、人が出ましたね、その時は。
　八木さんの話は地道でしたよ。過激な話なぞ全然しなかった。女の人もいろんなことに関心を持たなけりゃいけないとか。そういった啓蒙的なことだったように記憶してます。八木さんの出版記念会のときお話したように（一九七八年四月二八日）、講演だけじゃなく、村の人を訪ねたときの座談に八木さんは説得力がありました。女の人にも人気がありましたね。人に対しては優しさがあって、まあ、権力には強かったですがね。
　そのときの岩佐の講演もうまかった。それぞれの境界なんかがあるから生産的じゃないんだ、だから、境を取ぱらっちゃって共同耕作をすればいい、てな話に持っていっちゃって、実にうまいんだね。

　七日は、小県郡滋野に唐沢定市君というのがいて、そこでもやりました。あとは、八日南大井村の十念寺に林定直っていうのがいて、ずっと講演して歩きました。林定直君はきまじめ一点張りのキミで、私のところと隣り合っていました。全くウソもゴマカシもない青年でありましたね。

　こういった東京の知名人を呼んで講演会をするのは随分盛んでした。その前には農民自治会や全国水平社運動の拠点でもありましたので、まあ、だれでもいい、そういったら語弊がありますが、わたしらにとって何とかこの情勢を変えなけりゃあだめだ、その糸口を見付けるためにとにかく真剣だったですから。

　その頃は満州事変が九月一九日に起きて、翌年一月には上海事変が起きる、そして、世界的な不況、そういった騒然とした、どうなるか分からぬ不安が世間を覆っておりましたから。まして私たちは、昭和二年に、農村モラトリアム運動を起こして「モラトリアムの人たち」って、あとあとまで、今でも知っている人がいるほどで、自信も気合いも入っていました。
　とにかく高い飼料代を払う一方、まゆが安くなるので、生産すればするほど借金が多くなっちやうんですよ。だから、モラトリアム――支払延期を何でもかんでもやれって、当時としてはセンセーショナルな勝利だった。

　わたしの義兄に当たる小山四三さんや関和男さんに小山敬吾、井出好男、さらに水平社の朝倉重吉さんらそうそうたるメンバーが運動しました。私もちょうどこちらへ戻ってきたところで、その人たちの運動に参加して受けた影響は大きかったといえますね。

　もう一人、私たちの兄貴分に竹内圀衛さんという人がいます。文治さんと兄弟です。この圀衛さんという人は徹頭徹尾、私らと気が合う考え方をしていましたね。後で聞くと、ともあれ変革をどうしてもしたかった、それしかねえんだ。いちいち、ああだ、こうだ、いっちゃあいられなかった。そう言ってましたね。それが本当の気持ちだったと思います。われわれもそういった所はかなり割り切っていました。関和男さんと四三さんは御牧ヶ原の開墾地に小屋を借りて「土の家」というのを作って共同生活をしていました。そもそも農民自治会はその人たちが火付け役ですよ。　　　　　　　　　　　　　　　　

　この関さんという人が実にユーモラスなエスペランチストでしたね。ある日東京で石川三四郎さんたちの会議があるって言うので、誘われて、いや、まだこんな支度だよ。素足にワラジじゃあ。いやそのまんまの支度でいこう、ほらほら、てなこといって東京へそのまま着いたら、やっぱり珍しいからみな一生懸命振り返っていく。で、その会議の中で、いろんな話が出て、そのうち関さんが、あんたがた、インドの独立運動の話を知ってるかい、これがそうだよ、素足にワラジだから、スワラジの運動だ。それが受けたそうですよ。いやはや、全くユーモラスなん人でしたね。ヒゲ、ボウボウとした人でね。　　　　　　　その人たちの運動の影響は、全国的でした。竹内兄弟は特に、ほかの人たちからも尊敬されてましたね。大井さんの本は丁寧に、その辺りについて書いてますよ。しまいのほうは、特に私たちの気持ちを書いています。

　私たちと同年配の男で、羽毛田正直という男がいましたが、この男も素晴らしい。人間的にも素晴しいし、頭も良かった。弁舌も立ち、実に真面目な人間でしたね。ほかのものもそうでしたが、いずれも私生活が本当にしっかりしていて、自分を律しているところがありましたね。田舎はそれが悪いとついてこない。信用されません。都会と違いまして、私生活が悪かったら絶対人はついてきません。それが都会と田舎の違いでしょう。

　まあ、一緒に運動をやった連中の中には、ものを先取りして議員になりたくてやったりするものもいましたが、すぐみんなに分かりますから。あれは駄目だよ、そうすぐ分かってしまいます。

　私たちが農青社運動であげられたのは、やっぱり一人の男によりますね。無政府共産党事件、黒色ギャング事件と芝原淳三殺しで神戸から逃走中の犯人、二見敏雄を長野県警は逃がしてしまうんです。
　ですから全員捕らえてみる。アナ系と見られるものを全員です。弱ってしまったわけですよ、逃がしてしまったわけですから。そこへ、かもがネギしょってきたのが金子広只という男だったんです。金子がその後死んじゃったか、どうか知らないけど、まあ二見を取り逃がした手前、何とか事件にして手柄を立てようとしたんでしょう。

　金子がどこから来たものか、よく知らないんですよ。印刷工だったことは違いないんです。小諸でも働いていましたが、疫病神みたいなやつですし、得体の知れない素姓です。そういった人間は必ずいますね。
　なに、いつだって鉄道ぐらい遮断できるっていう話しを金子にしたことがあるんです。話したら金子のやつ、たまげっちまって、こりゃあ本当だわい、そう飲み込んだらしいんだね。だから、東京に出たとき、いろんな話をしたことにそれを加えたんだろうね。だけど、運動をやっているものが集まれば、ちょっとは過激なことを言うのは当たり前ですし、四年前のことを根掘り葉掘り聞かれて、筋道を付けられてはたまりませんですね。

　その列車を止める話ですが、私は竹内圀衛と一緒にその場所まで実際行ったことがあるんです。昭和五、六年ごろといえばこのあたりは騒然としていましたから、そんな話は事実あったことですよ。
　もう、その頃、竹内は共産党に転身してました。でも、われわれはどちらでもよかったんです。力関係でありましたから、あまりとらわれずにいました。ソ連の場合もレーニンが素晴らしい組織力を持っていた、というわけです。現実的にものを考えていて、とにかく現実の体制を打破すべきだ、そのためにはあまり細かいことにとらわれてはいかん、そういった考え方です。

　ロシア革命といった大きな教訓がありましたから、ナロードニキにひかれていましたね。
　そうだ、八木さんの出版記念会の時、歌ったでしょう、ナロードニキの歌を。私たちはナロードニキの歌をよくうたったもんです。私たちの雰囲気はそんなもんでした。

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　運動したという理由で女郎として売られた中村浩子は今のところ、記録上ではたった一度、本牧村小作争議を南沢さんの関係で支援したとされているが、その消息は不明である。また彼女を女郎屋から一度奪還した高橋定市は昭和六年から七年、佐久地方の水平運動、製糸工場争議、小作争議などの記録に名前が出てくるが昭和一四年、満州に渡った後、消息がない。

　ごらんのように南沢さんと行動を共にした仲間には盟友、鷹野原長義をはじめ、たくさんの魅力ある人間が多い。このユニークでもある活動家群像は佐久におけるそれ以前の歴史、農民自治会活動の影響も当然ある。そのあたりは文中に出てくる『農民自治運動史』（大井隆男著　銀河書房）にたいへん詳しい。南沢さんによれば、その著者の大井さんは「最後のまとめの部分などは我々の精神をたいへん良く汲み取って書いてくれた」といっている。

　ところで、その当時、なぜ彼らは困難な闘いに自ら果敢に挑んだか、兄貴分であったという竹内圀衛が言うように「目の前に運動せざるを得ない出来事がある。そのためにまず行動したのだ」ということに尽きるだろう。また、大門村を中心にして活動した鷹野原は農青社運動についてはどんなふうに受け取っていたか、戦後、「農青社運動は農民の心理をよく捉えており、日常の生活に直接結びつき、大衆自ら求めているものであり、それ自体生活手段であった故、急速に運動は進展していったのである。言うなれば、人肌に合ったやわらかい感じの運動で、農民なら誰でも反対しないものでした」（一九七一年五月五日付け宮崎晃あて私信）と語っている。

　これが東京で結成された八木秋子らのグループと農村で運動しているものとの「現場を共有する」相互理解であった。信州の佐久を中心とした彼らの水平社・労働・農民運動は、「戦前におけるぬきんでた運動」として再評価する必要があると私は思う。 　　　
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         <pubDate>Tue, 03 Mar 2009 18:16:29 +0900</pubDate>
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         <title>●第４６夜『近代の＜負＞を背負う女』出版記念会－南澤袈裟松さん</title>
         <description>　３０年前の１９７８年４月２９日。東京文京区立新江戸川公園会館で出版記念会が行われました。出席者は約３０名。第５号まで発行された八木秋子通信「あるはなく」の読者がほぼその数くらいだったという意味でいえば、京都の西川祐子さんや信州の渡辺映子さんなどをのぞいて読者のほとんどが参加されたといえます。戦前からの同志である「農村青年社」の仲間、婦人戦線や女人芸術の同人、女性史研究の方々、八木さんの親戚や縁者の人、そして私の友人たちが集ったのでした。
　そこで交わされた、それぞれの方々と八木秋子とのつながりや著作集出版への祝福などは「あるはなく」第６号にまとめてありますが、今回は参加者の一人、「農村青年社」の同志であった信州佐久の南澤袈裟松さんをご紹介したいと思います。

　実は２００８年９月１５日、朝日新聞（長野版）に大きな見出しで南澤さんのことが報道されました。

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　☆反骨１０３歳 激動の軌跡
　－アナーキスト運動→逮捕・投獄→政治家秘書→老人会で反核

　小諸の南澤袈裟松さん 長男が本に
　手記・関連資料……昭和史の断面を映す
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　長野県小諸市の最高齢者で１０３歳の南沢袈裟松（けさまつ）さんの軌跡を、長男で元教員の陽一さん（６９）が「栗ひろい」という題の本にまとめた。袈裟松さんは日本が世界恐慌などを経て戦争に向かう時代、疲弊する農村のため農民運動に身を置き、治安維持法で投獄されながらも、その後衆院議員秘書も務めた。手記や寄稿文、関連資料からなる本は、激動の昭和史の断面を映す記録でもある。

　袈裟松さんは１９０５（明治３８）年、旧南大井村（現小諸市）の農家に７人兄弟の末っ子として生まれた。東洋大宗教哲学科に進んだが、ロシアの社会思想家クロポトキンの「相互扶助論」に影響を受けていた袈裟松さんは、日本が金融恐慌に見舞われた２７（昭和２）年、大学を中退し帰郷。農業に携わりつつアナーキスト（無政府主義者）が主宰する農民自治会長野県連合会に入り、農家の肥料代や借金の支払い延期を要求する「農村モラトリアム」を県下に呼び掛ける運動に参加する。これに賛同する農村が相次いだ、という。

　Ａ５判３００ページに及ぶ本はこの時期の稿から始まる。

　昭和の初めは２９年の世界恐慌もあり、農民の生活は困窮を深めていた。地元を中心に小作争議に積極的に関与していった袈裟松さんは、各地の仲間と「農民に自給自足、自治協同を反映せしめ、協同社会たる自由コミューンを建設する」とする農村青年社の運動へと進んだ。

　こうした活動が危険分子とみられ、警察から度々検挙された。信濃日々新聞の記者となった３５年には、のちに「慄然！黒色テロの陰謀」「信州中心に武装蜂起　恐るべき都市焼却計画」と新聞見出しが躍る「農村青年社事件」の被告の一人として逮捕され、１年余投獄される。地裁判決は治安維持法違反で懲役２年、執行猶予４年。
　８０歳の時、対談で当時を振り返った袈裟松さんは「レボリューションと言っても地味な方法で進めていかなくてはできない。おれたちにもこんなに豊かな生活ができるというものがなければ、誰がついてくるか」と語っている。

　度重なる検挙で農民運動ができなくなった袈裟松さんは、のちに初代小諸市長になる小山邦太郎衆院議員の知遇をえて秘書となる。戦後は県中小企業団体中央会などで働き、この間、同中央会の会報に「政治の貧困をみよ　軽視された中小企業対策費」「大企業独占化に奉仕する『国際競争力強化法案』」などの記事を載せ、変わらぬ反骨ぶりをみせた。

　７０歳で引退後も老人会で核兵器反対運動を提案し、会の取り組みとしたという袈裟松さん。最近は耳は遠くなったが、いまも歩行器片手に歩く。庭先に植えた同志ゆかりの栗の木が実る秋、栗拾いするのが楽しみだという。

　陽一さんは数年前、袈裟松さんから、逮捕当時の事件を伝える新聞のスクラップブックを託された。今回、父の足跡を１年以上かけたどった感想を「その時代、その時代にのめり込んで生きてきた人間だということを改めて確認した」と話す。

　「栗ひろい」は自費出版で３００部制作、親類等に配布した。販売はしていないが、小諸市立小諸図書館、県立長野図書館で読むことができる。（伊東大治）
………………………………………………………………………

　わたしもこの本の制作に協力しましたが、このような展開になるとは予想もしなかったので、「いやぁ、まことに愉快なことですね」と、陽一さんからの一報に応じました。
　愉快といえば、南澤さんたち信州佐久の農村活動家の方々は肩に力が入っていない、理論一本槍ではなく、ユーモアたっぷりで、飄々と権力に対応する方が多いのです。

　たとえば今回の本の口絵にもこういった記述があります。
■口絵－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－
　２００５年９月１９日（敬老の日）「百歳萬歳記念碑」を自宅の中庭に建立。表面には先のような父が座右の銘にしているクロポトキンの詩が彫り込まれた。

　親しき友よ！
　倦み疲れたる魂もて、
　　灰色の地球－汝の悲しき棲家－を
　　離れて彼方に憧がるるなかれ。
　否！　地球とともに搏動せよ。
　地球をして、汝の肉体を労れしめよ。
　斯くて、汝の同胞が、共同の重荷を担うを扶けよ！
　　　　　　　　世界的な自然科学者　ピーター・クロポトキン
－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－　
「百歳万歳記念碑」というタイトルが愉しいですね。わたしは南澤さんたちからそういったセンスが貴重であると教えていただきました。

　そして、「世界的な自然科学者　ピーター・クロポトキン。」
　ご承知のように、ピーター・クロポトキンは１９世紀から２０世紀初頭にかけ、日本にも多大な影響を与えたロシアのアナキストです。第２０夜[小川未明と大杉栄、そして八木秋子]、第23夜[「あるはなく」第1号発行と有島武郎]でもクロポトキンについては触れ、八木秋子が出会った小川未明も有島武郎もクロポトキンをたいへん尊敬しているということを書き留めました。南澤さんもクロポトキンの著書と若い頃に出会い、その影響をおおいに受けてきたと何度もうかがっています。しかし、アナキストであるクロポトキンを否定するわけではないけれど、この「百歳萬歳記念碑」の碑文とクロポトキンの肩書きはむしろ「アナキストというレッテル已然の人間としての存在」にその本質性を見る南澤さんの真意をわたしは読みとりたいと思います。

　千夜千冊『神もなく主人もなく』【0941】は クロポトキンの葬儀から始まっています。
－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－ 
　1921年２月８日の早朝、モスクワ郊外の寒村でクロポトキンが死んだ。翌日、特赦された数名のアナキストを先頭に、ノヴォジェヴィチの修道院にいたる５マイルの道に、チャイコフスキーの第１と第５が流れた。その葬列には黒旗が林立した。
　葬列がトルストイ博物館にさしかかったときは、ショパンの葬送曲が流れ出した。修道院での出棺には２００人の合唱団がふたたびチャイコフスキーの『永遠の追憶』を歌った。そして、アアロン・バロンの燃えるような怒りに満ちた告別の辞が、時の空気を黒く切り裂いたのだ。
　「神もなく主人もなく、クロポトキンはこう言った、さあ、命なんぞは君が持っていきたまえ！」。 　http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0941.html　
－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－
　やはり、いいですねぇ。荘厳な雰囲気があり、気持ちが引き締まります。

　さて、その南澤さんと八木秋子の二人の関係について、出版記念会における南澤さんの挨拶をお読みください。

★南沢袈裟松－「あるはなく」第６号より 1978/5/30
　私は八木さんと同郷でして、八木さんは南の端の木曾で私は浅間の麓の小諸というところです。今度は八木さんの過去に執筆されたものの一部がこのような立派な本にまとめられて出来たということは私ども心から喜んでおります。私どもは八木さんとは既に半世紀にわたるおつきあいと申しますか、お世話になりました一人でございます。八木さんのことで一言申しあげますと、あの忙しい、農村での座談会やまた講演会などにいかれまして、よくこういうものをお書きになっておられたなあと、私はびっくりしているわけです。もう八木さんの場合には情熱家でしたから、ゆっくりと著作などにふけっている気分になれないわけです。

　今の現実ですね、その中で苦しんでいる人達のためにどうすればよいのだというふうなことを念頭にいつでもあるものですから、村々を回わって講演会をやり座談会をやったわけですが、ことに八木さんの場合は座談会が素晴しくうまいのですね、もう引きつけてしまうわけですよ。私達の農村を廻わって座談会をやっておじいさんもおばあさんもそして若い人達も集まった中で、その当時、八木さんのお年も女盛りの時分でして、素晴しく説得力のあったものでした。とにかく情熱を傾けて、今日おかれている農民や労働者の位置というものがどういうふうなものか、どうすれば私達は抜け出て自分達の生活を、本来の生活に取り戻すことができるか、権力者の手から自分達のものに、つまり自由自治の世の中を作るためにはどうしたらよいか、ということを村の若い人達と話し合って、その時も見張りなどをつけて座談会をよく開いたことがございました。

　八木さんは一面詩人と申しあげたほうがなんとはなしにぴったりするようなお人柄でして、それこそ本当に理屈抜きにして、私達の本来人間としての生き方について、どうあるべきかということを真剣に考え、また村の人達と話し合ったということを私もお伴して一緒に村々を廻わったことを想い出します。
　
  ある時岩佐作太郎さんなどもご一緒に、これは岩佐さんですから話はベテランですからうまいわけです。村々の小さい畑に境をしているわけだが境などとってしまえ、そして馬で耕やせば能率があがるし、実際みなが一緒に生活することができないか、できるじゃあないか。これを搾りとっている連中をなくせばいいのだから、問題じゃあない。と若い人達にハッパをかけまして、若い人達も「ウソそうか」というわけでした。まあ田中元総理が刎頸の友とか書いたそうですが、私達の場合は農青社事件で反乱予備罪でひっかけようとしたわけでしたが、一応その運動はストップしたわけでしたので（幸い体刑何年という程度でよかったわけなんですが）。その約５０年前のことを思い出しますと、八木さんの足跡というものは非常に大きいわけです。各県に渡って歩かれた。ただ文筆を業として生活することをお考えならば、林芙美子さんやその他の女流作家の方もいらっしゃるわけですが、そこをじょうずにいわゆる世渡りもできたでしょうが、そんなことは大嫌いな方でして、体を張ってゆこうという方でした。

　幸い８０余才でまだお元気ですから、今後も頑張って頂きたいと。ロシアにも有名な革命の惰熱家はおりましたけれど、それにも負けないような八木さんにも過去があるわけでして、相京さん始めとして皆さんによって軌跡を、功績といったほうがよいかも知れませんが、一つそういうことを具体的にこういうふうにして頂ければ、沢山の方に見て頂けると思います。今回は＜負＞といいう言葉を題名に書かれたこは、非常に、私はよいことだと思います。なぜなら社会制度の中で婦人の地位というのは常にこの＜負＞の状態に今日まであったのではないか。昔女性は太陽の如き存在であったといった人もありましたけれど、爾来＜負＞の状態におかれてきておりますから、これは近代の女性の一つの縮図だと思います、こういうよいテーマをつけられたことは私も大変ありがたく思っております。
  
　……………………………………………………………………………
　散会の直前、南沢さんが「ナロードニキ」の歌を歌われた。八木さんもそれに唱和した。私はそれを聞いて当時の長野の農村の雰囲気がわかったような気がした。つまりアナキストの運動として東京から農村青年社が長野やその他の地方ヘパンフレットを送っていたが、それを受けとる側の問題意識としてはアナもボルもない混沌とした流動的な「運動」があるだけなのだ。それも未分化、未開の状態なのだという進歩史観ではなく、常に運動があからさまに露出する時はその混沌さによって運動のダイナミズムの度合を語ることができるのではないかということだと思う。後に残る問題としては、それをいかに主体の側に引き入れてゆくかという問題である。また続いて山田さんが正調木曾節を歌われた。これも本来の民の謡なのだと思った。（相京）

　ナロードニキの歌

　イザベルシヤ/ニジナルク/フーフトマイハート/
　マイシヤラポーチ/ナロード/ジンナグロ/カージカ/
　ロードヌイ/アラージ/タイシヤクリフリンス/
　ナロード/ペリオドペリオド/ダブルシンベリオード
　……………………………………………………………………………


　農村青年社の同志で健在なのはもちろん１０３歳の南澤袈裟松さんお一人。その方の軌跡をまとめた私家本が完成し、このように報道されたことは次の「ものがたり」が産まれることを予感させました。その通り、長野県下で記事を読んだ方から「八木秋子」に関する資料の問い合わせや新しい情報が寄せられております。その報告は後ほどするにして、ここでは、その出版記念会に参加していた保阪正康さんが筑摩書房発行の「ちくま」に、「農村青年社事件」について、８月号より連載を始めていることだけお伝えしておきます。１０月号では八木秋子の印象を語っています。
　「大正期から昭和の初めにかけてアナキストとして活動した女性の証言に耳を傾けたが、私には驚くことばかりだった。私は、当時７０代後半に入って、アパートに住むこの老いた女性アナキストからすさまじいまでの社会運動家のエネルギーを感じたのである」と。

　八木秋子をめぐってまた「ものがたり」が動きました。
　わたしはやはり、パサージュという言葉を思います。

　パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である。境界をまたぐことである。ベンヤミンはパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事（Werk）にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものだ。しかし「本」とは本来はそういうものなのである。【千夜千冊0908『パサージュ論』】

　これからも八木秋子をめぐって、自由自在に敷居を跨いでいきたいと思います。</description>
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         <pubDate>Sun, 02 Nov 2008 00:24:50 +0900</pubDate>
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         <title>●第４５夜 著作集発行の経過と言うべきこと 1978/9/25「あるはなく」第7号</title>
         <description> 　八木秋子著作集『近代の＜負＞を背負う女』は、発刊後、予想を上まわる反響を呼び、いくつかの新聞や書評紙、冊子に紹介され、八木秋子への取材が重なりました。

