様々な制度や方法論が行き詰っている。やみくもに前に進んでいればそれなりにつじつまが合う時代は過ぎ去った。
時代は「編集」を求めている。
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☆■収集(分けると分かる) 収集・選択・分類・流派・系統 H■焦点(ニュースにする) 焦点・報道・統御
A■編定(縮めて伝える) 編定・要約・凝縮・翻訳・結合 I■境界(区切りを変える) 境界・場面
B■原型(型にして見る) 原型・模型・適合・列挙・配置・意匠・装飾・図解 J■周期(リズムをつける) 周期・曲節
C■順番(繋げて較べる) 順番・規則・交換・競合・比較・共鳴 K■諧謔(おおげさにする) 歪曲・不調・輪郭・諧謔
D■暗示(含みを持たせる) 暗示・相似・擬態・象徴 L■形態(構造を見つける) 構造・形態・生態
E■引用(盗んで補う) 比喩・推理・引用・例示・補償 M■劇化(物語で遊ぶ) 筋道・脚本・劇化・遊戯
F■注釈(付け加える) 注釈・付加・削除・拉致・保留・代行 N■綜合(みんなまとめる) 総合・創造
G■模擬(測って調べる) 模擬・測度・強調・変容 △■編集思考素

【新2回】貧しき港町

 大体ね、港町なんてのは貧乏なのよ。横浜なんかその典型だからね。

 そもそも港町ってのは、みんな食いっぱぐれて「稼ぎに」来る所だから。しかも、ちょっと稼いで船賃を溜めたらどこかへ「もっと稼ぎに」行っちゃう。だから、残るのは、よっぽど町が好きか、あるいはいつまでたっても船賃の溜まらないヤツね。

 港町では「どこから来たの?」なんていちいち聞かない。だって、みんな「どこからか来た」人だからね。そのかわり「今、何をしてるか」は大事。会うたびに違うことやってても、全然不思議じゃないしね。

 いろんなヤツがいるよぉ。混血なんて珍しくない「おまえドコのブチ?」なんて平気で聞いちゃうんだから。ブチって何?「斑」のこと。混血ってことよ。わかってんの? 「オレさあ、母親はチャイナなんだけど、オヤジはポルトガルらしいんだよなあ。会ったことないんだけど」なんて会話があるわけよ。

 港町は人も物も情報も「入って、出てゆく」ことで生きているのよ。でも、誰も町を盛り上げようとして何かを持ち込むなんてことはしない。だから、他にもっといい場所があると、みんな捨てて行ってしまう。それが港町だからね、しょうがない。残ったやつらは、なんとか生きていかなきゃならないからあれこれ工夫するけど、ノスタルジアに入ったらもうおしまいだね。だって、ノスタルジアには「出入り」がないもの。過去から入って、過去へと出てゆくだけでしょ? そんなに深い伝統があるわけじゃないから。

 港町がうまく行ってる時って、自然と役割分担がうまくいっって、人も情報もモノもくるくる動くわけ。だから、誰も遊んでる暇がない。どんなつまんないヤツでも何か仕事はある。商才があればビジネスの全面に立つし、度胸のある奴ならいろんな差配で稼ぐ。顔のいい奴ならバーやクラブで仕事がある。女なら街角に立つこともできるし、男なら石拾いから仕事がある。

 ただ、うまく食えないやつは「何やってるのかわかんない奴」ね。つまり、誰もが「こいつにどんな用事を振ったらいいのかわからない」わけ。だから「食わせられない」。せめて「何がやりたいのか」でもわかればいいんだけど。でも、やりたいことと向いてることって、大抵、違うからね。

 そういう奴以外は、みんな働くよ。だって、金が欲しいから。

 それに、稼ぎたい奴のためのいろんなシナリオが町中にはあるのよ。いろんな成功談や失敗談だったりするけどね、みんなよく話をするねえ。そして、話をしながら「次は俺ならこう動いてうまくやってやるのに」なんて思ってるよ。ココロココニアラズさ。

 生きてゆく、それも「急いで生きてゆく」には劇化するのが一番だね。だから、今なら六本木ヒルズなんてのは一番劇化しやすいんじゃない? いや、劇化するように切り回してる奴がいるよ。 マスコミも一緒になってるからね。現代の港町かもしんないよ? 情緒はないけどさ。

 いずれ廃れるのよ。港町だから。

 廃れたらどうすればいいのかって? それは「劇化」のフォーメイションが崩れているだけさ。次回、どうすればいいか話をしてあげるよ。ほら、早く電車乗んな。アバよ。


【新1回】街と劇化

 さて「劇化」ということについて、もっと切実に考えてみようではないか。



 「編集」とは「情報の回路を作る」ことに他ならない。なかでも「劇化」は「劇的」に回路を展開するために、パーツの役割を明確に際立たせ「その世界」から情報を積極的に出し入れすることに重点を置いた「編集の中の編集」である。


 ここ数年、友人が住んでいる関係で谷中・千駄木界隈に遊ぶことが多いのだが、台東・文京・荒川の3区にまたがったこのアルザス地方のような一郭は、まことに「劇化」のお手本のような地域である。

 ここには、観光化される以前の古い住民と、観光化されて以降の新しい住民とがいる。「観光化」といっても何か大きな資本が投下されたわけではなく、この地域に古くからあった「暮らし」を再評価して、そこから大量に情報を発信していった人々である。

 情報の発信もさまざまである。「谷根千」を題材にした雑誌、小冊子は有名である。それは単にコミュニティの動向を伝えるだけでなく、まさに、琉球エアコミューター(昔の南西航空)の機内誌なみに、その根底を分析・披露する内容の濃さ、研究密度の高さがある。毎号が「永久保存版」になるような冊子ばかり。