　その書評を３夜にわたって紹介してきましたが、わたしにとってそのことはたいへん嬉しかったと同時に、本当にこれでよいのだろうか、八木秋子の生涯は正当に評価されているのか、わたしが編集した「八木秋子の世界」は彼女の尊厳を冒すようなことになっていないか、その不安はわたしの内部に沸々とわき上がってきました。

　そこで振り返ったのがこれから掲載する文章です。八木秋子はわたしへの感謝の言葉を「転生記」で書いてくれましたが、わたし自身、自分の立つ位置を見誤ってはならないという戒めの文章です。爪先立って、必死に、無我夢中で時代に向かおうとして緊張した時間の連続をいまでも思い出します。誤解を恐れていては前に進めない、自負を持とう。しかし、一方で傲慢になってはならないという気持ちでした、それはいまでも変わらない「八木秋子から教えていただいたことの一つ」です。
　
  では、お読みください。


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  ☆著作集発行の経過と言うべきこと　「あるはなく」第７号 1978/9/25

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　相京範昭

  八木秋子著作集Ⅰ『近代の＜負＞を背負う女』の発行の事後報告を兼ねて若干思うところを書いてみたい。	

　著作集は、実際のところ出版記念会(４月２９日)の前日にようやく出来あがった。計画を思いたったのは昨年の１１月頃で、それまでに、八木秋子の著作の諸々は近代文学館等で集めはしていたもののその本の発行にはあまり積極的ではなかったかと思う。それは著作集の発行に費やす時間、費用はまず「あるはなく」に全面的に注ぎ込むべきだと考えていたからであった。私は、過去を過去として引ぎ摺る現在の彼女の生きる姿勢に深く共鳴したからである。つまり彼女は&quot;私はこれでよいのか！&quot;という問いを常に持っており、かつての彼女、また年を重ねる私達の将来の時間の中で語ることは許さないし&quot;今&quot;が重要であって、過去も未来もさほど重きをなさない。

　発行を思い立ったのはたわいもないことだった。印刷屋は２月は暇になる、「タイプが空いたのでどうだいタイプでやらないか」という誘いに乗って植字を始めた。ところがしばらくして、私が勤めている会社に出入りしていたＪＣＡ出版の根来君と私の会社の社長が企画して一冊の上製本を作った。それで、ある時、この著作集の発行を彼に話したら、上製本にして自分の処で販売しないか、ということになった。私は費用の点で３００部から４００部程度の印刷を考えていたが、同時に八木さんが正月、家にみえたとき、不特定多数の人に読んでもらいたいと話していたので、それでは、と思い１０００部発行で上製本に踏み切った。それにかかる費用は何とか工面しようとした。そして発行したが末尾につけた年譜も第２頁（注：「あるはなく」第７号）にあるように、訂正するような粗いものになった。

　ところが、八木さんが蒔いておいた種は各所で芽が出て、またじっと八木に注目していた人達が著作集の発行を機に出現した。そして八木秋子の存在を私達の充分の思い入れでもって知らせる必要から各新聞社に送ったところ、皆さん御存知のような反響となって返ってきた。まず、６月１０日の東京新聞読書欄ミニニュースで取りあげられ、続いて６月１６日婦人民主新聞の「ごめんください」という欄で『燃焼し続ける女』として人物紹介をして下さった。彼女が６０年安保闘争のとき、婦人民主グラブのデモの隊列に加わったことを当時の日記で知ることができるが、その新聞で紹介されるとは、運命的な出会い以上のものを感じる。

　続いて、三大書評紙の一つの図書新聞に、江刺昭子氏が書評を書いて下さった。その中で彼女は八木秋子を近代日本における女性アナキストの五人のうちの一人にあげて「日本の女性アナキストの思想と活動は、今以って大方が闇に埋もれたまま、婦人解放運動史やアナキズム運動史から看過されている。このいささか片手落ちな現状に、今まで毀誉褒貶の外にいた八木秋子の著作集『近代の＜負＞を背負う女』の刊行は異議申し立てをしているかにみえる」と書かれている。

　続いて６月末「共同通信」から各地方新聞に流された。それは現在判っている部分として、愛媛、徳島、中国、岐阜日々、信濃毎日、河北の各新聞である。それはたいがい「くらし」の欄で、老衰と退歩に抵抗する老女、としてとりあげられている。これをみても八木秋子の提起している問題が、現在を生き抜いているからこそ様々な形で扱われているのが判る。その中で筆者は『ひたむきに生きてきた彼女の肉体をくぐって生まれた言葉には真の思想といえるものがある。知識の再構成ではない、人間そのものをあらわにする言葉がある』と書かれている。私も全く同感である。その原点というべきところを抜きにして何も語れない。ただ生活を露出すれば生活を語り、日常を語っていると思っている人達もいる。がそれはいくら積み重ねてもゼロはゼロである。ゼロはなければならないものだが、ただそれだけでは意味を成し得ない。

　次に６月２６日「朝日新聞」の書評欄で堀場清子氏が『アナキスト・八木秋子のこと』として八木の著作集1を評された。ただし、憶面もなく書かせて頂ければ、最後尾のところは若干の誤解がある。それは、題名の近代の＜負＞とは、フ、であって、カチ、マケではないということである。マケといえばマケているから現在の社会があるわけである。つまり、問題はマケ方にある。フとは権力との政治的力関係の結果を問題にしているのではなく、権力、反権力の両方を含めた総体としての近代、そのゴチャマゼになっている流れが切り捨ててきたものを＜負＞といっているのである。だから、単に反権力の軌跡を継承しただけではその意味する処とは異なると思う。八木の戦後の政治的活動に参加しないその沈黙の意味をどうとらえるか。それを無とみるならば、それはやはり近代の＜正＞に位置するのではないだろうか。

　また、『思想の科学』８月号で加納実紀代氏が『屹立する精神ー八木秋子論ノート』を書かれた。著作集を丹念に評された中から自身の八木論を展開された。

　さて、このように私は書評、評論に対して思う処を書いてきたわけだが、そのどれをとっても、八木に対する、或いは私に対する配慮がなされている。私に関しては、これを発行してきたという事実については別に何らいうことはない。が私への配慮によって、八木を過去においても現在においても、あたかも画面の向う側に葬り去ることになるのではないかと危倶する。私＜達＞が今行こうとしているのは、現在に生き、そして『出合い』を契機にして、世界を支配する政治状況を少なくとも私自身の処で切断してゆく作業であると同時に、一個の独立した人間として他者との関係を創ってゆきたいということである。彼女を評する時、評する者達がそれぞれの日常の中でとらえ返してゆかない限り、かつての知識人の犯した誤りを繰り返すことになると思うからである。それゆえ、この貴重な紙面を通じて、失礼かと思ったが紹介と共に若干の思うところを書いた次第である。もはや、言葉以上に沈黙が重きを成さねばならぬ時なのだと思う。

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         <pubDate>Thu, 23 Oct 2008 23:23:16 +0900</pubDate>
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         <title>●第４４夜 女性のアナ・ボル論争－『女人芸術』誌上で藤森成吉に公開状－　図書新聞 1978/6/24</title>
         <description><![CDATA[★女性のアナ・ボル論争
　　－『女人芸術』誌上で藤森成吉に公開状－

  近代日本における女性アナーキスト５人をあげるとなれば、明治に管野すががあり、大正には伊藤野枝、金子文子があった。昭和になって光るのは高群逸枝、そして５番めに私は八木秋子をあげたいが、秋子は前の４人ほど世間に知られていない。知られてはいないが、その思想の熱度と働きの熾烈さは４人に優るとも劣らない、と私は見ている。
　思うに、管野、伊藤、金子の知名度は、多分にその非業の最期からくる興味に支えられているふしがあり、それ故にさまざまに語られ、書かれてはしたが、アナーキストを自認した彼女たちの思想と活動の跡を仔細に点検したものはほとんど見当らない。高群逸枝は後半生を賭けた女性史著述の違業ばかりがクローズアップされて、これまたアナーキストとしての活動にメスを入れたものが少ない。
　つまり、日本の女性アナーキストの思想と活動は、今以て大方が闇に埋もれたまま、婦人解放運動史やアナーキズム運動史から看過されている。このいささか片手落ちな現状に、今まで毀誉褒貶の外にいた八木秋子の著作集『近代の〈負〉を背負う女』の刊行は、異議申し立てをしているかにみえる。
　年譜によると、八木秋子は松本の女子職業学校を出て、２２歳で結婚したが、愛のない結婚を破壊して家出、女中、小学校教師、新聞記者となって自身の生活を確立する一方、社会運動に接近し、やがてアナキズムの立場を明確にしていった。３３歳のとき、『女人芸術』の同人として編集にも参画し、ほとんど毎号評論や創作を発表した。引き続き、アナーキスト系の女性の集った『婦人戦線』にも参加し有力な同人となった。
　著作集にはこの時期『女人芸術』誌上に発表したものが主に採録されているが、興味深いのは、それが発端となって１０数回に及ぶアナ・ボル論争になった藤森成吉への公開状である。この中で八木秋子は、戦旗派の旗手・藤森に、作家の「誠実」と「イズムの政治目的のために書かれる作品」との矛盾をついてせめよった。それに対するボル派の反駁、更にアナ派による反駁と続いたこの論争は、女性の雑誌における女性のアナ・ボル論争として少なからぬ意味を持つものである。
　当時のアナーキストの最大の文芸誌『黒色戦線』に発表した「１９２１年の婦人労働祭」も読みごたえのある小説だ。革命ロシアの反革命運動に取材して単なるレポートに終らせず、小説としてまとまっている。ほかに短い文芸評論や旅行記も収録されており、いずれにも非凡な洞察力と表現力がうかがえる。このまま文芸家としての道を歩めば、異彩を放つ存在になったろうと思われる。
　が、秋子はこの後、かねてからの主張である自由連合社会実現のための実践運動に挺身した。もとより報われることを期待できない運動であり、泥にまみれ、傷つくのも覚悟だったろう。その時期の秋子の発言がどんなものであったか、続刊が待ち遠しい。
                                             　江刺昭子（女性史研究家）

☆江刺 昭子（えさし あきこ、1942年2月18日 - ）は、評伝作家、ノンフィクション作家、作家、女性史研究者。原爆を被爆した作家・大田洋子の評伝『草饐』（くさずえ、1971年）で第12回田村俊子賞を受賞。
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　八木秋子は、胃癌の父親を見送った後、しばらく木曽で教師をしていましたが、母も見送り、実家を整理して上京します。第１５夜で触れたように、東京日々新聞へ偶々投稿した文章がキッカケで勤めることになり、取材活動のかたわら種々の社会運動の集まりや現場に足を運ぶことになります。
　そこで出会ったアナキズムに関心が向き、『女人芸術』などに関わりつつ、アナ系の雑誌にも文章を寄せるようになりました。その時の筆名がこれから紹介する「佐上明子」でした。当時、周囲にいたアナ系の人たちに聞くと「八木秋子と佐上明子は同一人物だ」と言いますが、著作集第１巻を発行する時点では確定するには材料が不足していました。そのうち、いくつかの文章を比較したりして確信を得たとはいえ、確定まで及ばなかったのですが、病床の八木秋子を訪ねたある日、「髪を切り男装して警察から最愛の同志を奪還しようとした時期の記憶が甦った」ことを決定打として、通信「あるはなく」に佐上明子の文章を一気に掲載したのは、著作集 Ⅰを発刊した一年後の１９７９年８月のことでした。

　では、江刺さんが紹介する八木秋子（佐上明子）の「恋愛と自由社会」をお読みください。

■八木秋子
「恋愛と自由社会」
　近頃のブルジョア雑誌はほとんど競争のように恋愛座談会の記事を売りものにして読者を釣っている。これが一度ある雑誌に現われると我も我もと流行のようにいろんな知名不知名な名前を引っ張り出して看板にしているがそのいうところはたいがい千遍一律で恋愛に永続性があるかどうかとか恋愛と夫婦愛とはどういう違いがあるか、一度にいくたりをも愛しうるものか、とか、中には女医まで引出して処女性の肉体的考察にまで及んでいるが結局どの座談会だって大抵似たか寄ったかのもので常識的な観念的な見方からああだこうだと散漫に喋り合ってお茶を濁しているにすぎない。そこにはなんら来るべき理想社会のもとに芽生えるであろう、真の自由な恋愛観の暗示もなければ、生活らしい生活をも持たないプロレタリアートの恋愛はかくかくだとの指示も見出すことはできない。
　とにかく、恋愛という問題は今のどんな階級－ことに無産階級の人達の間に時代の一の動向として、またもっと深い自分の本能生活の一部として真剣に考えられ、新しい観念をうち樹てられなければならないと思う。
　
　かつて山川菊栄氏がコムミニストの立場から恋愛は第二義として取扱われるべきもので、我々はまず現社会の階級戦の闘士として働く、闘争の任務が生活の第一義でなければならないと主張したのに対し、高群逸枝氏がこれを反駁して恋愛は母性としての内在的本能で決して個人愛にとどまるものではなく人類への愛にまで発展すべき要素をもっている。ゆえに女性は既成の私有欲のもとに誤られた恋愛から目覚めて恋愛によって自由社会への理想を凝視し、そこに人類の永遠なる生命を見出すものであるといったアナーキストの立場から抗議をおくったことはまだ最近のことである。
　恋愛は山川氏だけでなくすべてのコムミニストからその価値を低められ、もしくは蔑視されている。いま読書階級の間に問題にされているアレクサンドラ・コロンタイ女史の著書『恋愛の道』はこれをよく証拠立てるものである。女史は「三代の恋」の終りにこういっている。
「要するに恋愛は私事であって公事ではない。革命社会における我々の価値はその人がいかに社会的に有用なる働きをなしつつあるか否かによって定まる」と。
　
　そしてコムミニストらがほとんど新社会の恋愛観を発見したかのように騒いでいるこの作を通しての女史の恋愛の解釈も、私達には決して新しいものとは思われない。まあ考えてみるがいい。恋愛は私事だとどういう点から区別したのであるか。ここにも彼らの唯物的機械観が脱線しているのを見る。恋愛は人間の本能ではないか、あたかも食欲によって物を食べるように本能が私事なら生きることも私事ということになる。とすれば何が公事なのか？　また社会的に有用な働きがいっさい人間の価値を決めるという言葉もおかしい。それば一面もつともらしく聞えるけれど、社会的という標準が怪しいものだ。コツコツと見えない仕事をして生産に携わっているものも、子供達を骨折って育てる母親も、体の利かない不具者なども、要するに華々しく社会に顔を出して働いているように認められないものはみんな価値がない人間どもで、党の仕事だとか何だとかかって委員会に出席して理論闘争をしたり、書類をもって人民を裁判したり農村から食糧を徴収して日を暮らすような者が一番有用、とされるのであろう。なんと笑止な価値標準だ、そんなことにはお構いなしに労働者は真黒になって縁の下の力持となって下敷にされている。
 
「三代の恋」に現われたコロンタイの恋愛観にしたって少しも新しい観方ではない。ただ、いかにも唯物的で非道徳的で私達女性としてはこんな恋愛観を生む革命社会はまっぴらというより仕方がない。それは私も性欲の自由は認める。認めるどころではない在来の恋愛道徳はみんな既成社会の私有観念から発した誤った道徳であるから今こそうち破られるべきだと思うのである、かといって、どうして母親の愛人を奪っておいて母親の苦悶に平然として「あなたがそれほど私の行為について悩まれるということを前に私が察しられたなら」などと云い放つ娘の心理に同感できよう。彼女はいう「私達はあまりに仕事が忙しくて恋愛をしているひまがないのです。だからたまたま異性と会った時にはその時間を有効に用いるのです」と、組織や党の指令や、書記や軍隊や、そうした革命社会の女の仕事は恋愛ばかりか女性のいっさいを歪めてしまった。
　人は何人をも愛することができるし、性の行為は自由で何の道徳的規準に縛られる必要もないし一のカテゴリーの中に入れるべきものではないと思う。恋愛は性欲と友情で食欲と同じ本能だから要求に従って満足のために行動することは人間に許された自由でなければならない。それが今の社会では「罪悪」という言葉で拒否され、私有によって阻まれている。あるものはただブルジョアの男女が金と閑にまかせてその自由を悪用しているのと、恋愛を何よりありがたがる文学青年や少女達がいろんな色どりをつけて世紀末的にやってのけているにすぎない。無産者は完全に食物と同じように、それ以上に恋愛の自由の影さえ掴むことができないのだ。</ div> 
　コムミニストらの恋愛には一つの特質がある。それは彼女らは党あるいは組合の幹部と見られる指導者を崇拝し、恋愛して次ぎ次ぎと移っていくのである。彼らの間には既成社会にあるのとはかたちの異った英雄主義が君臨している、女達はその支配と強制に圧伏されつつも(奴隷的に)崇拝している。だから一たびその崇拝の対象が組合内部からうとんぜられるようなことがあるとたちまちにして恋愛も熱度を失ってゆく。こうした実例を私は見た。そしてルンペンプロレタリアは同じ戦列にある女達からさえも顧みられないでいるのである。
　自由社会は、どんな人であっても恋愛の機会を持ち性の要求を満たしうるものでなければならない。限りなき性の自由といえば母性の立場から猛烈に反駁する人もあろう。けれど恋愛はその瞬間にあって必ずしも母性を前提として意識するものとは限らない。女性には生れながらにして生理的に多面的な性的行為を望まない、または拒む作用があり心理的にも異性を選択する本能があるからこの自由のために不幸や無秩序を考えるは杷憂にすぎないと思う。
　とまれ、生活意識を個人的なものに閉じこめ闘争の心を回避させるほかのなにものでもない、私有欲に支配されている現在の恋愛はやがてうち破られ、活々とした自由な友情にかがやく赤裸々となり真にプロレタリアの恋愛が私達によって奪い返されなければならない。それは決して英雄主義的なまたは乾枯びた唯物的なものでなく、愛と自由との正しい道徳のもとに－
　そしてその素朴な幸福な恋愛生活はきたるべき自由連合の社会においてのみ、私達は求めることができると信じている。
 
●１９２８年の論壇をにぎわしたアレクサンドラ・コロンタイの「一杯の水」論争に、アナキスト八木秋子が発言する。「恋愛は性欲と友情で食欲と同じ本能だから、要求に従って満足のために行動することは人間に許された自由でなければならない」と。
　本篇は『自由連合新聞』２９号(１９２８・１１・１)に、佐上明子の名で発表された。佐上明子と八木秋子が同一人物であることは、『八木秋子著作集』編者である相京範昭氏が調査し、確定された。その経緯は通信『あるはなく』１１号(１９７９・８・２０)に詳しい。なお、本篇は、同誌掲載のものに拠った。

『愛と性の自由－「家」からの解放』
　思想の海へ[解放と変革]⑳　社会評論社
　編者：江刺昭子
編者まえがき
第一部 結婚制度への問いかけ
岸田俊子「婚姻の不完全」
清水紫琴「当今女学生の覚悟如何」「こわれ指環」
福田英子「男女道を異にす」
平塚らいてう「独立するについて両親に」
第二部 時代を拓いた自由恋愛
与謝野晶子「みだれ髪」
岩野清子「愛の争闘」
中平文子「弱きがゆえに誤られた私の新聞記者生活」
大杉栄「一情婦に与えて女房に対する亭主の心情を語る文」
神近市子「三つの事だけ」
伊藤野枝「申し訳だけに」
第三部 愛の解放区
田村俊子「悪寒」
吉屋信子「理想の女性」「黄薔薇」
第四部 一九二八年の恋愛論
山川菊栄「景品つき特価品としての女」
高群逸枝「山川菊栄氏の恋愛観を難ず」
八木秋子「恋愛と自由社会」
柳原樺子(白蓮)「恋愛讃美論」
第五部 性の自立を主張する
荒井郁「手紙」
生田花世「食べることと貞操と」
安田皐月「生きることと貞操と」
伊藤野枝「貞操についての雑感」
深尾須磨子 組詩二篇
阿部定「予審第五回訊問調書」
解説i愛と性の自由江刺昭子
 
*八木秋子「恋愛と自由社会」
　１９２８年のもうひとつの大きな恋愛論争はコロンタイ論争あるいは"三代の恋〃論争といわれるものです。これは、ソ連の革命家で作家のアレクサンドラ・コロンタイの恋愛三部作「恋愛の道」を林房雄が翻訳出版したのに対して、高群逸枝が「新刊良書推奨欄」(東京朝日１９２８・５／１８)にこの本をとりあげ、三代目の女主人公の性行動は伊藤博文と同じで「新しい恋愛観」ではないとしたのに始まり、主に林と高群の間に争われたものですが、これに対してアナキスト八木秋子が所感を述べたのが「恋愛と自由社会」です。
　秋子が文中であげている山川菊栄の説というのは、菊栄が「恋愛にだけ勇敢であってはならぬ」(『女性』１９１４・２)に「恋愛が社会的に有用な作用をするというのは間接的のもので、それは直接には個人の私事にすぎないのであるから（略)より高級な社会的義務の前には、その大切な恋愛をさえ第２位におく決心と勇気とが、近代婦人の最大の特徴」としたのを指しており、秋子は菊栄とコロンタイに共通の恋愛私事説を見て、それに異を唱えているわけです。そして、秋子の主張は「恋愛は性欲と友情で食欲と同じ本能だから要求に従って満足のために行動することは人間に許された自由でなければなら」ず、それができるのは、「来るべき自由連合の社会においてのみ」とするところに眼目があります。
  あたかもこの年の３月１５日、治安維持法による大弾圧で、地下の共産党員が大量に逮捕されましたが、そのとき「ハウスキーパー」と称する多くの女たちも逮捕されています。その女たちにとって、「既成社会にあるのとは異った英雄主義が君臨」していて、男の支配者たちの「支配と強制に圧伏されつつも(奴隷的に)崇拝している」という秋子の指摘は核心をついています。それは今日の私たちにも有効な指摘ではないでしょうか。
　八木秋子は長野県に生れ、女子職業学校を卒業後、小学校教員検定試験にパスしましたが、すぐに結婚上京。しかしその結婚が失敗だったことに気づき、一子をおいて離婚しています。それからは教員や『東京日日新聞』記者になって自立しますが、しだいにアナキズムに拠るようになり、新聞社を退社します。そしてアナキストの立場から評論活動を始めたばかりの評論の一つが「恋愛と自由社会」です。やがて八木はこの年創刊された女ばかりの文芸雑誌『女人芸術』の編集に参加するようになり、翌２９年７月号の『女人芸術』にコミュニストの作家藤森成吉にあてた公開状「曇り日の独白」を執筆します。これがよく知られているアナ・ボル論争の口火を切ったことになり、秋子も論争を通じて自身の立場をかためていくことになりますが、それについては本双書第２３巻『フェミニズム繚乱』において明らかにされるはずです。

□参考：千夜千冊
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★管野すが
【0736】2003年03月19日 大杉栄『大杉栄自叙伝』
【1206】2007年11月08日 平塚らいてう『元始、女性は太陽であった』 
【0528】2002年04月30日 荒畑寒村『寒村自伝』上．下

★伊藤野枝
【0954】2004年3月25日　寺島珠雄『南天堂』
【0079】2000年6月27日　上村一夫『菊坂ホテル』
【0020】2000年3月27日　佐藤春夫『晶子曼陀羅』
【1051】2005年7月27日　長谷川時雨『近代美人伝』上・下
 
★高群逸枝 
【1201】2007年10月10日 浅羽通明 『アナーキズム』
【1206】2007年11月8日　平塚らいてう『元始、女性は太陽であった』 
【0941】2004年2月24日　ダニエル・ゲラン編『神もなく主人もなく』（I・II）
【0774】2003年5月15日　小熊英二『単一民族神話の起源』
【0578】2002年7月11日　群ようこ『あなたみたいな明治の女』
 
★八木秋子
【1051】2005年7月27日 長谷川時雨『近代美人伝』上・下
【1206】2007年11月8日 平塚らいてう『元始、女性は太陽であった』 


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         <pubDate>Tue, 06 May 2008 00:32:56 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>●第４３夜　アナキスト・八木秋子のこと　朝日新聞1978/6/26</title>
         <description><![CDATA[★アナキスト・八木秋子のこと　－著作集Ⅰを中心に－

☆鮮烈な魂の軌跡－農村コムミュンを夢見て－
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
  昭和初期に、農村コムミュンの理想をかかげて活動したアナキスト・八木秋子は、今日、ほとんど忘れられた存在となっている。最近出た彼女の著作集Ⅰ「近代の<負>を背負う女」（ＪＣＡ出版・１３００円）が、一部の人々の熱い関心と、大方の無関心のはざまに置かれているのも、無理からぬことといえようか。

◇発言に新鮮さ

　戦前、治安維持法によって２年６ヶ月の刑をうけた彼女は、敗戦の「満州」から引き揚げた時、はなばなしく戦後社会に復帰する道をとらなかった。母子寮の寮母や地道な地域活動の中へ自分を埋めた裏には、ソ連兵の乱暴にあって自殺したマルキストの友・永嶋暢子の悲劇がかくれている。そしていま、東京都立療育院の雑居の部屋に、８３歳の日々を過ごす。その彼女の、戦前からの作品をひろい集め、著作集をまとめあげたのは、彼女の若き友・相京（あいきょう）範昭氏である。同氏は、八木秋子の未発表原稿を主とした通信「あるはなく」をも発行している。

　高群逸枝の資料を求めて、｢女人芸術｣や｢婦人戦線｣を読み始めた数年前、私は八木秋子の名さえ知らなかった。だが逸枝の活動を手繰れば、論客・秋子の堂々たる風姿が、いやでも目についた。とりわけ座談会での彼女の発言には、きらめくような新鮮さがあって、八木秋子へと牽引されてゆく自分を、私はたえず意識するようになった。秋山清氏の｢己の足跡を消しつつ生きる昭和のアナキスト・八木秋子｣（「婦人公論」１９７２年５月）を、そのころよみ、彼女への傾倒を決定的にさせられもした。

　本書は、彼女の既発表作品のほとんどすべて、３８篇を収める。１９２２年２月の「種蒔く人」にのった「婦人の開放」から、１９７６年９月の「マルキスト永嶋暢子との思い出」（「高群逸枝と「婦人戦線」の人々」所収）まで。その大部分が１９２８－３０年の２年足らずの期間に、「女人芸術」と「婦人戦線」にかかれている。「公開状―藤森成吉へ、曇り日の独白」は「女人芸術」での有名なアナ・ボル論争の発火点となったものだし、つづく「簡単な質問（藤森成吉へ）」「凡人の抗議」｢隅田氏の妄論を駁す｣は、高群逸枝らと共に、この論争の一翼を担った記念である。また「１９２１年の婦人労働祭」（｢黒色戦線｣１９２９年１２月）、「ウクライナ・コムミュン―ネストル・マフノの無政府主義運動―」（「婦人戦線」１９３０年３月・４月）は、アナキスト文芸の代表作とされている。

◇実践へ投じる

　その最初の作品で秋子はいう。｢周囲のすべてより反逆者と罵られつつもなお且人類としての正しき意思に生きんがために、赤裸裸なる一人の自己を地上に立たしめて、大声に戦を発し得る勇気ある婦人が幾人あるであろうか」。本書を通読して打たれるのは、彼女が、まさにその言葉どおりに生きたという事実である。また｢婦人戦線｣の調査欄に書いた｢日本資本主義の鳥瞰｣（１９３０年３月）、｢資本主義と労働婦人｣(同年５月)では、国際間の経済競争の動向と日本国内の女工の実態、その大量失業や繭価の変動による農村の困窮を鋭く指摘した。そして指摘に止まらなかったところに、彼女の真価がある。

　そのころ秋子は文筆活動から実践活動に移り、故郷長野県の農村に入って、農民の自発的民衆運動によるコムミュンの結成をめざし、「農村青年社」の活動へと進んだ。座談会や講演会での彼女が、農村の老若男女をいかにひきつけ、説得力を発揮したか。当時の彼女にふれた人々の間では、いまに語り草となっている。養育院の青葉の下で秋子も「農村の同志はすばらしかった」と、その時代を回想した。コムミュンの夢を語る時、厳しいシワを刻んだ顔がはつらつと輝く。その理想にもっとも近いものの実現として、中国の人民公社に親近感をよせる。一方、都市の活動では、彼女の才分は生かされなかったらしい。男性の同志は、彼女に飯炊き・見張りの役を割り当てた。「それが男の伝統だ。女自身の組織をもたなければだめだ」と彼女は力説する。

◇どう継承する

　戦前の女性誌に筆陣をつらねた高群逸枝と八木秋子。一人は３０年間の女性史研究に自己を閉じ込め、古きものの探求によって未来を啓示した。一人は実践の場へと自己を駆り、過去いっさいを果敢に振り捨てつつ生きぬいた。逸枝の業績は偉大だが、秋子が身をもって描いた鮮烈な軌跡もまた、心を魅（ひ）きつけてやまない。本書の刊行を第一歩として、その軌跡をあますところなく文字に定着するためには、より多くの人々の助力が必要とされよう。「長い過去の道程を、闘いを、失敗だの敗北だのとは思わない」と、あとがきに彼女はいう。だが彼女のめざしたものはみな、いまだ実現をみない。それが表題にいう「近代の<負>」とすれば、その「人類としての正しき意思」は、継承によってのみ、私達の社会に「正」として蘇（よみが）えりうるのだから。　　　堀場清子　(詩人)

堀場 清子
１９３０年広島県生まれ。早稲田大学文学部卒業。詩誌『いしゅたる』主宰。著書に『わが高群逸枝』(橋本憲三と共著) 『青鞜の時代』『禁じられた原爆体験』など。


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『女たち 創造者たち』1986 未来社 にはこの文章とともに、追悼の八木秋子として「光芒の一季節」が入っています。

 『女たち 創造者たち』新聞の書評：
 ・門外不出３０年、日本はじめての女性史を世に問うた高群逸枝。与謝野晶子に見いだされ戦中・戦後つねに時代の先頭を歩んだ情熱詩人深尾須磨子。「あらゆる君主すてる旅」を模索した茨木のり子。戦前農村コミューンを夢見て活躍したが、戦後は脚光を浴びることを拒否続けた八木秋子など、内外の創造的役割をはたした女性たちをとりあげたエッセー集。詩人特有の鋭く多彩な感性で、先駆者たちの側面を深く掘り下げている。


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         <pubDate>Mon, 28 Apr 2008 23:55:20 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>●第４２夜　注釈:八木秋子の周辺の人たち－川柳作家児玉はる（３）－</title>
         <description>　雪混じりの日本海からの風が山を越え、関東平野の空まで覆い始めると、いよいよ冬枯れへの感興が湧くと同時に、暗澹とした空のもとで「しんしんと雪が降りしきる」雑木林に佇んでみたくなります。

　なぜなのか、考えてみました。わたしはかつて、その一見寒々とした冬山や冬枯れの雑木林風景は「寂しくない」と書いたことを想い出しました。
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　最近見た絵の話をします。田村一男という８５歳の、山や高原を描き続けている画家がいます。特に冬の山の絵は一見寒々とした寂しい風景と見え、屹立した峰は人をよせつけない凛とした姿勢を感じさせます。私はどうしてこういう一連の絵、横山操、水谷光江の作品に惹かれるのかを考えました。たしかに、生れ故郷の山間の冬景色はそれです。しかし、恐らくその理由は、人間は一人で生れて死んでいくという厳然とした事実と、一人で生き難いから人間は共同性を持って生きていくということのように思います。
　寂しい風景と思うのは人間の単なる思い込みで、そこで動物や樹木の営みが続けられ、すべての自然のシステムは作動しています。私たちはそこに立ち尽くし、遠くとおく伝えられてきた意識の底にたどり着き、何か探しものを取り戻したかのように、あるいはもう一つの忘れものを思い出したかのようにして、歩み始めようとする力が湧いてくるのではないでしょうか。私たちとその風景は隔絶した世界ではなく、内から湧く力を信じるという人間への信頼が根底にあると思います。
　田村自身こうも言っています。
 「山は近づいて見ると薄っぺらで多弁、遠くだと雄大です。美しさは離れてみないとわからない。人間もいい距離が大事だ。」1989/3/15
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　第４２夜は、この厳冬の時期に闘病生活を送り、わたしが哀慕の感情をいだいている川柳作家の児玉はるさんに触れたいと思います。児玉はるさん（第１０夜・第２６夜）は１９８８年、つまり今から２０年前の３月に亡くなりました。前年の秋に入院してから５ヶ月目の正月から２月にかけて、児玉さんは一気に十数首も川柳を作り、持ち直すのではないかと淡い期待を周囲のものにいだかせましたが、それもむなしく、３月２２日になくなりました。享年８２歳と７日。

  わたしはその頃発行していた冊子「パシナ」の読者の方に訃報を伝え（1988/5/15）、その時の哀慕の情をこう書き加えました。
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  ☆ひとがいなくなるということはとてもさみしいことですが、そのとき何かがパチンと弾けて、伝わってくるものがあるように思えます。闘病を通じて児玉さんが見せて下さったものはなんだったかと考えると、一つの絵が浮かびました。北斎９０歳の肉筆画、九十老人卍筆「富士越龍」。北斎が執着した富士、その絵の富士は、清澄な、凄みのあるもので、そして、エロスも感じさせます。また、色は蚕が糸を吐く前の体色にも似て、次の何かに変わるということを暗示しているかのようです。いのちとはそのようなものではないかと教えられました。５年前、八木さんを送った５月１日に納骨を行いました。ごく最近、句集『むらさきの衿』(児玉はる)の出版記念会報(１９８４・２)の冒頭で八木さんの「あるはなく」に触れていることを知り、その１年後からのおつき合いを噛みしめているところです。

寡作の児玉さんが武南病院で一気に詠んだ作品を紹介します。

夢にみる白い御飯は薪で炊き
ぬけがちを置き留守になりたい
かすかなる遠い音から夜があける
一碗の粥ゴマ噛んでゐる
闇に啼く鳥ひくく暗く闇深く
真夜中の足音をきく眼をとじる
眠らうと病衣の衣紋正すかな
それぞれにその人らしき夢のなか
夢のなかさへ病人になり

消えていく泡のひとつとなりきれず
あけがたの水仙薫る髪短く
福寿草かたむく五芽三が日
病床に菜の花あかり眼鏡拭く
一枚一枚青邨展の絵はがきを
氷片キラリ高熱さがらざり
スリッパの素足エコーへ肩をかり
桜草サンドイッチと卓の上
朝陽まぶたに静臥している
六人の静臥の午後の加湿器

受胎告知の絵がみえている
一月の雪降りしきる窓
連載の小説を読む背中かな
グラスからあふれる花の茎すける
グラタンヘベットを起こしよりかかり

窓をすぎる鳥のゆくへのたしかさや

春和浄香信女(児玉はる)
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　児玉さんが逝去された数日後、わたしは越後に向かいました。その２年ほど前の「横山操展」で見た「越路十景」が忘れがたく、横山のふるさとが弥彦の麓の吉田町であり、その隣町の「分水町」は児玉さんが小学３・４年のころ住んでいて、病床で懐かしがっていたことも出かけた理由でした。会話することが出来た最後のお見舞いには「越路十景」の絵葉書をプレゼントしていました。そのため、良寛ゆかりの寺泊、国上山、五合庵などを廻ったその行程のメモには、横山操のことがたくさん書かれています。「葬儀の日、小さな児玉さんの骨を拾う、街は木蓮や辛夷が咲いていた。雲は重なり、動き、荒川の上にあった。まるで横山操の越前雨晴のように」とか「越路は暖かく、春霞におおわれていた。一方、振り向けば上越の山々には雪が残り、寒々と見えた。ひとたび日本海をわたる風に越路が凌駕されると、一変して冬の風景になるのだろうか。凛然としたなかに暖かさがある。横山の絵はそれだった。八木秋子は木曽路に、児玉はるは越路に、わたしは追憶する。それを心に沈めた」と書いています。

　やはりこの季節になると、横山操に思いを馳せます。越路十景の「上越暮雪」と「蒲原落雁」には彼の原風景が見てとれますし、シベリア抑留体験も重ねて考えていましたら、つぎのような発言がいっそう身に迫ってきました。たしか詩人の石原吉郎も同じような経験を書いていたことを思い出します。

　横山操展1986 カタログより
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☆人間落ち目になると、とかく苦しい日ばかりつづく。生きるのが苦痛にすら感じることも、よくあるものだ。しかし、どんな苦渋に満ちた時期でも、そこに笑いや喜びが全くないかというと、必ずしもそうではない。ときには重くるしい気分を忘れて、ひとときの笑いを思い出すことも皆無なわけではない。この瞬間が、どれほど慰めになり、また救いになることだろう。
　それあればこそ、人は苦しみに耐え抜いて、再び生きる路を見出すことができるものだ。きびしい冬の明け暮れに、ふと訪れる冬日和の一日は、それに似ている。たとえこの平和ななごやかさが、多分明日まではつづかないものだとしても、しかし、冬を乗り切る気力が、この一日で蘇えることは確かである。
李白の詩の一節。
今日風日和
明日恐不如
表紙の言葉一冬日和
昭和43年12月(976号) 月刊中央公論　
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　江戸時代には「枯野見」という、花見や月見のように小春日に輝く枯野を眺めて感興をそそらせたということが流行ったそうです。


　☆冬は「自然や生命の魂がふえるという意味の【殖ゆ】という言葉からきている」
　☆春は「しだいに自然や生命の魂のエネルギーが満ちてきて、つぼみが【張る】」
　　　　　　『花鳥風月の科学』松岡正剛

  ☆われわれはどこかで蒼然として「枯れること」を救おうとするものなのだ。
  いやいや、救うだけでなく、それでもなお枯れざるをえないものたちを惜しんだのだ。だからわれわれは枯れゆくものへの愛着から何かを発しようとしている者なのだ。枯れておしまいなのではなく、枯れてなおはじまるものを感得した。    『山水思想』松岡正剛

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  『山水思想』は「横山操は＜日本画の将来はどうなるんだ＞と言って死んでいった」という１行から始まり、「日本の山水－水墨の表意－負の介在」という三つの構想を重ねて、「負の山水という方法を巡る提案」だと「あとがき」にあります。

　ここではそこで触れられている「負」について少し書いてみたいと思います。

　わたしは八木秋子著作集Ⅰの表題を『近代の＜負＞を背負う女』としました。その場合の＜負＞は当然たんなるカチマケではなく、「近代というものによって切り捨てられてきた部分」を指していますが、同時に「負のバネ」と書いたように、その＜負＞こそ次の何かを始める時の「素」になるものといったイメージがありました。しかし、自分でつけたタイトルですが、それ以上の意味や背景をこれまでずっと探し続けてきているように思います。その言葉がどう動いていくのか、『近代の＜負＞を背負う女』と著作集Ⅲの『異境への往還から』という言葉がどう豊穣さを増幅していくのか、そのなりゆきを逍遙してきたと言えます。そういった意味で言えば、『山水思想』の「第５部：山水一如」の「枯れる－負の庭－負の湿潤」と続く一連の流れ、とりわけ「負の介在」という言葉に出会ったことは、「注釈八木秋子」においてキーワードになるだろうという予感がしています。

　さて、そこで児玉はるさんのことに戻り、彼女から感得した「負」を語りたいと思います。
　なくなってから１０年後の１９９８年、冊子「パシナⅥ」を発行して、児玉はるさんを追悼しました。
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　□「あるはなく」と「なきもまたあり」（『パシナⅥ』1998）

  児玉さんは児玉はる作品集『むらさきの衿』の刊行を記念した句会(１９８４年３月)をまとめた会報の巻頭で八木さんの「あるはなく」に触れて書いています。

　足が地につかず、気もそぞろの来しかたでした。心身ともにでありまして、今もって、片づかぬ中で過ごしております。この度、昭和１１年からの中から句集をつくっていただきまして、すぎた日々をふりかえりみました。一つ目弁天の池にうつる紫陽花・銀杏の大樹・鉄砲洲小学校へ往復する佃の渡し、馬込村、橋場、駒形、まだ川柳につながりません。人がその随想集を「あるはなく」とされました。なきもまたありと云えるでしょう。(「むらさきの衿」刊行記念句会報より)

　もちろん『あるはなく』とは八木秋子の個人通信です。この文章を書かれたときは、直接児玉さんにお目にかかる前で、またお目にかかってからも児玉さんはこの文章については触れたことがありませんでした。そのため、私が初めて知ったのは、児玉さんがなくなった後で、高麗川団地の部屋を片づけていた時でした。「なきもまたあり」という言い方はいかにも児玉さんこそふさわしい。あるかないかのような薄い墨色を何度も重ねることによって、存在感のある生き方や川柳で、表現してこられた児玉さんの一生を表していると思います。ちなみにこの記念句会の参加者は６２名と大盛況で、その報告の記録には、毎日新聞の川柳コーナーで長く選者を担当していた渡辺蓮夫や時実新子から寄せられた文章もありました。

  私は児玉さんが入院されているとき、福寿草や菜の花などの簡単なお見舞いを持って行きますと、児玉さんらしいことですが、それに一つ一つ応えて句を作られました。なくなる２日前、長男を連れて見舞った時はパックした「ウナギ」と、国会図書館で新たに見つけた戦前の児玉さんの作品を持参しました。

　江戸を知っている人はきちっとしたウナギを喜びます。近藤真柄さんもそうでしたし、古河三樹松さんもそうでした。たまたま私はその頃、江戸川橋近くにつとめていて、その近くにウナギの卸問屋があったので、そこで手に入れたウナギをもって匂いだけでもと思い児玉さんを尋ねたのでした。しかし、児玉さんは集中治療室へ入っていて、私は子供がいたせいもあって、作品を封筒に入れて眠っている児玉さんに別れを告げました。それが最後の別れとなったのです。その直後、古河さんが見舞いに訪れ、その時は意識があって酸素吸入器をしたままだから良く聞き取れなかったようですが、「相京さんがきて封筒を置いていった」と封筒を指さしたといいますが、言葉が聞き取れず、しばらくして古河さんは辞したようです。

　翌々日児玉さんがなくなった日に「残念ながら児玉さんがなくなりました」と電話しましたら、古河さんは覚悟していたように静かに対応されました。児玉さんとの付き合いは六十有余年にわたるので、その日お二人で話しができたということは本当に良かったと思いました。古河さんに「話せて良かったですね」と言いましたら、「あんたも良くしてくれた」とおっしゃいました。

　大逆事件で殺された古河力作さん同様、弟の三樹松さんも背が低い。児玉さんと最後の別れをされる時、踏み台に上って棺の上から顔を覗き込み、人差し指でしきりに泪をぬぐっていた葬儀の時の光景はいまでも忘れがたいものがあります。長い長い付き合いの別れだったのです。
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　親しくおつきあいさせていただいた古河さんの思い出も尽きませんが、ここでは児玉さんの「なきもまたあり」に触れます。八木秋子の「あるはなく」は小野小町の歌（伝）から採ったものですが、それが彼女特有の自己否定を特徴つける言葉だとすれば、「なきもまたあり」も、まさに「児玉はる」という人物そのもののように思えます。カタツムリが這った、あるかないか分からないほどの痕跡は、だからこそ「在る」という存在感を持って迫ってきます。

    ☆背なでて犬の不安を知ってやり

　不安を取ってやるというような傲慢さでなく、背をなでるて知ってやることぐらいしかできないという児玉さんの距離感は、田村一男が言う「山とのほどほどの距離」に通じるのではないでしょうか。わたしは、凹で対象に近づくことによって、その行為自体が逆に凸に変容していくように見える接し方が好きです。児玉はるの世界にはわたしが抱く「負」のイメージが重なるのです。

　　☆魂魄の雪ふるかなた雪みんとただそれだけの旅より帰る　辺見じゅん

　児玉さんは墓を無縁仏とするように遺言しました。だからその追憶は、横山操の世界を逍遙することであるし、越路への「枯野見」「雪見」の旅なのです。

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         <pubDate>Sat, 09 Feb 2008 02:51:13 +0900</pubDate>
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         <title>●第４１夜 埴谷雄高と八木秋子</title>
         <description>　「あなたはキトクな人だ」という埴谷さんの声は今もわたしの耳に残っています。

　１９８３年の暮、八木秋子が亡くなった報告をしたことで、５年にわたって故郷の生椎茸を届ける行為に、もちろんそれはわたしが勝手にしたことですが、終止符を打つように言われ、「はい、わかりました。いろいろありがとうございました」と言って、辞去する玄関先でかけられた言葉でした。
　「キトク」ってどういう字を書くのだろうかと思い、家に帰って辞書を引いたら「奇特＝非常に珍しく、褒めるべきありさま」とありました。
　
  埴谷さんがなくなって１０年たったこの秋、県立神奈川近代文学館で「無限大の宇宙－埴谷雄高『死霊』展」が１１月２５日まで開催され、おだやかな秋の一日、横浜の文学館を訪ねました。会場の展示は『死霊』を中心にして構成され、埴谷さんの声が展示を見ているあいだ遠くから響いていて、とても懐かしい気分に充ちていったのでした。流されていた声は、「縊り残され花に舞う－閉ざされた現代を撃つ表現は可能か」（１９７６年於京都大学時計台ホール）と名付けられた集会でのもので、一緒に講演した吉本隆明が後に「一点一画も揺るがせにしない講演内容を聞いてびっくりした。この人は衰えを知らないなと思った」と書いていた講演です。また、その集会は５年前に３９歳でなくなった作家高橋和巳を偲ぶ集まりでもありました。高橋について埴谷さんは「作家で妄想とアナキズムを共有する人物」と書いています。そして、その頃、清瀬の八木のアパートを訪ねていたわたしにとって「より深く考えろというバトンがリレーされる」という埴谷さんの講演のタイトル「精神のリレー」は、人生で最も重要な言葉となっています。

　じつは、八木秋子著作集Ⅰ『近代の＜負＞を背負う女』を発行した年（1978）の秋、わたしは埴谷さんを訪ねて八木秋子著作集Ⅱの帯文を書いていただきました。

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◆八木秋子著作集Ⅱ『夢の落ち葉を』帯文
　八木秋子さんが、すでに遠い５０年ほど前、書かれたクロンシュタットの反乱も、マフノのウクライナ・コミューンも発表当時私はすぐ読み、また、私自身もそれらについて書いたので、忘失しがたい名になったけれども、八木さん自身については何ら知らなかった。ところが、今度、個人通信を読むと、八木さんは、それらの文章を書かれるずっと前から酷しい自立の道をひたすら歩みつづけ、そして、現在にいたっていることを知った。それは極度な困難の持続の道であったけれども、しかも、その困難こそ自立の場に他ならぬと長く長く立証しつづけたことに、八木さんの本質的な先駆性が存する。

＊クロンシュタツトの反乱：
　１９２１年３月にロシアの軍港でおこった反乱。「すべての権力を党へではなくソヴェトへ」を合言葉にボルシェヴィキ党独裁に反対する労働者・兵士の権力を樹立したが、トロツキーの指揮する赤軍によって攻撃され粉砕された。埴谷雄高はこの反乱を党独裁に抵抗する先駆的なたたかいとして高く評価し言及している。『埴谷雄高語る』より 河合文化教育研究所発行1994
八木秋子（34）は『１９２１年の婦人労働祭』として「黒色戦線」に発表。１９２９年１２月号。
＊ウクライナ・コミューン：
  ネストル・マフノらによるロシア革命時のウクライナ農民を中心としたコミューン革命。「史上初めての自由共産主義の原理が解放ウクライナに出現し、自治管理が進み、地主と争った土地はコミューンあるいは自由労働ソヴィエトとして、共同耕作されていった」【千夜千冊：941『神もなく主人もなく』（I・II）】より。これも赤軍によって弾圧される。八木は「婦人戦線」に「ウクライナ・コミューン」として２回にわたって発表。１９３０年３・４月号。
＊埴谷雄高：
　１９２９年（１９歳）「ソヴェット＝コミュン」を起稿。文献を借りに石川三四郎を訪問。レーニンの『国家と革命』転倒を目指して「革命と国家」を構想するも未完 「無限大の宇宙－埴谷雄高『死霊』展』より2007
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　なぜ、埴谷さんに帯文を書いていただいたか。１９７８年の初夏から秋にかけて八木は感冒にやられて２度ほど倒れ、加えて療養中にベットから落ちて大腿部を骨折。そのためボルトで固定する手術を余儀なくされ、寝たきりの重症病室に収容されていました。その数週間、彼女の意識はずっと混濁しており、訪ねていくと「良く警備を突破してきたね」と警察に収監されているような妄想に陥っているのは２度や３度のことではありませんでした。

　そのため、長年彼女があたためていた自伝風な幼年期の思い出を綴った作品を著作集Ⅱとして発刊しようと急ぎました。８３歳という高齢もその理由の一つでしたが、事態は切迫していました。
　
　その編集を進めていたある日、珍しく体調が安定していたのでいろいろ話が進んだおり、「いま一番会いたいのは有島武郎だ、生きている人物なら埴谷だ」と言った発言にわたしはハッとひらめきました。「そうだ、埴谷さんに帯文を書いてもらおう」と思ったのです。というのも、たまたま通信の読者に平林たい子を研究している方がおり、その方が「戦後の埴谷雄高と平林らとの対談で、戦前、アナキズムの農民運動の実践活動に入り治安維持法で逮捕された八木秋子の消息をたずねる埴谷さんの発言があった」というのです。わたしは埴谷さんがアナキズムに深い共感を抱いていることも知っていたし、もっとも尊敬する方でもあったので、思い切って帯文を書いていただきたいという手紙を送りました。

　すると、埴谷さんから吉祥寺の自宅への道順を書いた地図が届いたのです。「３分の見通しでやる時もある」という大杉栄の言葉。お訪ねしてから帰るまでのことは良く覚えていませんが、夢中で八木の通信や現況を話し、帯文を依頼したと思われます。最初は断られました。しかし、前日埴谷さんを訪ねるというわたしに対し、病床の八木が「埴谷さんかぁ、武田泰淳の死に際しての文章はよかったねぇ、それと武田百合子の文章もとてもいい」と語った録音テープの声を聞いてもらいますと、埴谷さんは「百合子さんの文章を褒めてくれている声を聞いたのがうれしい、では、書いてみましょう」と言ってくださったのです。帰りには通信の印刷費のカンパもいただき、夢を見ているような気分でお宅を後にしました。

　数日後、さっそく文章を送って下さりました。わずかな謝礼を渡すことも失礼かと思い、そのお礼として田舎の特産物を毎年の暮れに届けることを自分に課したのでした。
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　ところで、不思議なことがあるものです。神奈川近代文学館の会場の入り口に展示されていた埴谷さんの幼い頃の写真を眺めていると、「相京さんじゃあないですか」と声をかけられました。見ると、埴谷さんとも関わりの深い２０年来の年上の友人たちで、一人はカメラマンの菅沼清美さん、もう一人は真辺致一さんでした。

　真辺さんと初めて出会ったのは、１９８７年、共通の先輩である笹本雅敬さんが亡くなった時のこと。城西教会での葬儀から新宿花園神社社務所での追悼会、そして追悼集『追悼 笹本雅敬』を発行するまでの作業を背負った最も親しい人物でした。平日の午後に、これほどばったり偶然に会うとは、埴谷さんが引き合わせてくれたに違いないと、展示を見終わったあと、中華街で久し振りに酒を酌み交わしました。
　
☆笹本雅敬：
　１９６６年１０月１９日、ベトナム反戦直接行動委員会はベトナム戦争に関与している国内の兵器工場を襲撃したが、その中心的メンバーであり、アナキスト。

　笹本さんの追悼会は１９８７年７月１２日新宿花園神社社務所で行われました。その際、埴谷さんは追悼の文章を寄せてくれました。
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　◆埴谷雄高
　【笹本君追悼】
  私はまだそれほどの年齢でもないのに、椅子に長く腰かけていると、疲れるばかりでなく、その疲れが翌日まで持ち越すことになったので、訣席させていただき、この手紙をお送りします。
　笹本君とは古い知り合いですが、個人的なつきあいはなかったので、この会の世話人を引き受けたとき、はじめてその名を知りました。尤も「雅敬」をなんと呼ぶのかいまでも解りませんけれど。
　私達の多くは、自分独自のアナキズムを持ちつづけていると、私は思っています。ここで、私が、自分独自、という注釈をつけたのは、私のアナキズムの傍らには、マルキシズムふうな分析、そしてまた、この宇宙存在と私達人間を含む全生物に対する薄暗いニヒリズムも取除けがたく横たわっていて、私の中軸にあるアナキズムは決して全的に幅広いものではありません。
　従って、全的行動者としてのアナキストと見える方々に対しては心から尊敬の念をいだいています。例えば、自分の任務をはっきりと自己規定して、東西のアナキズム文献を復刻している大島英三郎さんを私は尊敬しております。
　笹本君についての最初の記憶は、すでに遠い昔、或るバアに腰かけている私の隣りに坐った彼が、当時、絶版になっていた『死霊』の海賊版を出したい、と申し出たことにはじまります。勿論、著者である私が海賊版を容認することなどできませんが、笹本君に何かの計画－この海賊版はまことに小さな計画ですけれども、次第に大きくなってゆく計画の才能があったことは、その後、二、三回、私の家を彼が訪れたとき、必ず、何らかの計画を携えてきたことで明らかです。
　その一つは、人民戦線時代のスペインの人間か、或いは、映画を来日させるという計画で、他の一つは、アナキズムの雑誌についての計画を私に説明することでした。つまり、或る計画を述べるという目的なしに笹本君が私の家へ来たことはないのでした。
　そしてまた、この追悼会の追記に、笹本君が自由思想社という営利を度外視した出版事業を行っており、その在庫処理に協力してほしい、と述べられています。
　アナキズムが多くのひとびとの深い心の奥底にありながら、いまは少数者の運動というかたちにとどまっていることは、この自由思想社にも、また、大島さんの黒色戦線社にも見られるところです。けれども、私達の心の奥の渇望の深さは底もないもので、たとい少数者の運動であっても、その運動自体がとどまることはあり得ないことです。私自身もその運動の遙か遠い隅で小説を書いています。
　この笹本君を追悼する会は、多くの計画をなしとげ得ず若くして逝った笹本君を追悼するとともに、また運動の持続でもあって、このような私達の心の深い渇望が未知へ向って決してとどまることもないことを述べて、この手紙を終わりたいと思います。
　　　　　　　埴谷雄高　　１９８７年７月

＊その後真辺さんとは、映画評論家としても知られている松田政男さんの紹介で一緒に埴谷さんの自宅に伺い、朝まで語り明かしたことがあります。なお松田さんは埴谷さんの没後も「アンドロメダ忌」を主宰しています。
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　いまこうして、埴谷さんとの決して多くない出会いを辿ってみると、不思議なことに１０年ごとの出会いであることに気付きました。およそ３０年前の八木秋子、２０年前の笹本雅敬さん、１０年前の埴谷さんの死。そして現在の八木秋子の注釈で触れている事実です。

　この際、埴谷さんとの関わりをもう少し広げて触れてみたい気分になってきました。１０年前、新宿区御苑にある太宗寺での埴谷さんの「お別れ会」の光景も思い出されます。寺の境内にはたくさんの方が階段に並び、本堂の中に入ると埴谷さんの遺体が安置されており、一人ひとりが別れを告げられるようになっていました。
　
　毎日新聞の「葬送」というコラム欄にその時のことが書かれていました。とても印象深いので、その一部を抄出したいと思います。
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☆葬送
　自身の「ボケ」をすら観察の対象とし、死の床でも絶えず声を出して、自身を奮い立たせた。意識は、最後の眠りに入るまで明晰だったという。
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　その「お別れ会」は、献花の他は遺志通り「スシとビールでにぎやか」に。８７歳の最期まで闘った作家をねぎらう温かい、カラリとした会になった。「死霊」四章途中までが連載された雑誌「近代文学」の同人、本多秋五、小田切秀雄、中村真一郎３氏のほか、吉本隆明氏、小川国夫氏、黒井千次氏らゆかりの文学者、読者、出版関係者ら約７００人が参列した。
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　死去１１日前の２月８日、作家は「くやしい、くやしい」とつぶやいたという。未完の「死霊」に対する思いと同時に、年齢によって消滅する「不完全な自然」としての自身の体には、絶対に屈服しないといった、生涯貫いた「反自然」思想の、最後の表現であったに違いない。(脇地炯)
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　この文章を書いた脇地炯さんは当時毎日新聞学芸部の記者で、埴谷さんのインタビューを何度も手がけていた方です。実は埴谷さんの帯文を得たことが縁になって、八木秋子著作集が完結した際、毎日新聞学芸欄の一面を使って「八木秋子の軌跡－戦前戦後の思想風土に抗し続ける」1981･7･1 西川祐子（参照：第２４夜）を企画してくださいました。また、八木秋子が１９８３年になくなった時、脇地さんに連絡したところ、その西川さんの文章が効を発揮して、脇地さんの予想も超える「顔写真入りの訃報記事」扱いになって大きく取り上げられました。翌朝刊で全国紙の多くが写真入りの八木秋子の訃報を載せるといった第２夜の事情がここにあったのです。なお、脇地さんとの出会いは、たまたま住んでいた家が近くで、子ども同士が遊び仲間であったのがキッカケ。これがその訃報にいたる「ものがたり」の出発です。すべて偶然ですが、埴谷さんの帯文がそのおおもとにあることは間違いありません。

　さて、第４１夜はすっかり埴谷さんをめぐるいろんな偶然の出会いを書き綴ってしまいました。こうなったら埴谷さんの「笹本君追悼」に出てくる黒色戦線社の大島英三郎さんにも触れたいと思います。
　大島さんとの初めての出会いは、１９６７年、わたしが群馬県の前橋で浪人（19）していた頃に遡ります。地元でのデモで一緒になり、大島さんの皇居発煙筒事件を経て（埴谷さんは弁護側の証人として法廷に立ちました）、印刷所のバルカン社（参照：第３２夜）で、印刷を発注する立場と印刷工のわたしという関係で再会しました。バルカン社では埴谷さんが読んだという石川三四郎の『マフノの農民運動』を含め数多くの復刻本をわたしは印刷製本しました。これは八木秋子と出会う５年前のことでした。

　そして、大島さんはその後、八木秋子の通信や出版活動を遠くより見守りつつ、八木たちが１９３０年代に活動した農村運動、農村青年社関係パンフの復刻をしたいという意思を粘り強く語り続けました。結局八木秋子の死後、かつて農村青年社運動を一緒に推し進めた同志と一緒にわたしは資料集を完成させましたが、黒色戦線社はその発売元を引き受けてくださったのです。『農村青年社事件・資料集』の編集は１０数年にわたって続けられ（完成は１９９４年）、その中心的メンバーの星野準二さんとの共同作業の回想はまた別の機会にゆずることにしましょう。同メンバーの和佐田芳雄さんたちとの想い出も尽きることはありません。その当時のメンバーは今年１０２歳となった信州小諸の南沢袈裟松さんを除いて他界されましたが、南沢さんとの交遊はいまも続いています。

　本当に埴谷さんとの出会いは、わたしにとって考え方ばかりでなく、具体的な事実として言葉にならぬほどの影響をいただきました。最後に一番好きな言葉を引用して埴谷さんと八木秋子をめぐる話を終わりたいと思います。
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☆『老年発見』ＮＴＴ出版 1993
　松岡正剛…そのときに、われわれのコミュニケーション手段とか表現手段を、言葉だけに限っておくのがもう危ないという気がしますね。
　埴谷雄高……そうですね。言葉はただの先駆の先駆の先駆に過ぎないわけです。花火はバーンと弾けたらポンポンポンポーンと火花が宙空へ散って行くわけですよ。火花が散る最初は言葉で投げるだけであって、それからどんどん青、赤、黄、紫の火花を散らして最後に暗黒になる前にさらに何かを閃かせる。これがこれからの新しい役目なんですよ。その新しい役目を見通すということが必要です。

　★暗黒になる前にさらに何かを閃かす

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＊昨日、その頃の通信類を整理していたら埴谷さんからの葉書を見つけました。
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　☆相京範昭様
　長いあいだ、御苦労様でした。八木さんは姪の方の所へ行かれるそうですが、八木さんの健康も祈っています。私自身、日毎に老化していますが、気にしません。
　　埴谷雄高　　　1982･9･8

　これは八木秋子が亡くなる前年、姪の方に引き取られて世話をしていただくことになったことを報告した「あるはなく休刊号」に対する葉書です。

　慈愛に満ちた言葉、そして「気にしません。」という意気。
　いま、わたしの内に響くものを忘れず、「心の深い渇望」を黒色振動として未知に向けてリレーしていきたいと思います。</description>
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         <pubDate>Tue, 27 Nov 2007 00:45:16 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>●第４０夜 八木秋子報道される：共同通信社配信   / 1978･6･21</title>
         <description><![CDATA[■波乱に満ちた自立への闘い
　個人通信「あるはなく」発行　　八木秋子さん

◆家を捨て子とも別れ　良心に生きる老女の叫び

８３歳になる一人の女性が、今、老人ホームの雑居生活の中なら"老衰と退歩に抵抗〟し、個人通信「あるはなく」を出している。その長い、自立への闘いからうまれた彼女の言葉は、友人、読者の間に大きな反響をよんでいる。

◇｢女人芸術｣で活躍
　八木秋子。かつて林芙美子、吉屋信子らとともに「女人芸術」で活躍、さらに絶対自由を求めるアナキズムの雑誌｢婦人戦線｣を高群逸枝、住井すゑらと発行し、昭和のアナキズム運動に足跡をとどめた女性。
　この４０年間は、母子寮の寮母をしたり、地域活動に加わったり、ほとんど無名のまま、ひっそりと日本の底辺の生活を見つめてきた。詩人・秋山清氏よれば"自己の足跡を消しつつ生きる姿"なのだった。
しかし、最近、昭和初期の「女人芸術」「婦人戦線」「黒色戦線」などに掲載された小説、評論、紀行文などをまとめた著作集『近代の<負>を背負う女』（JCA出版）が出版された。相京範昭さんという若い友人の励ましと努力によるものだった。個人通信も本も相京さんの八木さんに対する深い共感から生まれたといえる。

◇老人ホームで生活
　梅雨入り前の、さわやかな風が吹きぬける、ある日、八木さんのいう"前途に安全はあっても道のない老人の国"に彼女を訪ねた。東京都立養育院の、希望していた軽費老人ホームは待機者が多く、また保証人の問題もあって、生活保護法の適用を受ける雑居寮の方に住まう。１年半前に入居。
　「入居後、１ヶ月ぐらいたって、耐えられなくて抜け出したんです。４日ほどさまよいました。相京さんの所にも立ち寄って、その時ゴッホの画集やシベリアの画集を夜を徹して見つめていたというのです。けれどここを飛び出しらどこにも住みかはない、ここが最後の所なのだと帰りついた時は、自分でもショックでね、いろいろ考えました」
　貧しい独り暮らしながら、手を伸ばせば書物があり、ノートがあった自由な生活から、わずかな私物を持って４人部屋へ。それは一層深い孤独だっただろう。

◇すべてをさらけ出す
　その後、個人通信に、これまで波乱の生を歩み、また今、養老施設に身を沈めて生きつつある自分を書いてみよう、と決心する。きっかけは、相京さんの言葉だったという。
　"あなたは愛のない結婚から離脱した時、幼いわが子とも別れてきた。その後の思考や行動の原点にあるのはその体験ではないか。それをさらけ出して自由になることからー"と。
　こうして、現在５号まで出ている通信は、長野の木曽福島に生まれた八木さんが、幼年からキリスト教の影響を受け、結婚し子供を持ったが、小川未明、有島武郎らを知ったことから家を出た体験を語って、始まる。
　「どんな文章になるか、表現になるか、見当つかぬまま、とにかく書きたい衝動が強いのです。でもいつもそうだったのです。先人の書いたものより私のは軽い。高群逸枝さんの仕事をみると大変な文献を読み通しての積み重ねですね。わたしはパッと思いついてすぐに行動に移して没頭するような情感派だから書くものも飛躍が多いのですよ」

◇亡き父との幻の対話
　八木さんの自己診断はさておき、"生きるかぎり闘う良心から身もこころも離さない、しかも自由人でありたい"とひたむきに生きてきた彼女の肉体をくぐって生まれた言葉には、真の思想といえるものがある。知識の再編成ではない、人間そのものをあらわにする言葉がある。
　神近市子がやめたあと東京日日新聞社で活躍、その後昭和のアナキズム運動に身をていして逮捕されるなど、変転きわまりない８０余年が、これから少しずつ記されるだろう。４号で「独房」と題して、八木さんは刑務所にあって、亡き父との対話をする文章を載せている。"最も心にかけてくれた人"との対話の中に、家を捨て、自立を求めた八木さんの声が、父への哀唱となって響いてくるのだった。
　１９７８年６月２１日　共同通信配信『中国新聞』

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■八木秋子著作集Ⅰ『近代の＜負＞を背負う女』は４月２０日に刊行されたと奥付には記載されていますが、実際は４月２９日の出版記念会にようやく間に合ったというのが実情です。その記念会のことはまたあらためて報告しますが、その直後、八木秋子は感冒で倒れ、５月一杯は寐たり起きたりの状態が続きました。わたしは八木秋子の本を世に出した後、より加速したくなったのに違いありません。八木秋子をもっと世に知らせたいと、主な新聞社の学芸書評欄に手紙を出して掲載を要請したのです。

　当時、戦前において八木秋子と同じアナキズム戦線で論陣を張った高群逸枝が盛んに読まれていてその女性史が脚光を浴びていたことが、一方で八木秋子という人物をマスコミが取り上げる理由となったのだと思われます。朝日新聞の書評欄で取り上げる、しかもかなり大きなスペースをとるつもりだと執筆者の堀場清子さんから連絡を受けました。しかし八木秋子は病に倒れていたので、６月に入ってようやく体調が戻ってから取材をしていただきました。

　また、故郷：岩島中学校の友人、丸橋孝成が共同通信社に務めていたことがキッカケで、文化部記者の中村輝子さんが取材に来られました。
　その時の印象を八木秋子は
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★１９７８年６月８日
　日時もぼんやりして私の頭脳は捉えがたい。昨日、共同通信の中村輝子さん、写真班を連れて来訪。どの部屋も使用中なので運動場を望む庭に案内。ベンチにかけて話す。中村さんはある程度仕事で苦労し、もまれて来た人らしい。広い事情に通じ、しかもわたしの本質を見ているらしいので、話は簡明だったが気持ちよく流れて「あるはなく」の質問など的を得ている。
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　このように書いて「私もこの人に何かひかれた」と続けています。中村さんの文章はわたしを励ましてくれました。「"生きるかぎり闘う良心から身もこころも離さない、しかも自由人でありたい"とひたむきに生きてきた彼女の肉体をくぐって生まれた言葉には、真の思想といえるものがある。知識の再編成ではない、人間そのものをあらわにする言葉がある」。この言葉が核心をついていました。その中村さんには一度もお目にかかっていませんが、その後、竹内好の日記にその名前を見て、共同通信の「竹内好番」だったのなら、この「あるはなく」の発行も竹内好の死と葬儀への参列がきっかけになっていたのですから、これも一つの縁かと思っています。

　そこで、中村輝子さんはどんな人だったのか、ネットで検索してみました。

みすず書房メイ・サートン・コレクション『82歳の日記』2004 の訳者紹介によれば、次のような方でした。
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★略歴
北海道に生まれる。東京大学社会学科卒業後、1962年共同通信社入社。文化部記者、編集委員、論説委員を経て、98年退社。現在　立正大学客員教授、ジャーナリスト。著書『女たちの肖像』（1986）, 編著『生の時・死の時』（1977）、訳書　ボニントン『現代の冒険』（共訳, 1987） シンプソン『死のクレパス』（1991） ヘッド『力の問題』（1993） ベル『人種主義の深い淵』（1995） ハーストン『騾馬とひと』（1997） ヘメンウェイ『ゾラ・ニール・ハーストン伝』（1997）サートン『回復まで』（2002）他。
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■実は中村さんの「女たちの肖像　友と出会う航海」（人文書院）1986 という本を知らなかったのですが、どのような本なのか、これもネットで検索してみますと「人間とは女性とはこんなに美しく気高い存在であり得るのかという感嘆の気持ちを禁じえない。彼女らは家庭的には恵まれない人生だったかもしれないが、真実の友がいたのだ」と読後感を書いている方がいらっしゃいます。
　そして、いっそう中村さんのお仕事に関心が湧き、メイ・サートン・コレクション『82歳の日記』2004 の内容紹介とその「メイ・サートン」なる人物のプロフィールを調べたところ次の記事を見つけました。

★『82歳の日記』2004 の内容紹介（みすず書房ＨＰより）
1994年8月、日記を書き終えたサートンはまもなく闘病生活に入り、1年たらずで亡くなった。長いあいだ、友人たちの手を借りながらも独り居の頑張りをつづけていたが、体調不良と死の予感とともにようやく〈老い〉を受け入れ、それでも最後までこの家に居たいと願って、日常をありのままに、ときにユーモラスに記録しつづけた。猫のピエロがベッドに上がってくるだけで幸せになり、積雪に閉じこめられる暗い冬になると、冬眠する動物になりたくなる。気鬱と闘いながら「すこしずつ手放すこと」を学び、いっぽう想念は時間も空間も越えて、少女時代にまで、あるいはサラエボにまで広がる。行間に滲む彼女ならではのオプティミズムと率直さと勇気は、きっと読者を魅了し、共感を呼ぶことだろう。

夢をしっかりつかめ
夢が消えると
人生は雪の凍りついた
不毛の荒野になるのだから。
（ラングストン・ヒューズの詩、本文より） 
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メイ・サートン 
May Sarton 
1912年、ベルギーに生まれる。４歳のとき父母とともにアメリカに亡命、マサチューセッツ州ケンブリッジで成人する。一時劇団を主宰するが、最初の詩集（1938)の出版以降、著述に専念。小説家・詩人であり、日記、自伝的作品も多い。1995年逝去。著書『独り居の日記』（1991)『ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く』（1993)『今かくあれども』（1995)『夢見つつ深く植えよ』（1996)『猫の紳士の物語』（1996)『私は不死鳥を見た』（1998)『総決算のとき』（1998）『海辺の家』（1999）『一日一日が旅だから』（2001）『回復まで』（2002、いずれもみすず書房) 他多数。 
-------------------------------------

■メイ･サートンという人物も知らなかったのですが、そのプロフィールにある「詩人であり、日記、自伝的作品も多い」という点からしても、八木秋子にとても良く似ていると思いました。中村さんにとって八木秋子との交差はほんの一瞬でしたが、わたしが伝えたかった世界と中村さんのその後の活動は相互振動するものがあります。今こうして八木秋子を振り返る中でそのことに触れることができ、わたしはまた一つの「ものがたり」を妄想しております。

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         <category></category>
         <pubDate>Thu, 01 Nov 2007 20:06:00 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>●第３９夜　八木秋子著作集Ⅰ 　 　 　　　　   　　　　　　 『近代の＜負＞を背負う女』</title>
         <description>■表紙
　『近代の＜負＞を背負う女』
　　　八木秋子著作集Ⅰ
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■帯
・高群逸枝、住井すゑらと共に＜女＞の解放を目指して闘い、そして83歳の今日もなお、底辺の生活の中で自己の＜問い＞を背負い続けて歩む著者の初期評論集
　ＪＣＡ出版　　　１３００円


■扉 本文
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　口絵　（著者近影）５３年３月撮影
◆目次

  Ⅰ
婦人の解放
優れた女性
北海道の旅
柿をもってきた父
男性訪問 安部磯雄－安部さん答えざるの記－
言葉・表現
議会見聞 寒そうな肖像
略歴 八木秋子
チャルメラの記録
黙る
向日葵のある朝餐
公開状ー藤森成吉氏へ、曇り日の独白
無銭記 断たれた両面
一周年記念の芸術祭
「蒼馬みたり」評
九州旅だより－林芙美子・八木秋子－
簡単な質問(藤森成吉氏へ)
人から聞いた話 徽びた西瓜のたね
凡人の抗議
ツェ伯号：女人芸術・連盟
隅田氏の妄論を駁す
ビルディングと鼻
文芸時評
神宮裏断片
留置場点描ーブタ箱風景

　Ⅱ
一九二一年の婦人労働祭
書評 黒い女(高群逸枝著)
ウクライナ・コムミュン
　ーネストル.マフノの無政府主義運動ー
嬉しかったこと
調査欄 日本資本主義の鳥瞰
社会時評
調査欄 資本主義経済と労働婦人
詩 薪の火を焚く
満州新国家建設とは

　Ⅲ
回想の女友達・吉屋信子
明るい肯定の人・高群逸枝
大平洋戦争下のアナキスト・八木秋子の場合
　マルキスト永島暢子との思い出

八木秋子年譜

あとがき

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　　◇あとがき
　わたしの現在までに書いたものといってもほんの少ししか残っていない。なぜなら、あまり残したいと思うものがなかったことにもよるが、ほんとうは「生きたい」－というやむにやまれぬ力に押されて、なりふり構わず困難な道を歩きつづけてきた、という、そのことにも因るのかもしれない。真実に残したいものは『何か』を、永いあいだ知らずに生きてきたものと考えられる。その「何か」に気づいたとき私は、東京都立養育院という代表的な老人ホームに収容されて、老人達とともに、死にいたる一条路を正確に、無駄なく、歩みつづける最終訓練の日を送りつつある自分自身を見いだしたのであった。

　私の若き日は困難な道を歩きつづけたというが、歩いた、というよりは闘いに明けくれたといい得るかもしれない。家庭にたいし、社会にたいし、そうしたもろもろの観念や道徳や、歴史にたいしても私一個の批判を向けてみずから迷い、うたがい、苦しみ、反抗してひるまなかった。当然のことながら、非合法の生活環境の中で恋愛し、生活し、大新聞社の記者としても活動しながら、転々として居を変え放浪ともいえるような、無頼とも言える不毛のすえ老年に身を置いて、いまさら感慨という言葉も奇妙と謂えるかもしれない。

　ただ私は現在の自分自身を決して不幸だとも思えないし、長い過去の道程を、闘いを、失敗だの敗北だのとは思わない。私の旅は終焉に近づいたいま、自分にも信じられないほどの喜ばしい転換を、私に齎らしてくれた。私には私の知らないところで多数の、といっても私自身の想像にもよるが－私の過去の生き方や考え方の生んだ、従って歩みつづけ、現在生きつつある軌跡に興味と関心を抱いてくれる未知の、また既知の心の友人が『在る』という事実を知ったのである。

　この新しい発見までには一つの道程がある。昨年春私の心の友、相京範昭君が、常日頃私のアパ－トの部屋に足を運んで語りあった私との対話を、簡単な何かの形で文章として遺さないかという話を持ちだしてくれた。私はこの対話という申し出がどんなに嬉しかったか。だがこれの実現までには大きな困難があることが思われた。

　相京君は大切な時間を都合して、足を運んで下さった。ある時は見とおしの樹立の下で、あるときは廊下の隅で、言葉を選びながら語り、あるときは情熱の赴くままに涙を押えながら語った。相京君の最初の言葉はわたしの胸を強く打った。

　「あなたが若いときから思想やその運動で闘ったことは、或る程度雑誌その他に発表されて知る人もあることでしょう。だが、僕が思うに、あなたの生活や行動の原点となったのはわが子とのこと、即ち子との別離、愛なき結婚からの離脱であり、そのことがその後の生き方の常に立ち戻る基点になったのではないでしょうか。それをまず全部曝けだして裸になる、自由になることが必要ではないでしょうか、僕はそう思うな」

　わたしはその言葉をうけいれ、それに従った。相京君の質問の言葉に励まされながら。ただ私の文章には妙な独りよがりのくせがあり、飛躍がある。その文章の印刷も一切彼をとりまく友人達の温い友情による協力の賜物であった。そして小さい６頁ほどの小冊子が私たちの友情から生まれ、『あるはなく』という題名のもとに八木秋子の『通信』として２、３ケ月に１回の不定期刊行で知人に送られることになった。その通信『あるはなく』も第５号を重ねることになり、その反響には眼をみはるものがある。ただもう言葉以上の感謝を感じないではいられない。

　こうした愕くべき経過を辿りながら、相京君はこんど、私のふるい時代の刊行物を調べて私の執筆を拾いあつめ、全集とまではいわないが「著作集」を出版することに意欲を燃やして下さることになった。今かつての著作を目前にして愛着のあるものとしては「一九二一年の婦人労働祭」「ウクライナ・コミューン」をあげることもできるが、その他は書いたという事実以上特別な感懐も浮ばない。いずれも荒削りで、素材として発表したもののように思われる。

　わたしは、現在の環境の中で、校正もろくにせず、発送にも手を出そうとはせず、事務的な処理など何もせずに歩いてきた。共同生活・集団生活にはおのずから規律があり、秩序があり、自分勝手な自由な行動、生き方には規則という束縄があって勝手なことはゆるされない。私にとって最大な悩みは読みたい本が、いつでも手近なところにない、ということ、考えたいときに孤独の静寂がなかなか得られないことなどではあるが、図書室の備えはあり、そこである時間を過せるということはあり難い。

　通信『あるはなく』は私が書物や原稿のはしきれまで失って屍のような老人の姿を部屋の中に置いたとき、私の若い友が心に閃いた私のよみがえりの幻像であったかもしれない。

  老人の幸せとは何であろうか、私はそれをおもいつづけている。

　　１９７８年３月　　八木秋子

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　◇編集人相京範昭
　この本をお読みになった方は、現在発行されている八木秋子通信「あるはなく」(B５判)を是非購読して下さい。１９７８年３月１０日現在第５号まで発行されております。第１号の一部分は聞き書きですが、他は各号八木秋子が執筆しております。第１号(１０頁) 発行にあたって(八木) /聞き書き「私の生きざま常に私の戻るところ・負のバネ」  第２号(８頁)  わが子との再会(八木) /協力者の一人として(相京)  第３号(８頁) わたしの近況(八木) /八木ノートよりー /父八木定義のこと（１）(八木) /八木への通信(西川) /八木秋子著作リスト  第４号(１６頁) 独房(八木)  第５号(８頁) 転生記(八木) /父八木定義のこと（２） 八木への通信。
  左記住所へお申し込み下さい。各号１５０円です。
  東京都小平市花小金井南３ノ９２９相京範昭
  ▽振替東京4-40972

  この本が計画されたのは、かつて八木秋子という女がいてそれゆえその著作集を発行するということではなく、８３歳の現在もなお波乱万丈の体験を引き摺りながらそれを一つ一つ刻み記している八木秋子がおり、その書かれた言葉に込められている彼女の世界を識る一つの方法として著作集の計画が生まれこうして発行することができたということです。

  著作集が発行されるにあたっては「あるはなく」の読者の方々から暖い励ましのお手紙をいただきました。また年譜を作るにあたっては京都の鷲巣典代さんの御協力をいただきました。そして東京の関陽子さんの自費出版された『埋もれた女性アナキスト・高群逸枝と「婦人戦線」の人々』から八木秋子の文を転載させて頂きました。そうした方々の残されたお仕事もこの本ができるうえでの重要な条件であります。最後に、植字から製本に至る工程に直接、間接参加された方々、および販売を引き受けていただいたＪＣＡの根来さんに感謝いたします。

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■奥付
  著者略歴
 １８９５年長野県木曽福島町に生まれる。
　松本市立女子職業学校卒。結婚し長男出産するも小川末明、有島武郎らと接触し結局「家」出す。東京日日新聞記者を経た後「女人芸術」「婦人戦線」の編集陣に参加し誌上に執筆。農村青年社運動で逮捕。渡満。満鉄の留守宅相談所勤務。引き揚げ後母子寮の寮母。
　現在東京都立養育院在住。
　
　--------------------------
　近代の〈負〉を背負う女
　－八木秋子著作集・Ⅰ－

　１９７８年４月２０日初版発行
　著者  八木秋子
　編集  通信「あるはなく」
　発行  ＪＣＡ出版
　東京都千代田区神田神保町1-42日東ビル1F
        

  --------------------------------
  　Ａ５判　上製本　２０４頁
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         <pubDate>Fri, 26 Oct 2007 00:52:04 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>●第３８夜 転生記（３）</title>
         <description>　八木秋子通信「あるはなく」に連載した都立養育院での日記を、なぜ「転生記（てんしょうき）」と名付けたか、その理由を何度か聞かれたことがありました。実は、ちょうどそのころ出会った本、林竹二の『田中正造の生涯』に思うところがあったからでした。ここでは詳しく触れませんが、足尾鉱毒事件の田中正造は、最晩年に「思想的大変化＝回心＝自己否定」を行います。彼女の日記名を決める時、その「回心」から連想して浮かんできた言葉が「転生」だったのです。
 
　転生とは甦り。第３６夜について、次のような感想をネットを通じての読者の方からいただきました。『八木さんの文章、世の中のたくさんの人に読ませたいと思いました。気負いがないのにこれだけ気迫が充ちる、とは・・。それが「老人ホーム発」という背景。そういう場にこういう言葉がしずかに、当たり前に、はっきりと在りうるんだということ・・』。このように彼女の声が新しい読者に伝わっている、この八木秋子の時を超えての多様な「甦り」をわたしは発行当初から願っていたのです。
 
　さて、今夜は「通信あるはなく」の発行に関わる転生記を一気に掲載しようと思います。長いです。１９７７年８月に第１号が出来上がり、翌年の３月に発行される第５号までの期間にあたりますが、第３５夜で触れたように、この期間はわたしと八木秋子が最も頻繁に共同作業を進めた「熱っぽい雰囲気」に充ちた時期に当たります。第２９夜～第３１夜はその頂点というべき「対話」を掲載しました。そして、秋から春にかけて、八木秋子通信は読者の要望に応えて八木秋子著作集Ⅰ『近代の＜負＞を背負う女』の刊行に向けて疾走したのでした。
 
  では、お読みください。


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第１号（１９７７年７月１７日発行）

　発刊にあたって　　★第１３夜
　私の生きざま　　
　　常に私の戻るところ、負のバネ　　
　　　　　　★第１６・２１・２２夜
　　　キリスト教の影響について
　　　直前で諦める事は無意味なこと
　　　セックスというのは大きいことだ
　　　飛び出たけどそれからがね……
　　　それぞれが生きるということ
　　　再び家出する
　　　衝動的な直観と偶然を信じて
　　　跳び越えたいけど&quot;我&quot;が

第２号（１９７７年９月２０日発行）

　わが子との再会　　★第２７夜
　協力者の一人として　相京範昭　　★第２５夜

第３号（１９７７年１１月２０日発行）

　わたしの近況　　★第３５夜
　八木ノートより１　★{割愛}
　父・八木定義のこと　　★{割愛}
　八木への通信　　西川祐子　　★第２４夜
　八木秋子著作リスト

第４号（１９７８年１月１０日発行）

　独房　　★{割愛}
　薪の火を焚く　　★{割愛}

第５号（１９７８年３月１０日発行）

　転生記（てんしょうき）
　父・八木定義のこと(２)　★{割愛}
　八木への通信　　　　　　相京
　　　　　　　　　　　　　＜松本市・牛山＞
　　　　　　　　　　　　　＜小金井市・赤松＞
　　　　　　　　　　　　　＜厚木市・しのだ＞
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■八木秋子日記「転生記」　秋子（82）相京（28）

１９７７年８月１５日
  １昨日、相京君が私のパンフレット、「あるはなく」が刷れて、３０部程養育院へ届けて下さった。体裁はさながら教会の通信類と同じ。どんなに薄っぺらで、表紙もなく、奥付もない貧弱なパンフレットでも、これは最初から相京君が骨折って世に出して下さったもの。読んでみると、私の気になっていたテープの写しとしては断片的な、そして浮いている感じがわりに少なく、少し筆の走りが早いくらいなことでガマンできる。私も養育院に入所してから、とにかくこれだけの仕事をなし得た、という感謝と満足が私を落ち着かせる。
　なかなかよい。

９月１日
　「あるはなく」は相京君が私の知人に何部づつか送ってくれて、その反響はたいしたことはないけれど、かなり明確な共感と、賛辞をもってよせられた人も多い。多いといったところで、根が少数の人々であるのだが、松本の渡辺映子さん、京都の西川祐子さん、『婦人戦線』で一緒だった大道寺房さん等である。西川さんは、相京君に宛て(内容は私あてのもので。註：第２４夜)これまで私が書いた「婦人戦線と高群逸枝」に書いた永島暢子とのこと（註：八木の親友。敗戦直後に満州にて自死）、私が過去友捨てと子捨てで深刻な自己否定の結果、自己を捨てきったところに救われた最も純政治的な女性（註：これは八木秋子の誤解【原文：八木秋子はもっとも政治的でない人で】）―と評価し、しかし子捨ては内容がちがう、とその私の自己否定を評価している。彼女は、かって、農青運動の頃の日本の社会状勢を反省し、今日何が満たされているか、何が少しでも救われているか、その不分明なところに仮の安定を感じている内心の恐しさを表白した。彼女は、かって私が婦人戦線に書いたファシズムの鳥轍図社会時評(註：著作集Ⅰ159ｐ)を高く評価し、私の図式の明晰さを認めている。そして、この小冊子「あるはなく」の発刊を喜んでどこまでも続けて欲しいと。この人の「あるはなく」の次号からの期待にぜひ応えたい。

　さて、では今後の執筆の方針は、根幹はどこに置くべきか。子捨ての途中、親と子の再会まできてとまどっている私は、今後の執筆の方向を決めねばならぬ。ただ母と子の泪―子の死、人情といえばいえる後半について迷いかつ苦しんでいる理由だ。１号を繰り返しくりかえし読むうちに、古山との結婚生活において、私の感じた性への絶望と嫌悪、性とは何ぞや、の考察をもっと私なりに深めていったらどうなるか、私の絶望なるものは、あくまで浅く、ほんの入口でしかない。子を捨てるまでの絶望は単なる心理的な理由だけでなく、もっと肉体的な、生身の生理の理由がなければならない。男と女との絶望にはもっと肉体的な性的な原因があるのは当然であろう。私のあたまに、その代表的作家として性を重視した人に坂口安吾・太宰治、という２人の作家が頭にのぼった。

　性―無頼な生涯、といえば、まず２人が挙げられよう。私の小冊子第１号は夫婦の性のほんの僅かだけ覗かせたに過ぎない。そして私のペンはその小さな入リ口しか描いていないが、性こそは自己否定の、全否定の、つまり全きか然らずんば死、という生命の問題の鍵である。いかなる否定も、いかなる苦悩も、いかなる愛も、この性を避けて通れない。性こそは人間存在の鍵なのだ。仮に＜罪と罰＞をとりあげてみても、あのラスコーリニコフに性のかけら、性の匂いだけでも加わったとしたら、あの作品はどれだけ様相が変わるだろう。主人公の否定に、もしくは主人公の絶望にどんな影を投げかけるか。＜カラマゾフの兄弟＞に、もし神の子というべきアリョーシャに、一切を否定する２男に性を体験として与えたならどういうことになるだろうか。これは想像しただけでも巨きな問題である、これ以上の宿題はないだろう。あまり巨きな宿題を持ち出すまでもない、ただ私は小冊子に何もまだ書いていない。まだ嬰児でもない胎児でしかない。私はこれから生きる残り少ない余生を、いっぱいの勇気をもって私の生命をかけて書いてみたいのだ。

　今からどんなことがあっても悲観することはない。どこまで書けるか書いてみょう。性に眼が届き、性を少しばかり覗きみたうえはためらわず書こう、書き続けよう。羞ずることはない、おそれることはない。どんな女でも子を生もうと思えば、子は簡単に妊れる。女である以上自然のことで可能だ。意志によらず、否定の理性によることもなく。

　しかし、性の深化、芸術的昂揚、美化はむづかしい。これからが問題。斜陽、人間失格、グットバイ、などを熟読すること。変わり者、変質者、人間失格はそれでゆけ。これからの生き方はそれしかない。周囲との違和感。孤立、抵抗に対する魂のあり方、全て自らの自己否定で押し進むこと、他者に働きかける捨身の抵抗と積極性。

　八木秋子は生きている、まだ死なない。死んではいない。ここに生きているのだ。

９月×日
　こんどの「あるはなく」で私の肉体と霊魂の中に僅かに残されたエネルギーがあの短い一文の中に絞りつくされた感じ。この短文の続きについて相京君から示唆を受けた。あの子別れをもっと続けること、農村青年との当時の理解、共感、活動など―。あの当時の農村の惨状は必要だ。―しかし、それの詳述には私の知識蓄積ではとても不足なのだ。そして、実際問題としてあの１９３０年代のアナキズム運動をありのままに列記するには憚るところが多いのだ。運動と名づけられない憚るところの多いのも事実だ。

　とにかく―「あるはなく」、を読みかえせばかえすほど、あれは八木の自己否定そのものだ。そして、どこにも理性や完結性のない、破滅への転落そのものである。情熱と瞬間しかない衝動そのものだ。子を捨てて後の生き方において、他人を説得できるような理性や指針となるものが根本的に欠けている。坂口安吾や太宰治のような旗色鮮明な没落や破滅はよほどの蓄積と混迷の上に立たなくては生まれない。私の「あるはなく」―の出来はよほどの険しい断崖を跳び越えぬ限り、生と死を越えた、否死をみつめ、死を覚悟した上でないとその破滅に至りつけそうにないと知るべきである。

　こう考えると、破滅の先にあるもの、現実畏怖、現実曝露の先きにあるものは性の再評価と性の再生でなければならぬ。性は人間にとって、殊に創作を志す者にとって避けて通れぬ人間性の昂揚であるといわねばならぬ。ことに、性は飛翔したことの経験のあるものにとって墜落の体験ともなり、そこから人間の自由が生まれる。自由は死より。死は復活を生み、その復活は絶望とともに美しく自然。死を眼前におくもの、見るものは何物よりも自由で、それゆえ美しい。

　「あるはなく」の構想が子との再会まできて行きづまり、苦しんでいたとき、「あるはなく」で知人の評価をうけたことが起死回生のバネとならんことを。否定と絶望から起きあがるバネとならんことを。
　さて、「あるはなく」を書き活字となったことが私の心の眼をひらいた。書くこと、書き進め、書き続けることは終焉を意味する。私は前途を顧慮することなく書きすすめよう。　まず太宰の斜陽を読み、人間失格を、さらに死に近づいた頃のものを読むこと。性の芸術的昂揚には古山時代からの道程を、小川未明氏の残せるものを、生田春月の不徹底さを宮崎（註：宮崎晃は八木秋子のアナキズム実践運動「農村青年社」における中心人物であり同棲していた同志）との思想と性の破局を。在満日本人の、ことに永島暢子の脆弱性を、半官半民という生温い生活の可能性を衝いて性の不徹底さを不変の志向に。生活の生温い依存と帝国主義の圧制の双股生活の不安。あのひと(女)の姿勢にはくずれたところが見えますね、の千葉課長の言葉―くずれた、といった言葉。
　満州事変の深化―皇旗のもとに満州開拓農民の選出、満州民族の冷静さと知恵。日米戦争の迫る気配のもと、ナチの没落によっても目をさまさない日本。戦争の恐怖を知らないのは性の奥態を知らないから、性の混乱が戦争を生み、その混乱が家庭の秩序をかため、その秩序の破綻から変革の曙光が射し表われる。革命運動と性の自由、最後の一線を越える民族、民族の独立、民族の自由と性―。
  源流は食糧よりも性の志向と渇きの混乱、秩序よりも性の本態の生理的混迷、経済の視野に潜み秩序と生産の機能を動かすもの、視野の拡がりによる生理的把握。終末と死の断崖に脚をおく危機感(観)と自己解放。自己解放による政治の死滅、政治よりの解放は性に原点(食と)、組織や機構を変えるのは枝葉末節。

９月２１日
　「あるはなく」第２号出来。やはり相京君の意見をいれて健一郎の酒店のこと。その死で終わったのは返すがえすよかったと思う。あれを理論や他のものにしたら、とても収拾がつかないものになったろう。母と子の再会の行くべき道としてよかったのだ。
　★参考：第２７夜、２５夜

９月２４日
　２３・２４日と相京君宅へ２泊。相京君の勧めで共同保育、ディン・ダン・ドンのメンバーなるママたちと半日を送り、団欒と理解のよき時間をもつことが出来た。どの人も若いママで、どの人も在るがままの人、若い母、若い妻で、さまざまの話題で語り合った。
　なかには思想の科学に執筆している「大御心と母心」の筆者（註：加納実紀代さん）で、鋭い人。高群逸枝の全集から、あるいは思想からの話題が多かった。話の中で、高群の書いたものには天皇制の否定はなく、むしろ夫婦とも擁護の理論であり、その点どうだろうか、という意見だったので、それは高群夫妻の擁護者であった下中弥三郎の思想傾向からきているかも知れないが、もっと深く、高群が女性史執筆の原点をどこに置こうかと考えたとき、彼女に閃いたのは本居宣長だった、本居の思想がそれであったのではないかナァ、といったら皆肯定した。高群全集を貫く思想はそういうところに発想があったのではないか、といった。
　皆の質問は高群夫妻の生活、その常識を越えた生活だったようだ。メンバーの女性達がどう感じたかは知らないが、奥さんの話しでは、どのメンバーも何かを私から感じたらしい。帰りには全員玄関前に出て、さようならを叫び、手をふっていた。

９月２５日
　日曜。相京氏に送られ、帰途につく。花小金井駅まで、それから清瀬まで、判かっているようで判からない。わがあいまい模糊とした頭脳に腹が立つ。清瀬―池袋―大山と送って貰って明々寮へ。何のことなく帰った。責任のない私は外出にも心は軽いはず。部屋の間断なきおしゃべりには閉口。

９月２７日
　私の返事を書かないのは小事を強いて大に何でもないことを深刻に考える性行によるものだ。他人に会いたくない、孤独が好きだという私の考えはエスカレートして、生活上に必要な事務的なことまで白紙のままだ。通信のたえること、無音がどれほどの損失と誤解の種子となるか、よく知っているが、とにかく手紙を書くのがいやなのだ、手紙の文章と原稿としての文章とは違うのだ。

１２月６日
　どこも、部屋は変わっても大同小異、私はただ希望棟へ行く自由を確保したつもりである。この界隈の人達は、相京君の面会に来るのをだいぶ問題にして噂の花を咲かせているらしい。

１２月１１日
　相京君が来た。私の部屋で話す。通信第３号の刷れたのを持って。今度のは私の冴えない頭のせいか、書き終わりが尻きれになって映えない。相京君は次号に私の内面と宮崎君との公判廷における陳述、私の運動に対する幻減、運動全体とアナキズム運動の批判(男と女の相距たる相違など)をぜひ書くようにと繰り返し要望して去った。
　それを書こうとして、なんとしても筆がとれない。宮崎君との決裂、逮捕されたときの彼の最初のハガキ、差し入れとして岩波の植物学全集からその純学術的な終わりのない専門語、ドイツ語の困難さ、生活の問題を書かねばならぬ、何よりも宮崎君自身のアナキストとして指導的、指導者としての適否、アナキズム運動の空虚な実像―。農青イズムに目ざめた意義、そこで地方同志を知った実効などをとおして実感した農青イズムの実像などを書かねばならぬ、これは考えても大変なことだ。とても雑報に書けない、書ききれない。そこで低迷にまたしても落ち込むことになって何も書けない。

■第３号　後記（相京）
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　私の可能な限りの『目録』を作成した。その他、読者の方で補足されるものがありましたら是非御一報載きたい。読者からも指摘されることだが、通信の限られた枠内では彼女を識ることに一定の限界がある。そこで、ここに掲げた彼女の著作を復写印刷で来年３月を目標に発行する計画を進め、それを通じて、彼女の現在の一つ一つの言葉に込められている「闘いの中での蓄積」を感得する一つの手段にしたい。正直いって、僅か数号で彼女を識ることはできないし、何十号と継続する間でまた始めに戻って読み返せる通信を求めて行きたい。また、彼女の文はそれに充分答えうると思う。私が身近で接っする彼女はまだまだ充分に紙上で暴れ回ってはいない。読者が期待するものもそこだと思う。次号は彼女が書き溜めておいた活動中のものを一気に掲載し、１２月中に発行したい。
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１２月２４日
　けさ、ようやく書いた「八木定義Ⅱ」が書けたので相京君に電話した。２４枚だ、あす行くかも知れない、だったが今朝きた。父定義のは選挙に勝って、病院で大沢と八木との対話などを書き入れ、判検事の来たこと、などをからめてやがてくる没落と悲劇について予告を試みた。

１２月２４日
　西川さんの手紙は何度読みかえしても倦きない。だが分析が利いて本当に理解するのはむつかしい。

１２月２８日
　１時頃相京君から電話、午后２時にいつもの喫茶店で会おうという。いま駅前の喫茶店で待ちつつこれを書く。帰ってきてから書く、相京君から届けられた葉書により熊本の弁護士庄司進一郎氏（註：庄司宏弁護士の父）が熊本市内の病院で急性脊椎炎のため急逝されたそうだ。よい人だった、いよいよ、あの世へ急行する人の多いこと。

１９７７年１２月３１日
　大晦日である、思えばことしは私にとって特に記念すべき年だった。「あるはなく」私はむつかしいことは一とおり相京君にまかせて、ここの生活にふりまわされながらうろうろと書き続けた、文体にも自信とはいえないまでも落ちつける気持。

　日記を書くことに気がついて、相京君の賛成を得てからずいぶん気持に活気をとり戻した私だったが、肝腎の日記になるものの材料が少ない、まるで無意味みたいな日常なのだ。日記にしても現象がはっきりしていること、材料に興味と面白みがなければ。だがその出来事の羅列では仕方があるまい。ただその雑事、出来ごとと、人間のこころを指し示す認識なのだ。これは技術的にもむつかしく、永久に絶えない課題であろう。

１９７８年１月１日
　年賀状が沢山来た。８５枚ほど。配達してくれた寮母がおどろいている。年賀状は書くのが苦痛だ、きまりきった型どおりの文句なのだ。テレビでシャガールをみる。シャガールが現存の画家とは知らなかった。彼はロシヤ生れ、大河の辺りで貧しく育った、ポーランドに居住しているとき世界大戦、ナチによるユダヤ人の迫害でユダヤ系の彼はアメリカに脱出するが、そのまえパリに行き、労働、ただ絵画にたいするおそろしい情熱、そして恋愛。そこでシャガールの原像、原色彩を発見、アウシュヴィッツの悲劇を知る。ピカソを知り、またパリに行きそこでゴッホの「馬鈴薯を食べる人々」―農民を見出す。彼は画くこと、そこに生きた―。

１月２日
　年賀状がちっとも書けない、短い文章を―と思っても思い浮ばない。

１月４日
　終日年賀状を書き５０枚を越す。
　相京君から来信、帰郷し５日頃帰ろうと思う。来年(ことし)は＜父・八木定義と養育院における今の日記＞＜読者よりの手紙＞＜古いノート＞をのせて行こうかと思っている。いずれにしても、先日書くように勧めた八木定義・小川未明・有島武郎、女人芸術、農村青年社―満州、母子寮、の自伝とこれから始める日記の連載が主柱になります。続けてお書き下さい。私は５日に帰ってきます。１５日前後に私宅にきて下さい。私は八木さんのお蔭で、生まれてこんな充実した月日を過したことはありません。私の内で言葉にならなかったものが、八木さんを通じて自身の中で整理されてきたような気がします。感謝いたします。(12月３０日)
　私が相京君に発見されたか、相京君が私を体得してくれたか、奇縁、妙縁。どちらも似通ったものがあり、触発されたか。

　ようやく雑煮からごはんへ切り換え。やはり我々は米と味噌汁へと辿りゆく民族だ。わたしも希望棟行きを中止して久しい。いまはダンボールの箱を使っている。相京君から電話で、田舎から昨日帰京した、ついてはこんどの４号をすぐにも出したいので、未決での父親との対面の校正ができているか、との問いにイエスという、きょう４時すぎにとりに行くからいつもの喫茶店で落ち合おうとのこと、諾と返答。ＩはきのうＭに頼まれて５０円金を貸した、返すでしょうか、とバカみたいな心配をしている。夕食が遅くなるので、Ｉにごはんをとっておくことを頼んで例の喫茶店にでかける。
　相京君は私の仕事のことしか頭にない。実に若々しい、記憶がいい。私がしっかり書けばあとはスムーズにいくばかりだ。

　銀行事件－、崩壊の発端、新聞。村有林売却の７万円の件。町のさわぎ、銀行の取付事件。町の発狂者、家出人。ついに父の言葉により３０冊の日記が下の小舎から出る。長野妾宅における悲劇、大沢の拘引、××病院長の声明。八木父の召喚状－長野行、汽車は闇の中を光りの尾をひいていく。
　諸々方々へ電報で－。見舞客、福島祭のタ。長野から大沢茂、杉本紀平など到着。弁護士の件、長野の大沢の容態、馬市の馬。教会の青年教師。木曾川の洗濯。保証人各家のさわぎ。初秋、大正４年秋半ば。
　その他、独房での父との対面。大正４年秋半ばーその前夜、長野の父より電話、朗々たる声。明夜帰る。手分けして道々に迎えに出る。電球、いろり。父・母・姉達、兄、父の眼。父は独房で差入れあり、三河屋のコック面会。

　私の書いた父との監房での対面、対話の原稿が出てきたおかげで随分助かる。これのおかげで４号は早々と出そうだ。相京君によると星野君は（註：八木の同志、後に『農村青年社事件・資料集』全３巻を共同編集した。９４年刊行）、「あるはなく」について好意ある批評と援助を送ってくれた。山田よし子さんの不幸の時は一言もふれず冷たい態度と思っていたがやはりそうではなかった。沈黙の間に見守り、声援を送ってくれたのだ。うれしかった。

１月８日
　午前カレンダーを何気なくみると１月１２日になっている。Ｍがたくさん日付をちぎることをして、本当は８日であったから日記を安心した。『傷ある翼』を読む。こういう平板な感じの文体は私はそのまま真似ようとは思わない。
　私信をみる。西川・渡辺・宮木氏からの来信はなかなか良い。きのう、相京君には古い関係の人に通信を送付するようたのんだ。注目のうちに帰る。異性の訪問者ということだ。

１月１２日
　日取りがよくわからない。相京君から電話で、いま４号の仕上げで大忙がし、とのこと。明日は土曜日、明後日は祝日(成人式)、だから、土、日と僕の家へ泊るつもりで出かけてきてほしい。１４～１５日と泊る予定で－という。明日の１４日に私宅へ来る予定で出て、ひばりが丘で降り、駅で待っているように。妻か、ディンダンドンの一人が迎えに行くから、という。いつまでたっても道順が不安な私を羞じる。

１月１３日
　カレンダーの先千断りでよく日付がわからない。今日は１３日だ、１４日は土曜日、１５日は祝日(成人の日)で日曜日。だから１６日は休日で連休なのだ。カレンダーが判らないので事務所へ日付を聞きに行ったら、一ヶ月先まで千断ったことの理由を聞かれて、話した。くだらないことだ。我ながら。
　相京氏宅へ行く支度を考える。ズボン、セーターなど、よそゆきのもので一つもろくなのがない。ズボン二つのうち、茶よりも黒い方にしよう。セーターは、末明さんの御３女、岡上夫人からいただいたものにしよう。お菓子の残り３箱。

１月１４日
　１４日午前９時頃、Ｉさんの片脚痛、病身の人を残して、相京君宅へ向い出発、ひばりが丘下車。ディンダンドンメンバー林さんの自家用車で出迎えを受け、共同保育所に行く。２階に上り、相京君が買って下さった有島著『惜しみなく愛は奪う』を読む。私の目ざす有島の言葉はこれにはなさそうだ。李枝ちゃん成長しており、おどろく。当番のママがおひるにうどんの温くおいしいのを作って出して下さる。あとで聞いたら香代子夫人の手料理とのこと。○○の気しきり。心地悪く老衰を感ず。３時近く２人の若いママ来り、２階で話す。私の結婚上京頃の伊藤野枝、などの人物像など聞かれる。親疎さまざまの肌理で感想を語る。

　そのうち、私の記者時代の話になり、入社試験のこと、神近市子女史の記者像。断髪洋装の実行へ。その認識から木村泰賢博士【千夜千冊96】のサンスクリットの質問、芥川龍之介氏【千夜千冊931】の訪問など。記者時代の明暗を語る。インタビューの感触など。あと、林夫人の車にのせて貰って相京家に回る。林夫人は現在日劇に出演中の有名無名の俳優を相手にさまざまの面で接触しつつ、２人の幼児の母としてたいへんな活動だ。相京君は帰宅していて、さっそく通信の第４号をみせてもらう。こんどの号は「独房」という題名で、未決の独房の装置を描き、そこで１５年ほど前の父・定義と再会する。

  その父と私との対話を１６ページに載せている。父と娘が父と女児らを語り、母ときを語り、宮崎を語り、そしてアナキズム運動を批判、運動の思い出を、私自身の情緒過多、そのあとの運動者としての自己批判、再生への道などの考察について語っている。最後は尻り切れだが、そのあとに私の唯一の詩「薪の火を焚く」が附加されて１６ページ、厚みがあり付記として「ダンボールの空箱を机がわりに一字一字刻むように書き綴っている姿を想像されたい」と記してある。長すぎた感もあるが父と娘の気楽な対話の中に語られる思想、思想運動、そして夫婦、愛人、社会愛など語ってのん気な中にも面白い感情がある。
　全部を通してみると決っして感傷に溺れた訳でもなく貧弱の中にも真実があり、私もうれしい。

★第４号　後記（相京）
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黄ばんだ原稿用紙が糸で綴じられ、何度も手を入れた跡にまるで彼女の心の襞を垣間みた思いがした。しかし、基本的にこの通信は彼女が現在綴る文章で埋めてゆく方針に変わりはない。部屋の片隅でダンボール箱を机がわりにして言葉を刻む姿を御想像願いたい。次号から現在の彼女の日記を連載しゆくので御期待を。

会計報告(77年11/17～12/30)
収入　
新規定期購読料　11250円
賛助金　27460円
支出
印刷費(第3号)　12600円
発送費　4100円
複写代　2350円
交通費他　3220円
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１月１５日
　午后(赤松)という中学の女教諭が私に会いに来られる、理性的な冷徹ともいえる教育者だ。いろいろ語るのを聞き質問、説明など現代の教員の性格をみる。この女性が周囲の友人・知己に「あるはなく」を話し、購読に力を貸して下さっているときいた。すじ道を立て組織的に考え、語る。現代の教育者の考えのキメ細かさを感じる。

　夜、コタツで相京君と(通信)の今後のことについて相談する。私はこれを機会に少しジャーナリストの間に持ち込んだらどうか、と云ってみた、(農青運動史刊行のとき、私は新聞社の書評係へ出かけ、毎日を除く３社へ掲載して貰った。だがＡ君は反対、個人の結びつきを主張する。

１月１６日
　午前、ざっと室の掃除などをしていくらか気持よくなる。同家で借りた身障児収容施設の事態と収容児が綴った本を読む。
　朝から李枝君が風邪気味、その子をおんぶして私をひばりが丘まで送ってくれる。ママは今日休日だが、おんぶして出かける。池袋で降りて西武の地下でパンケーキをコーヒーで食べる。そしてのりかえ、午後４時近くに帰寮、何ごともなし、平和、平凡。
  実際、こういう広い施設の建物から見るとまず民家の暖房のない建物の寒さ、狭さが今更のようにピンとくる。日本人の住宅に改革の眼をむけよ。

１月１８日
  今日は希望棟へも行かず、一日通信への執筆を考える。４号の独房での八木の父上と私との会話も寓話みたいで思想の核心をぼやかしてしまった感じがあるにはあるが、結局ああ書かずには行き場所がなかったのだと思う。
　次の号に予定されている彼と私との対話というか、最後の決裂への自我の独立を宣言、宮崎がよこした通信を発表しようか、それを出発点としなければなるまい。相京さん宅でいただいた菓子折をあけたらおせんべいで美味しかった。開けて２人に分けてあげたら、あまり貰っていて悪いわね、何かお返しをしなければ－と言った。Ｉさんの右脚ははれて病む、それでも病院に行かず内職に通っている。平田しげさん、しげさんの手紙で木曾福島の長福寺御老師が９２歳でつい先日永眠、２０日にお葬儀とか、御老師に弔辞を送ろうか。

１月１９日
　「あるはなく」の第５号に書くべきことを考えながら文庫本を読み、雪のあとの春日でつい居眠りをする。私達と左隣りの部屋にかかっているボロカーテン。それがいつも気になっていたので２人に話し、隣室の人々に話してみたらみな同感だった。それで事務所のＳ女史に話し、新しい布を見立てて買って、その実費を皆で分担すればよいということで諒解した。

１月２０日
　１ヶ月先までカレンダーをちぎったので日も判からないし、曜日もわからない。すべてがぼやけ半分居眠りの状態、何度も４号の独房を読む。１６頁で随分長い、あれには私の本心が含まれている、同志は憤り軽蔑し、私の本態をみて呆れるだろう、知らない人はここまで恥をさらすとは－と嘆息するだろう。かまわないのだ。もっともっと暴け、もっと書け、秋子よ。

１月２１日
　次号に書くべき原稿に、この生活の中の日記がある。ここの利用者で早大出の人で風変わりな人がいる。このまえいろんな話を聞かせてくれた人だ。その人に「あるはなく」の１号を見せたら、じっと読んで何か書き込んでいる。その書きこみ、ボーダーラインをみたが、別にピンとこない。話しをするために講堂－会議室へ連れていかれたが、自分の経歴ばかり果てしなく喋言るので呆れ返り、私は何の発言もしなかった。ただ、こういうものを書いたという事実が、この中の生活から生まれたというのは、これは驚くべきことだ、といって占師みたいなことを言っていた。私の文章にはおどろいたらしい。

１月２４日
　相京君から速達がきて、私の年譜などで月日など不明なところを探せよ、というので調べて氏に電話したら、箱根へ行かれた模様、近く訪問して下さるのを待つことにする。
　次号の八木父上の事件について書き始めようとしても、どうしてもペンが進まない、滑り出さない。あの４号は、ある人がみればふざけているみたいで腹もたつだろうし、情緒の人々はうなづけても理性には根が浅くて物足りない。しかし、あの文章にはたぶんに戯画化しているところもあるが、飾らず偽わらぬ私を出し、語り、踊らせているところに、人のよい私の真骨頂が出て面白いと思う。

１月２５日
　どうしても独房の続きが書けない。書けなければ強いて書かなくてもいいじゃあないかと思う、その下から、ここまで歩みつづけてきてここで挫折するのかと思えば口惜しい。これからどんどん書き続けて、いくつもの障害をのりこえて歩むとしたらどんなことになるか。あまりに私のペンは、思いがけぬ変化によって、自分で思いもよらぬ境地に自分を引きずってしまうので、手が出せない気持になるのだが、まさにそれだからこそ、書き続け、書き続けよと自分に叫びたい、どんなものがいつどんな所から生まれるか、まるでわからないのだ。

１月２９日
　日曜だ、日付も曜日も何もかも忘れてぼんやりしている、いまに自分を忘れてしまうときが来やしないか。

２月４日
　昨日電話したら、いま忙がしくて行けないが、土曜の紀元節に行けたら行く、との返事だったので、例の喫茶店で会うことにして待ったがついに電話も本人も見えず。やはり、私のサボタージュで立腹したのかと考えて心配になる。感冒で先月末以来のグズついたという事情はあったにせよ、私としては控訴院の言渡しのあと、宮崎との言葉のやりとりで受難の決着を考えなければならなかった。それをすませて、出所、東京での生活、就職運動、唯一人の満州への脱出(その前、彼との面会、会談の模様、その前、毎日の放送、出征軍人の見送りなど、そして奈良に降りて博物館の彫刻、出発など)一応書くべきことは多い。この大きな区切りに際し、宮崎との別離を書くことは必要だ。

２月１１日
　日増しに春映温かしだ。３日ほど前、相京君が訪ねる電話をくれて、例の喫茶店で会った。彼は大きな紙袋にいっぱい校正の原稿をつめこんできた。『女人芸術』時代（註：発行人長谷川時雨【千夜千冊1051】）のこま切れ、アナ・ボル論争の端片、その他いろいろ。２月中に校正を仕上げてくれまいか、なるべく３月前に５号を出したいという。とにかく、あの幻影の獄中父子の会見、あれを境にうんとすべすべ角がとれ、円満解脱みたいな感じに傾斜しつつあることを銘記せよ。

　相さんの先日の話しでは、３月早々、早稲田あたりの小さい会場を入手して、八木さんを囲む会を開きたい、というわけで準備を進めるからそのつもりで、と言った。討論みたいになるかどうか、いつもの通り私はそのままの自分で出席するだけだ。準備としては、「あるはなく」に書いたものを読み返すだけ。

２月２３日
　午後１時、講堂で、一時間半のいねむり、２月２２日、夕５時半、駅前の喫茶店で相京君と会う。女人芸術連載の藤森氏とのアナ・ボル論争、ツェペリンの飛来、林芙美子【千夜千冊256】との九州講演旅行など沢山の校正を命ぜられた。なんとしても仕上げねばならぬ、出直せ。相京君は著作集に多大の望みと光をみつめている。私ももたもたした悩みを全てふきとばし、まずじぶんの足もとから出発せよ。
　２月２３日、希望棟へ行き、まず校正に赤ペンのないことに気づき、さっそく区民会館通りの文房具店へゆき、赤ペン３本、帰って階上の静寂に身を埋めたところへ教会の小坂姉が現われる。大高姉と２人で来て待っているという。部屋に早くも大高さんとあの金丸さんが待っていた。雑談。Ｍは２人の信者に、お嫁に行ったことがあるか、子供を２・３人産もうと思うか、などと平気で聞き、自分の結婚せざるの弁を説き聞かせる、おどろいたことに。

３月３日
　女の児の桃の節句である。沢山の原稿－女人芸術の古い原稿でおちおち眠れない。全く相京君の熱意に押され、その希望と八木秋子著作集の校正と執筆と校正の為に何もかも消し去って夢中の日を送っている。
　おひな様をきれいに飾り、午後２時からみんなのためにお節句のお祝いをして下さるとのことで、食堂は浮きだっている。こういう収容生活のことだ、あられ、草餅、じぶんのおはし、お茶わんなど持ちよりで集まる。職員の音頭で余興になる、因みにごちそうといえぱ、お昼は鳥肉のそぼろのごはん。さっきはまぐろのおさしみ、など。それぞれにさっぱりとした若がえりの姿、髪もどうやら整えた姿である。先日相京さんと行った写真屋の写真。できてきて見たらやっぱり幻滅。老衰そのままの顔、姿だ。

　お節句の余興になって、司会者が私に何かやれと迫ってくる。木曾節をうたう、どうも一つっきりののど自慢、お国自慢。よそ行きに飾った老女たちを交えた余興には、７つボタンやここはお国を何百里などが、そして女の側では従軍のうた(看護婦のうた)などが得意そうに－。環境も時代も思想もきれいに無視している。口のよくわからないおばあさんが、箱根の山は－のあの明治調を歌い出す、あの漢文調の唄はむつかしい。同室のＭがいそいそとしてやっている。おもしろい。配給のあられをさっそく平げて心細い顔をしているＭ老のためにわけてあげた。

３月５日
　苦心惨憺だった原稿(八木著作集のはしがき)、八木父、の校正など、校正をのぞいて最も苦心したはしがきの原稿(１１枚)を書きあげ、夜着いた相京君に渡して結果はともかくほっとした。八木著作集は通信「あるはなく」にひき続いて私の生んだ子供である。子供といってもこれは主として相京君の意志と熱意によって生まれるものだ、
　その第１集が出版されようとしている。私の著作の著作集が－。私はそれらの校正、正誤、その他の用務でまるで１日中夢中でおろおろと過している。


３月１０日
　八木秋子著作集が、通信「あるはなく」に出版予告され、通信第５号が発行。その出版予告されてから、私はこの住居にあって心も生活もそれにつれて変わるべき運命というか、我が子が生まれるよろこびを感ずる。

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第５号
●八木秋子著作集Ⅰ　３月末完成
Ａ5判　上製　1300円
本文200頁　9ポ2段組
口絵
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　八木秋子の著作集がいよいよ３月末に出来あがる。収録したものは「第３号」に掲げた「女人芸術』(座談会は除く)「黒色戦線』「婦人戦線』『農村青年』そして『婦人公論』の「回想の女友達吉屋信子」、「埋もれた女性アナキスト「高群逸枝と婦人戦線」の人々』の中の「明るい肯定の人・高群逸枝」「マルキスト・永島暢子との思い出」である。そして、その他に小川未明らが発行していた『種蒔く人』の婦人欄に投稿した「婦人の解放」、また昭和２年『婦人公論』に載った「優れた女性」等、京都の宮木典代氏、西川祐子氏、東京の関陽子氏の御助言で加えることができた。一応彼女の著作集第一巻としては満足のいく内容である。
　彼女の最大の魅力はその紀行文、文明批評的ルポルタージュにある。その予言者の如き言葉は様々な意味を持って私達に問いを投げることは、第３号の西川氏の文章の中でも語られている。中篇小説「１９２１年の婦人労働祭」、「ウクライナ・コミューン」はロシア・ナロードニキへの当時の血のたぎりを感じさせる。
　私は現在の「あるはなく」の文章とこの著作を重ね合わせて是非読んで頂きたいと思う。また末尾に彼女の略歴を載せた。その必要なことは発行以来、耳が痛くなるほどいわれたことだが、「あるはなく」の出発が私信の延長線にあることで、つまり彼女を多少とも知っている人に送り続けてきた事情で今までは載せなかった。が、読者が読者を誘って下さり、もはや私信といってはいられなくなった。そこでこの著作集を購入して頂くことでその点も補うことができるかと思う。是非沢山の方に読んで頂きたいと思う。＜相京＞

★第５号　後記（相京）
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　あわただしい一日が実感を伴って過ぎてゆく。しかし彼女の内にある時間には未だ及びもつかない。ぐっと地に潜む時は気を蓄え、一気呵成に空を飛ぶ、風を起し、そして批判を乞いたい。
　私は彼女の何に一番関心があるかと尋ねられたら、こう答えようと思う。それは宗教と思想の混じり合った世界に６０余年棲息してきたということだ。だから彼女の用いる「神」だとか「愛」だとか「絶対」とかは一般的な言葉でとらえられないと思う。たとえば健一郎さんのことに触れて「相京さんわたしは本当に母性愛が無かったのよ」と突然私に語り始めた。私は丁度その時彼女と同時代に華々しく活躍したアナキスト詩人竹内てるよの超然的な母性愛自叙伝を読んでいたので、それと異なるという意味で「そうですか」と肯定の抑揚で答えた。があとで「はてな、彼女ほど他人に無償の愛を振撒いた人はいないし、まして子供にだって最後まで見守ったじゃないか」と思い不審だった。が前述の竹内てるよや高群逸枝の戦争中の問題と重ね、彼女が母性と母性愛の言葉を峻別する姿勢に気づいた。母性愛、父性愛、夫婦愛、郷土愛、祖国愛、そして同志愛。その世界を吸いあげて造りあげたのが国家であリファシズムであるなら、今一度私達は彼女の世界を探る必要があるのではないだろうか。彼女は少なくともその「愛」なるものの虚妄さを拒否して生きてきた、そして真の価値を求めて生きている。その秘密は第一号でいう「飛び超えたい』一線を、即ちその間合いを、彼女自身で切ることができるからではないかと思う。

会計報告(78年１/１～2/28)
収入
新規定期購読料　15000円
賛助金　28450円
支出
印刷費(第4号)　29700円
発送費　4580円
復写代　1100円
雑費(写真代・交通費)　29700円
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         <pubDate>Thu, 27 Sep 2007 02:35:21 +0900</pubDate>
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         <title>● 第３７夜 転生記（２）</title>
         <description>　八木秋子が入所した「東京都養育院」は東京都板橋区栄町３５－２、東武東上線大山駅から歩いて５分ほどの所にあります。今回、彼女が養育院での生活を書き綴った「転生記」を掲載するにあたり、思い立って２５年ぶりに訪ねてみました。池袋から３つ目の駅である大山駅を降りるとにぎやかな大山商店街に出ます。踏切を渡り、商店街から路地を抜けるとすぐに、養育院の大きな建物が見えましたが、四半世紀前、何度も通った道筋はあまり変化が見られず、ちょっと不思議な感じが残りました。
　しかし、院の敷地に入ろうとして門を見ると、看板には「養育院」を示す文字が消えていました。「東京都立養育院」は1999年12月に127年の歴史に幕をとじていたのでした。
　門から入ってすぐに実業家渋沢栄一の大きな像があります。彼は９２歳でなくなるまで５０年にわたって院長をつとめ、月に一度は養育院を訪ねていたそうですが、その銅像のそばにあった案内図を見ると、いくつかの建物の名称は黒いテープのようなものが貼られていました。八木秋子が入っていた「明々寮」の表示も消えていましたが、あたりを見回し、見覚えのある建物の方に向かって歩いていくと、八木秋子が通った図書室のある「希望棟」がありました。しかし、周囲は夏草に覆われており、もう何年も使用している形跡は見られません。坂を下っていくと、今度ははっきりと記憶していた３階建ての「明々寮」が見えてきました。
　八木秋子が大腿骨を骨折して瀕死状態で入院していた他の施設、「光風・和風寮」は現在も板橋ナーシングホームとして存続しているようですし、隣接する老人病院もたくさんの利用者が行き通っていましたが、しかし、八木秋子が入っていたあの明々寮は、廃墟のように全く人の気配がありません。しかし、この「転生記」をまとめているせいか、一瞬、あの「廃墟」特有の時間を超えた何とも言えないざわめきが聞こえてきたように思いました。八木秋子が居た１階の部屋、食堂、事務室、玄関、そして、よく車椅子で行った公園の藤棚の下、等々。２５年振りに訪ねた建物が「廃墟」だったから幻影としてそれらが思い浮かぶものなんですね。いまこうして転生記をあらためて読み返すと、あの「廃墟」に一つひとつ情景が重なっていくように思います。「廃墟」は饒舌。行って良かった。

　さて転生記です。この養育院での生活日記「転生記」は、およそ１年間にわたる日記で、彼女は何冊かの小さな手帳に書き続けていました。文字量は４００字×２００枚。そのうち、今回は生活に関わるものを抽出して編集しました。

　八木秋子はその中で、日記について、次のように書いています。

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１９７７年１２月２４日
　私は一年、ついに日記を書かずに空白の日を送ってきた、書けなかったのだ。この空費した一年の欠落は何とも大きい。私は日記をつけようと思いたった。このことの意義は大きい。抽象的なことよりか、ここの生活を書くことで私の心が定着する。生活に影響するところは大きい。資料として残す意義も大きいし、生活そのものが生きて躍動する。おもしろいものが出来るだろう、捉われずに踊らすのだ。それで私の重なる一年の迷いもどうにか定着するに違いない。
  秋子よ、長い眼で物を、人を見よ、心を開いて見たものを一応天空に放げろ。
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　わたしはここに八木の魅力の一つがあると思います。日記とは何でしょうか。彼女は１９５０年代半ばから１９７０年代前半まで、１０数年にわたって日記を書き続けておりました。その一部は八木秋子著作集Ⅲ『異境への往還から』に掲載しましたが、大学ノートで２０冊ほどの日記（独り居日記）が残されています。それらを前にすると、八木秋子独特の「日記に対する想い」を感じます。彼女は「生活を書くことで心が定着する、資料として残す意義も大きいし、生活そのものが生きて躍動する」と書いています。おそらくそうだと思います。記録資料であり、独白もあります。しかし、彼女はただひたすら「書くこと」に憑かれて日記を書き続けていたのだと思います。周囲の「モノ」「ヒト」を見て書き、自分が「こころ」を開いて見たか、確かめていたのです。

　「書く」という行為は何のためにあるのでしょうか。その時もいまも八木秋子の日記を読むたびに、彼女の自問自答に考えさせられます。それだけ、彼女の日記には何か不思議な「ちから」が満ち溢れているのです。

　この文章の最終行「秋子よ、長い眼で物を、人を見よ、心を開いて見たものを一応天空に放げろ」という言葉には、わたしは何度も励まされて来ました。天空に放げたもののうち、両手でつかめるものが「いまの自分にとって必要なものなのだ」。詰めに詰め、どうにも手に余って決断する時、振りかえるな、未練を持つな、余剰を捨てろ！　


  では、養育院での日記「転生記」（２）をお読みください。

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１９７７年９月２１日
　明々寮へ引っ越し。昭和５１年１２月１０日この東京都立養育院本院に入所以来、一ケ月の間に厳重な身体検査を受け、本来ならば新入寮は一ケ月以内に病者以外は凡てどこかの寮へ定着を命ぜられるのだが、私は１月早々脱走事件を引き起したせいか、その後一度も移動の話はなかった。明々寮食堂で「９月誕生会祝会」、ごちそう。事務所の係長のすすめで私は立って木曾節をうたう。終わりを待たず新入寮から荷物を運ぶ。肝心の借りた本の大切な風呂敷包みがないのに気づき、あちこち往復してもない。
　新しい明々寮の室は７半帖、Ｍ、Ｏと私。これが私の終の棲家か。Ｍは目の覚めているかぎり喋言りまくって止むことがない。Ｏは沈黙で彼女の雑言と悪口に耐えている。この一階に先んじてきたＳが訪ねてきて、相変らず食物をくれる。これからやはり食物のやりとりであろう。相京君から借りた吉本隆明の『最後の親鷺』が出てきて大安心したら、今度は返本、村上一郎の「無名鬼」『人生とはなにか』がそっくり不明(あとで古巣に預けてきたことを思い出す)。一方の饒舌がうるさいので希望棟へ－と思うが雑念、雑事で行かない。

１９７７年１２月７日
　Ｍに着衣を何枚も盗られたというＯ老婆、８５、８６才との戦闘はつづき、電話でよびよせたＯの実妹が横浜から上京、事務所の寮母２人もここへやってきて、昨日の盗品の話になり、明日２人が付き添ってＭが盗品を入質したという質屋へ実地取調べに行くことになる。ところが、被害者のＯはあたまが呆けて品物の陳述がしどろもどろ、はっきりしない。当の私の下着類や着物などまるで少ない。それを言いたてたら事はますます面倒になる。誰もが記憶がうすれ、誰もがしどろもどろなのだ。バカバカしい争いに巻きこまれたくない、第３者として終始したほうが潔くて気持がいいではないか、そう思って私は被害者になることを避けた。Ｍの浪費癖は相当なものだ。いつもカラッ尻なので彼女は金欠病に骨まで蝕ばまれている。だから他人のもの、たとえば衣類、はきもの、下着類、などと大小を問わず、眼にうつるほどのものを我物として、何の反省もないのだ。一方のＯはこれはもう激しい被害者意識で、あとからあとから幻のわが愛する着物、羽識、帯、時計、など思い浮べ、老の説明を試みる。一方の加害者といえば、まるで底なしの水流のように滑らかな舌から阿呆だら経よろしくあとからあとからと限りなく言葉が流れる。２人の対峙の仕方がつくづくいやになる。Ｍは他に移そうにも引き受ける室がなく、この部屋を出れば住む所がない。最後の室だと断定せられていて行き場所がない。そんな人物の生きているこの部屋へ何故私を入れたか、どんな目的で押しつけたか、意味がわからない。私はどんな人物と同居したとしても大低意味が判っているので、最小限度、希望棟の図書室を利用させるよう押す外はない。どんな室だって大同小異、この建物にいる限り自由はないのだ。

　人間を変えることは至難中の至難だ。私などその代表者かもしれない。まずこの部屋の小宇宙で、なんとか生活の雰囲気を変えることが－と思ってキリストの愛を、罪の許しを体現せしめつつ来たのだが、何一つ実らなかった。空白、空虚のみ。新入寮の何ケ月かの私の体験として、ある病院からきて病院に追い返された高井女史との３、４ケ月の生活に対し、我が一切の自我を殺して、仮の、偽りの平和を生んだあの期間の忍耐が、あるいは事務所に逆の私の印象を与えたのかも知れない。闘いか忍耐か、一切をすてた私に一切の重荷がかかってきたのだ、私がもっと戦闘的で裁判官のような切れ味と重荷をもって、そして女の道に徹した敬慕される女性だったら良かったのだ。そういう模範的な老人だったら、そして善は善、悪は悪と峻別する独裁者の断定をもっていれば－これこそ私としては至難な道なのだ。こういう生活の中では指導的立場にある人は、独裁者の凍りつく冷たさと決断がある時には必要であり、おおらかな円味がなくては－という、私が間違いか。何しろ、ある場合には冷たい決断と、言葉以上の態度が人を動かすのかもしれない。といって支配と、決断と、大局をみる瞳が必要なら、それが一歩誤まればどんな誤りを招くか、悲劇の種子を蒔くことになるか－。
　いま同室で争いの渦の中にいるＯ老、わたしに寄り添っているＭも。私は少し濃密にすぎるようだ。いつもある距離をおけ。
　こういう施設などでは盗難事件が起きたらまず品物の有無を調べ、それには質屋を調べる、その上での談判で、まず盗品を証拠として調べる。この順序というわけで事務所の寮母、それに被害者たるべきＯ、盗癖者のＭと３人が何の質札もないＭを案内して３軒の質屋へ証拠固めに出かけた。その結果、一枚の質札もない所から衣類３点を引き上げてきた。但しＭの記憶によって選び出した３点で、その他には一点もなし。Ｍの発見した衣類は、その場で寮母が支払い、Ｍの物となった。Ｏは大分被害額を数えていたが、結局３点の品を買い戻して貰ったＭの勝利となって了った。
　どこも、部屋は変わっても大同小異、私はただ希望棟へ行く自由を確保したつもりである。この界隈の人達は、相京君の面会に来るのをだいぶ問題にして噂の花を咲かせているらしい。

１９７７年１２月１１日
　私たちの隣室にすらりとした人で静かな人がいる。松尾輝子、という人。日本画を描き、書もりっぱで、希望棟の２階階段の上に大きな達磨の肖像－座像を描いたのと、その並びに立派な書風で達磨の心が書いてある。これが彼女の話した入選の画であろう。阿弥陀如来や仏の悟りが書かれている、この人となら－つきあえるかもしれない。

１９７７年１２月２４日
　私は一年、ついに日記を書かずに空白の日を送ってきた、書けなかったのだ。この空費した一年の欠落は何とも大きい。私は日記をつけようと思いたった。このことの意義は大きい。抽象的なことよりか、ここの生活を書くことで私の心が定着する。生活に影響するところは大きい。資料として残す意義も大きいし、生活そのものが生きて躍動する。おもしろいものが出来るだろう、捉われずに踊らすのだ。それで私の重なる一年の迷いもどうにか定着するに違いない。

  秋子よ、長い眼で物を、人を見よ、心を開いて見たものを一応天空に放げろ。

１９７７年１２月３１日
　大晦日である、思えば今年は私にとって特に記念すべき年だった。「あるはなく」－私はむつかしいことは一通り相京君にまかせて、ここの生活に振り回されながらうろうろと書き続けた、文体にも自信とはいえないまでも落ちつける気持。
　この季節になって文字どおり、一文無しのＭばあさんは興奮して弟にお金請求の電話をかける、電話番号が間違っていて、いくらしてもかからない、間違っている。事務所に泣きついてようやく通じた。その結果５０００円速達で送ると、それを聞いたとたん歓声をあげ、とめどなく万歳の真似を演じ出し、とどまる所がない。飢え渇えた者への慈雨だ。やっと安心。

　日記を書くことに気がついて、相京君の賛成を得てからずいぶん気持に活気をとり戻した私だったが、肝腎の日記になるものの材料が少ない、まるで無意味みたいな日常なのだ。日記にしても現象がはっきりしていること、材料に興味と面白みがなければ。だがその出来事の羅列では仕方があるまい。ただその雑事、出来事、人間のこころを指し示す認識なのだ。これは技術的にもむつかしく、永久に絶えない課題であろう。


１９７８年１月１日
　年賀状が沢山来た。８５枚ほど。配達してくれた寮母が驚いている。年賀状は書くのが苦痛だ、決まり切った型どおりの文句なのだ。テレビでシャガールをみる。シャガールが現存の画家とは知らなかった。彼はロシヤ生れ、大河の辺りで貧しく育った、ポーランドに居住しているとき、世界大戦、ナチによるユダヤ人の迫害でユダヤ系の彼はアメリカに脱出するが、その前、パリに行き、労働、ただ絵画に対するおそろしい情熱、そして恋愛。そこでシャガールの原像、原色彩を発見、アウシュヴィッツの悲劇を知る。ピカソを知り、またパリに行きそこでゴッホの「馬鈴薯を食べる人々」－農民を見出す。彼は画くこと、そこに生きた－。

１９７８年１月２日
　年賀状がちっとも書けない、短い文章を－と思っても思い浮ばない。
　同室のＭばあさんは待てども弟からの送金が届かないのでめちゃくちゃの興奮とヒス、おしゃべりで手がつけられない。おひる少しまえ３階の沢田さんが年賀にくる。干柿とキャンディを出してごちそうする。一時間ほどして帰る。彼女は私が新入寮のとき同室だった人で、ヒス気のないおとなしい何でも手まめに出来る柔和な人だ。日医大教授で兄弟で病院を経営していた病院に２０年勤め、１５人ほどの入院患者の食事から一切世話をして働き通した。中途で脊椎になり、一年間下谷病院に入院加療、その末が院長たちの勧めでここへ来た。
　テレビで野村万蔵・万之助などが花折りの狂言をやった。子猿がよくやって愛らしい。日本の能と謡に狂言があるのはおもしろい。Ｍが、つまらないとヒスを起しテレビをまわす、私がおこって直す、とうとう私は(つんぼの強情っばりばばあ)にされて、おこりながら終わった。あの人達の好むものはつまらなくて－。久木田さん、新聞のおばさんと廊下の小林君に信州リンゴを２つづあげた。

１９７８年１月３日
　おもち、おぞうに、のごちそうだ。お昼過ぎお風呂から上がってきたら、息子－娘の家に帰ったＩさんが娘と息子に送られて帰ってきた。せめて３が日は遊んでくるだろうと思っていたのに。息子は日大の夜学を出て警視庁に勤めている。母の自慢の種だ。「どうも、おっかさんがたいそうお世話様になります。なにしろ、ごらんのとおりの強情っばりで言うことを絶対にきかない年寄ですから」「ほんとうに困ります、この通りですよ」とこもごもいう。みかん、そして羊カンなど３個づつのおみやげ。その場でお茶のおかしとしていただく。いくら待っても弟から送金のないＭばあさんはしきりに２人にとり入ってお世辞を言っている。こんな良いところにきて何もかもけっこうで、私たちは年寄りのうちでも一番しあわせ、息子と娘は、ああいうばあさんですからどうぞがまんして面倒みて下さい、と繰り返して夕飯少し前に帰って行った。賀状を書く手がだんだんふるえて字が下手になった。何が仕合わせか、ああいう人たちの集団生活の中で何が－。
　言語障害の人がある。その人と私は食堂で隣り合わせだ。その人はやかましい人で、忘れものでお風呂でうんと怒鳴られたことがある。その人は病気でほとんど御飯を食べない。そのことで話し合って、気の毒とは思ったが他の人のように過食よりどれだけましか。帰ったらＭに非常な激しさで、あんな女と決っして話しをするなと食ってかかられた、他の部屋にいた時、ひどく怒られたことがあるのだろう。そんなことに干渉される必要はない。ひとりで怒っている。愛もなければ喜びもない、テレビをみてゲラゲラ笑ってやまない。

１９７８年１月４日
　終日年賀状を書き５０枚を越す。
　相京君から来信、帰郷し５日頃帰ろうと思う。来年(ことし)は＜父・八木定義と養育院における今の日記＞＜読者よりの手紙＞＜古いノート＞をのせて行こうかと思っている。いずれにしても、先日書くように勧めた八木定義・小川未明・有島武郎、女人芸術、農村青年社－満州、母子寮、の自伝とこれから始める日記の連載が主柱になります。続けてお書き下さい。私は５日に帰ってきます。１５日前後に私宅にきて下さい。私は八木さんのお蔭で、生まれてこんな充実した月日を過したことはありません。私の内で言葉にならなかったものが、八木さんを通じて自身の中で整理されてきたような気がします。感謝いたします。(12月３０日)
　私が相京君に発見されたか、相京君が私を体得してくれたか、奇縁、妙縁。どちらも似通ったものがあり、触発されたか。

１９７８年１月６日
  私はＭと同室になってから、この生活に絶望し、書くというたった一つの生き甲斐にさえ絶望しかけている。３分毎にくるくると人間が全く豹変する人間のおそろしさ。これはもう人間ではない、人を一瞬時も安定させることのない変幻極わまりない獣の感覚である。感応するとか、受応するしないの区別ではない。

１９７８年１月１１日
　来信の中に三鷹の小谷秀三氏の手紙あり、前便に(美しく老いることを願っている)と書いてあったので、あの人にとって私の老い方など何の関心もあるものか、と思いながら読んでいくと、「あるはなく」に記された私のひたむきな生き方に大きい同意を示し、自分の生き方、一家の平凡な生き方は－

　小谷秀三氏の手紙－美しく老いることの難しさを乗り越えて、わが道をとことん追及しいてゆかれるお姿に心からの敬意を捧げます。小平の相京さんから貴女の人生記録と思想の通信３部を頂きまして拝読。お若い頃からご自分の人生を探究されて、その道をひたむきに歩まれた８０年の人生の在り方に圧倒されました。私も私なりに若い頃色々な思いに迷いましたが、迷いをそのままにして、安易な人生を歩いてきてしまいました。－何か生活にコクがないようにも思います。比島での苦しみは－安易な人生で終始してきたことが本当の真実であったかどうかと疑問を持つことも－。「あるはなく」を拝読し、一筋の道を歩く貴女の姿に心をうたれます。
　数年前の拙宅での郷土を偲ぶ集いは－やはり古稀をすぎてくると、回想を喜ぶことが中心となります。孫と遊んでいてつくづく、無事に過ぎる子供達はこれでよいのだろうかとさえ思います。平和すぎて回想さえもない老後になりはしないかとさえ思います。失礼な言い方かもしれませんが、貴女にとって理解されない良人をもたれたことは却ってよかったことではないでしょうか。麦踏みのように、逆境こそが人間を成長させるとか。何だかそんな感じがします。
　相京さんはよくああいう事をされました。幾分の御協力をさせていただきました。またつづいて４号～５号を出版されることを待ちます。筆をとり、人生を考え、老いることなきお心に、重ねて敬意を捧げます。
　乱筆失礼　　小谷秀三


１９７８年１月２９日
　日曜だ、日付も曜日も何もかも忘れてぼんやりしている、いまに自分を忘れてしまうときが来やしないか。
　３度の食事を知らされ、卓について食べるということは一体何であるか、スチームがどこにも通って寒さ知らず、感冒の非を知ったら床をとって寝る。わたしなど年中お菓子だの果物などほとんど買わない。行住坐臥、ボリボリ、モグモグ口を動かし通しに動かしている人も相当ある。お茶は配給で、ただ。熱湯は時間によって汲んで来られる。この生活の子ども同士のような、単純な言葉のやりとりからくる争い、それさえなければここの生活は規則の中の自由、束縛の中の自由意志、などの微妙な兼ね合いでどうにでも加減できるみたいだ。規則を、束縛を感ずるときは感じ、用のないときは横を向けばそれで時の動きとともに流される、危機をのり越えるということもなく、環境慣れからずいぶん鈍化してゆくのだろう。おそろしいといえばおそろしいが、何よりも生理的に当然来る老化現象と解すれば－。とにかく私は老化に抵抗を、鈍化に抵抗する鋭化を－。意識してなるべく規則的に積極的にやらねばならない。とにかく近いうちに病院の眼科へ行く必要がある。老眼鏡の度が合わなくなって活字に骨が折れる。

１９７８年２月１日
　２月だ。２月、怠け、さぼり、連絡も何もせず、する気もなくとうとう２月だ。何の変化もありはしない。このところわが部屋は無風で無病だ。いまは私も彼女を無視して気にせず、語らず。感情とは無縁に、要するに当らずさわらずで無視しているからだ。彼女がどうあろうと、無視して我がまま通すに限るのだ。自分の挙措に一々注意を向けられる気配がないと知ると、一度に緊張がゆるんで何も張り合いがなくなるのだろう。自分に注意を向ける周囲というものは、そのまま存在の価値がなくなるのだ。
　とにかく忘却の速度の速いこと、この速度で記憶力が薄れてゆき、この生きている世界が茫漠と消えていく、そのことはおそろしい。


１９７８年２月５日
　明々寮３Fの老婆が３階の裏側から中庭のコンクリートの床に投身自殺したことを夕方聞いた。浴衣のねまき、前もって脚立を手すりの前におき、その上に草履のはきものをきちんとおいて、手すりの下は人眼につきにくい芝生(私達の部屋からは裏側)に跳び降りて頭骸骨と胸骨を折って死んだのだ。７６才と聞いた。聞いたのは告別式のあった翌日で何も知らないあいだの死であった。弟が一人だけ参列と聞いた。


１９７８年２月２０日
　ながく日記を遠ざけた。このあいだ感冒(流行性)というふれこみにしていたが、本当はスランプというより外ない状態であった。ここの空気になじんで生活の雰囲気に慣れてくるに従って、私の唯一の武器とも鋭気ともいうべき闘いの意志・意欲が少しつつ剥がされていくのはわかる。これではいけない。ここにいることが何物にとっても私には無意味に思われる。欲しいのは肝の底からの闘志、図太い闘志である。これがもし磨滅する、あるいは平和の旨酒に唇をふれること、これが一番の敵でなければならない。

　ところがいまの私の状態はより多くより甘美な平和ではないか、常に絶対の現実に対する不満、孤独の不安、現実に対するというより自己に対する暗黒な不満、これが最もわたし自身の深部にある不満と焦燥ではなかったか。何も強く捉え得ない自己への不満である筈だった。ところが、この自己に対する不満の奥底には私自身の生活との強い繋りがあったのではないか、満たされざる幻想、内面とともに刻々と迫りくる貧と空虚との絶えまない追跡への闘い。内面の空虚との喝望との不毛の闘い。

　そうした不毛の闘いであった、と思うようになった。では現在はどうか。それを想うことは私には大きい変化である。この異常ともいうべき他人との共同生活、心のふれあいもなく、言葉の喜びもない、美しいもの、温かいものへの感動のない、ただ生きているという物理的な、生理的な無感動な存在にしか過ぎないのではないか。変化から変化へとその時の感情のままに、感傷のままに生活を衝動的に生きてきて、いまこの人生の終焉に近づいて、これほどの空虚な場所に身を置いて、あたりを見回わして、「さて」と、わが安全な場所を改めて眺めまわす。

　私自身、低迷、文章への懐疑などから、まず身近に迫っている問題、沢山の人々に対し返事も書かず、そのままにして省みないこと、この返書の負債感の重みはどうしようもない。この重荷をぶち破って一気に魂の接触に迫りたい。それを実行しなければならないという切端詰ったところに来ているのに、私自身の心理がどうにもならぬ沈滞の状態にきているのだ。どうにも打開できぬ沈滞、スランプでしかないのだ。

１９７８年３月５日
　さて、年老いて、最後の終焉も近づいてきた私は、いま何を為すべきか、わがこととして、わが周囲のこととして、悦びも悲しみもともに感じ、ともに生きる、その生きることをいまここで掴み、いまこの時点で生きる出発点としなければならない。生物として、足りないものの一応ない。生きる条件の整って、別に不足のない今の境遇に安住していいのか。物足りて何か想う。与えられるものを感謝して受け、感謝の祈りを捧げつつその日その時を生きよ、と。衣食住、欲っするものは与えられ、たとえその質が問われたとしても、別に不満を洩らすことは許されるのであろうか。最低として許されたとしても、それを当然の恩恵として甘受していいのであろうか。


１９７８年４月４日
　私は新入の人を迎えて感慨深い。この前、もう１人ふえる(部屋に)ことを宣言されたときから寮の職員たる人にいうべき言葉を用意していたのだ。「Ｍという女性とともに生活する限り私の生活は滅茶苦茶だ、この私を生かしてくれている＜物を書く＞という仕事は中絶しかあるまい」と思って、私はかなり強硬に抗議した、どうしてあの人を精神病者の思考構造者と同じの手つけようもないあの人をなぜ、いつまで私たちに押しつけて置くのか－。
　しかし、事務所では忍耐の一点張りで押しつけたままであった。が、一緒に暮してみると堪えられない、というまでの嫌悪、一瞬も無言で過ごすことが出来ず、目のあいているかぎり何か喋べり通さなければ一時も我慢ができないのだ。その他、その粗暴な感情とふるまいは忍耐の底辺にいる同居者を苦しめて離さない。私は思考の上にも、この自己犠牲をもっともっと深めて行ってみようと決心した。そうして思った。彼女はいつも自己しかない、欲望にも喜怒哀楽の感情の上でも裸のまま、ありのままである。他人の目、耳、感情などに支配される必要を認めない、いつも裸のままのいつも感情をむき出しにしてどこでも独歩であった。その中に、何とはなしの致し方ない愛嬌がある。悪意の中の曲った愛嬌か。

１９７８年７月１５日
　昨日、１４日、隣室の松尾輝子さんが歌集、逝かれし良人との思慕のうた、神、仏、幻影のあくがれ、そういう文集だ。まず亡き夫君はまだ３０代ぐらいで永眠されたらしいが、愛妻を想うこと切。妻に寄せる愛絶の情はもう非常なものだ。その切々たる思慕を書簡に表現している見事さ。ここまで妻を識り、愛し得る男性は少なかろう。ただ、その愛絶の良人はヨーロッパ各地を回って自転車の売り込みを本分として、虚弱な肉体を酷使した人だ。しかも自転車の売り込みという強行日程で虚弱な体の不安を秘めつつ、大企業の利益のために早逝を覚悟の上で酷使し、その間自己の仕事にたえず不安を感じていたのだ。自動車ならぬ自転車の売り込み競争とは。どうしてそれを○○（２字不明）しなかったのか。しかし、この人の信仰は夫婦の愛を超え、さらに我が子の死さえも超えて全身が燃えていたのだ。歌集には随分自由な、佳いものがある、大きな何か、悠々たる何かを持っている人だ。

１９７８年７月１６日
　夜、隣室の松尾輝子さんと面会室で定刻まで話す。彼女は私が貸してあげた「あるはかく」の５号までを読んだという。そして、彼女は「アナキズム」とは何ですか、という質問から始まって、私の経てきた軌跡を話したら、何か感じたのか、何からどう聞いたら良いか分からないらしかったが、久しぶりで生きた社会の勉強をさせて頂いて、久し振りで人間社会へ帰ったような気がします、と言っていた。彼女は類いまれなよき良人をもち、熱愛され、富豪ともいえる家に嫁ついで、その夫が結核になり財産も凡て注ぎこんだ末に死なれ、子供も死に、ここへ送られてきた。幻影の仏さまは絶対である、夫の生前から、生花、茶湯、書道、俳句、日本画の修業をして、いまも相当その名残りが光っている。絶対の仏と神を信じ、その信仰に全く安心し没入している。その人が私の思想を知りたがり、興味をもっているとは。だが軽々しく人を信じてはならない。彼女は私の文章の若さと男性めいた断定の仕方などに興味をもっているらしい。


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         <pubDate>Fri, 07 Sep 2007 00:21:03 +0900</pubDate>
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         <title>●第３６夜 転生記（１）</title>
         <description>　３０年前の１９７７年８月１３日。八木秋子の手元に届けられた個人通信「あるはなく」第１号は、３０数名に送られました。すると予想以上の反響があり、意を強くした彼女は、およそ１ヶ月の９月２０日には「わが子との再会（第２７夜）をまとめ、老人ホーム養育院での通信発行活動にわたしたちは、一層の力を注いでいくことを話し合いました（第２９夜～第３１夜。なお、注釈全体の構成は第２８夜を参照）。

　そして彼女は、「わが子のこと」ともう一つ書きたかったこと「父・八木定義」の執筆に入ります。わたしは八木秋子の軌跡を辿るため、図書館や近代文学館などを訪ね、彼女の記憶の断片を元に著作を探し求め、第３号（11･20発行）に「八木秋子著作リスト」を報告しています。一方、彼女は「父・八木定義のこと」をまとめると同時に、読者の友人たちに「わたしの近況」として、老人ホームでの近況を描写して伝えました。
　その一文では、八木秋子の自負としての「覚悟と抵抗の姿勢」が読み取れます。しかし、実際の日常は「いつでも目覚めれば手近な所に読み差しの手慣れた書物があり、ノートがあった」孤独を愉しむ生活から一変した、多人数での共同生活からくる様々な軋轢もありました。
　
　そのような日常を八木秋子の日記「転生記」より伝えたいと思います。

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１９７８年２月２日
　事務所に行ってみると、あんた高井ますさんを知っていますか、という。あの高井さんがきのう病院で死んで、きょう午後１時から病院の霊安室で告別式があるから行ってはどうか、という。あの高井女史が。病院で……。とうとう逝ったか。わたしを徹底的にきらって、バカヤロ、チクショーと呼び続けた人。わたしはその人に対して一度も抵抗もせず、挑戦もしなかった。

　彼女がいよいよ荷物をまとめて出る矢先、わたしの古い洋装の余りが欲しい、というので、渡辺さんの遺品としていただいたスーツの古いのを出し、着せてみたところ、どこもピッタリと合ってスマートな姿になった。私には身幅も腰もせまく、着られないのだ。彼女の満足した顔、様子は実に喜びに満ちていた。そのほか夏のワンピース、うすものの上着など、私はその人の歓びにうたれて惜む気を忘れ、それらを贈った。みんながぞろぞろ集ってきて彼女のニュースタイルを祝福した。前夜は寝る前、彼女の首途を送るのに赤飯、まきずし、チキンのもも肉、アスパラガスなどのごちそうをはずんであげた。彼女は顔一杯の満足と喜びを満面に浮べて喜んだ。盛んな食欲を発揮して次々と平らげて喜びを隠そうとしなかった。

　私はそこで初めて気がついた。私が羨やましかったのだ。私のところへは絶えずいろいろな面会人の慰問があり、菓子、果物、衣類などの差し入れがある。彼女は心に深く羨望をもって私を見ていたのだ。彼女は持金がある様子で、時々立派なマフラーやスカートなどを買ってきて、広げて得意気にみせた。しかし、私に対してはいつも敵意を抱いていて、バカヤロー、チクショーを連発してやまなかった。近所の人達、ことに新入寮には男性－といってはどうかと思うが、おじいさん達は彼女を攻撃した。しかし私は彼女に何もいわなかった。怒る、あるいは抗議するのはあまりに馬鹿げている。私は黙殺することに決めた。それらのことが一層彼女の反感をそそったのかも知れない。

　部屋の中でも彼女は主権者であって、咳がひどいときは寝床をのべ、部屋の半分を占拠して、どんなに周囲が迷惑を感じようが、困ろうが、他人事で平気で通した。そのうち力のない咳が頻繁になり、牛乳、卵、果物など好きなものを買って食べた。好き嫌いが激しく、嫌いな食物など贈ってくれた人の見ている前で、庭の草木の上にぼんぼん投げて意に介しなかった。その咳は明らかに結核菌からくるものと想像されたが、事務所ではこれらの一切を知りながら放置していた。とうとう入院しろ、と事務所から命令が下った、彼女はこの命令を拒んだが駄目だった。

　お前が今後退院ということになってもこの部屋へは絶対に帰ることは許さんぞ、荷物なんて残っていても構わん、みんな放り出すからそのつもりでまとめて持っていけ、２度と帰らせないからな。寮長がそういって棚の上からダンボールの荷物をポンポン投げ下した。　午前９時、新入寮の玄関に彼女は一人立っていた。
　
　見送る顔といえぱ、部屋の人と私の２人だけ。「お世話になりましたねえ」と彼女は頬のげっそり削げた顔に笑いを浮べて私に手を差しのべた。私はその枝のように細い手を握った。「早く元気になって、おかえりなさい」私は淡々とした言い方だったが。ひとつの決心を肚のうちに秘めていた。自動車は走り去った。事務所のドアがあいて寮長の顔がのぞいた。いま高井さんが行きました。御心配かけました、と私はいう。「そう、いったか、ごくろうさん」と云った。

　高井さんは附属病院の結核病棟に入院した。結核病棟かどうか委しいことは知らないが１１階の病室であると聞いた。玄関へ一緒に見送ったＳさんがきて、「高井さんが病院の玄関のところに佇っていたよ、見つからないようにかくれて、そして飛んできた。」どうだった、やっぱり蒼い顔をしてた?「蒼いともなんとも生きてる顔じゃなかったね、見つかっては大変と、とたんに柱の陰に隠れたんだけどさ」といった。私のあげた揃いのスーツ、ぴったりと身体にあって、見違えるみたい、よく似合ったわよ、それだけに顔色の蒼さがいっそう……。とＳさんは語った。

　彼女－高井さんの自ら語るところによると、彼女は新潟の農家の生まれである。近くの農家へ嫁いで一心に農で働き、農業で苦労した、子供はいなかった(真実は知らないが)。その農家の過労の生活が呪わしく、出奔して上京、上京してのちの彼女は女の職業というもの、あらゆるものを経験し、料理屋で働いたというのが大体の骨子であった。そのうち胸を犯され病院を転々とした後、この建物の中に放り込まれたというのであった。が、血縁者としては、本人の甥という５０代の男、そしてその姉とも思える女の人が面会に来たことがあったくらいのものだった。

　彼女の告別式は病院地下にある霊安室だと事務所で聞いた。連れのＳさんと連れだって私達２人は毛織りの服装にありふれた上っ張りを羽織った姿であった。世間ならば弔問客として小さくとも香典の包みを持つのが世間の礼儀であろうが、私達は２人とも手ぶらで地階への重々しい階段へ降りて行った。地階の一番奥まったあたりからほのかな線香の香りがうすく漂ってくる。室をいくつも通り抜けた奥に、天井も４囲の壁も白く塗られた白一色の霊安室があり、縁者の人々であろう７～８人の人々が並んでいた。

　どこの誰れの葬儀もそうであるように、正面は金襴めいた斎壇。壁の白い背景に２つの大きい花輪がどっしりと飾られてある。一つは大きい太字で都立養育院、もう一個の花輪は利用者一同、と記されてある。利用者、というのは現にここにいる我々のことで、収容者といえるであろう。利用者という言葉は、語感からもまた何とはなしの妙な現実感からも我々は親近感を持たないが、要するに葬儀のしきたりに従ってお前たちも死ねばここに移され、この形式に従って葬られることをすべて指し示したものであろう。

　納棺は正面にきらびやかに置かれてある。これから遺体となった仏は一から十まで養育院内のそれぞれの係りによっていつもの葬儀の仕来たりどおりに、形式どおり、習慣どおりに運ばれるであろう。すべて飾られたとおりに、そして寺の和尚の経文につれて、流れていくだけなのだ。私とＳさんはろうそくの光りを縫ってお棺に近づいた。電灯の光りに映し出されたその顔は蒼く、黄色く光りの下に静まっている。

　「高井さん」とまずＳさんが呼びかけた。
 「あんたはこういう仏様になっちまったんだね、随分苦労したわけだったね。もう大丈夫、苦労ないよ、安心して遠い冥土へいらっしゃい、みんなあとからぞろぞついて行くよ。迷わずに行きなさいよ、安心で迷わずにまっすぐ行きなさい、なんにも思い残すことないからね。こんどは丈夫な人たちといっしょ。薬も何も心配ないよ。病気も何もないんだから、またいい家に生まれ変わってね、幸せな家に生れ変っておいでなさいよ。幸せになってね、随分苦労したわね。今度は楽な、たのしい家に生まれるんだよ。私なんかお珠数もお線香もろくに持っていないんだけれども、ごめんね」
　と時々喉を詰らせながら言い聞かせる、割りとよどみなくすらすら云う言葉には、哀しみも何の耳を傾むけるいとまもなさそうである。私達２人は合掌して瞑目した。そして、その一つの物質となった人の顔に告別した。告別にきた女性２人、黒い服装にお珠数を手にしている。男達はやはり黒い背広である。

　和尚のお経は喉に時々からまりながら、いとも退屈げにいとも物憂くげにどこまでも続いていく、私は同じくこの建物のこの室内で死ぬ自分を想像してみた。しかし、死、ということがはっきり描かれるだけで、別段の感情もない。この真白い地下の白い静寂の中での死、などというものは白一色の、光るものの中に静寂の一刻一刻がすぎていくだけで、何の感情も感傷といったものもありはしない。　利用者一同はこうして何人であろうがここに無意味に坐するだけだ、妙に悲嘆したり哀傷など装おうとしないだけに、いっそ単純にさばさばと過ぎていく一時である。造り出される悲しみでもなく、何も惜まない死であるのもよいものだと思われる。棺の蓋をする石の音が響く、別に魂を刺す音でもない。彼女の生前、いろいろ身辺の世話を担当してくれた寮母のＹさんが端の椅子にかけていた。

　お棺は４・５人の男たちに担われ、別の裏口へ、そこの自動車に乗せられる、私は身すぼらしいが、私達２人が生活を、起居を共にしたという縁でこのお別れに列っしたことは、少なくともよいことだったと思った。病院の地下は私達の知らない出口がある。そこから男達の姿と共に消えた。

　私もＳさんも何一つ持っては来なかったので、煙草もなく、まして食堂で飲みものをとるわけでもなく、そのまま地上に出てきた。S子はいう「八木さんは百まで生きるのよ、その時は私が告別式にくるからね、ごめん、ごめん」「百歳とは途方もない。本当はね、あんたのような用心深い体を大切にする人が永生きするのよ、ぜったいに私が先き」などとバカを云いながら病院の玄関に帰りつき、カラーテレビを眺めてよしなしごとを言いあつた。外は風で樹々が裸になってしなっている。２人は明々寮の玄関に辿りついた、そこに備えてあった清めの塩を少しつまんで身にふりかけ別れた。
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         <pubDate>Tue, 14 Aug 2007 06:39:24 +0900</pubDate>
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