 また、ここはファッションや小物の商売も盛んである。もともと古い屋敷街の近くにあったこともあり骨董屋が多かったようなのだが、今では伝統的な骨董屋よりも「店主の再評価」で光が当てられた中古品を商う店のほうが賑わっている(単価は安いのだが)。中古だけではない。あちこちで少量生産されているものを見つけてきては売っている。仕事はまさに目利きなのだが、それがちっとも権威的でないところが面白い。

 小物転売だけでなく、デザイナーの店も多い。洋裁・和裁のみならず、自転車までオーダーメード。しかもその自転車屋がオリジナルのジャージを販売している。品物を売るというよりデザイナーの世界を売っているという感じだ。

 そして「カフェ」である。これも、店主の持つ世界をストレートに空間表現している。まず「面白くないカフェ」はない。フランチャイズのドーナツ屋でさえ面白く見えるのは、周囲に際立った店が多くあるからだ。

 さらに「居酒屋」や「食堂」。よく見ると、旧住民が多く出入りする店と新住民が多く出入りする店があるようだ。


 この世界について誰かから噂を聞き、あるいは雑誌の特集などを面白がって、遠い街からフラリと流れてくる人々が多い。どこか一軒、気に入った店を見つけ、通ううちに店主と話が交わされるようになる。そこで、何か別の店を紹介されるだろう。あるいは別の店に入った話をすると「あー、お友達だよー」なんて返事が返ってきたりする。

 この人がこの街にとって「よく来る人」から「常連」に変わるのは、この街における「役割」が見え始めてからだ。その人の素性や仕事は関係ない。人々が集まったときどういうキャラクターを担うかということである。


 あらゆるコミュニティは「役割の分担」がある。それがどううまくいっているかがコミュニティ活性化の鍵だ。谷根千界隈は役の数が多く、また、それらをうまく動かすシナリオが沢山用意されている。そして、 カフェやショップ、いろんな散歩ルートなど小さな舞台がたくさん用意されており、シナリオと役者に応じていくらでも劇的コミュニケーションを交わすことができるのだ。

 常連になってこの世界の芝居に参加するのは難しいことではない。自分のキャラクターに関心があり、かつ、他の人のキャラクターに関心を持つ人であれば、あっという間に台本や舞台が提供される。この街に移り住んできた人たちが経験から生み出した振る舞いであり、それによって有名になった街なのだ。

 ところが、この地域に伝統的に住んでいる、いわゆる古い住民にとっては「よくわかんない話」である。昔から古い人々と新しく来た人々の間には微妙な壁がある。


 しかし、今日もまた新しくこの街に「客」として現れる人がいる。そのうちの何人かはここに引っ越してくる。あるいは店を出したり、この界隈の店で働いたりする。そして「住民」になるのだ。


 なんだ、これは「港町」ではないか。次回は「港町」の舞台性いついてお話ししましょう。

【第四回】Review(1〜3) 確認、決定、書換 

 さて、それでは第一回から第三回までのReviewをいたしましょう。


●要約

 第一回〜第三回の要点は、つまり、以下の3点です。

1 物事に対するリアクションから自分を「確認」する
2 次の自分を「決定」する
3 心の中の履歴書を書き換える


●解説

 では、回を追って別の言葉で解説してみましょう。

【第一回】 自分を発見する

 自分を発見するには、みつめる自分を自分の外に置かなければなりません。そのために有効な方法として、たとえばある対象、ある状況を想定して、それに対して自分がどう反応するかシミュレーションする、という方法があります。

 「寝ているところに強盗が入ってきたら、自分はどう反応するか」
 「ステーキとトンカツがあったら、自分はどっちから先に食べるか」
 「突然好きだと思っていた相手から告白されたらどう反応するか」
 「犬の糞を踏んだ瞬間、自分はどんな反応をするか」

 こういうことを毎日少しづつやってゆくと、自分の輪郭を発見することができます。これがあなたの「第一の自分」です。

 さて、あなたが第一の自分をどう思うか・・・つまり「第一の自分が表出した瞬間、自分はそれにどう対応するか」・・・をシミュレーションしてください。それが「第二の自分」との出合いです。

 自分の事が好きでない、という人は、第一の自分が出た瞬間、それを隠そうとするかもしれません。自分が好きだという人は、第一の自分に便乗して調子よくのっかってゆくでしょう。どちらも反応しているのは「第二の自分」。そして、ここまであなたの中に出てきた「第一」「第二」をあわせたものが「キャラクターの種」です。

 あなたがもし「自己紹介」をしなければならない状況に置かれたら、その種をひっぱりだしてきて、その場の状況にあわせて誇張、拡張、歪曲、縮小などしてみてください。この種を用いている限りは「歪曲」しても「否定」しても、ちゃんと「種」が伝わります。しかも面白い(いや、面白くなるくらい誇張や否定をするべきだということです。

 まあ、自己紹介を筆頭に、仕事や人生にこの技術を活かすには「自分の種」に関する運用技術が必要になるわけですが、それは追って解説しましょう。

【第二回】 次に向かって自分を誘導せよ

 第二回で最も重要なのは、回の冒頭で触れた、照屋林助さんの「楽しいから笑うんじゃない。笑うから楽しいんだ」という言葉です。自分にとって主役は自分なのだから、もっと積極的に自分自身を楽しい方向に誘導せよ、というメッセージを含んでいます。これは何につけても重要です。たとえば政治だってそうです。「興味があるから投票に行くんじゃない、投票に行くから興味が沸くのだ」というような話はヤマほどある。「楽しいから働くんじゃない、働くから楽しいんだ」という言葉だってそうです。ニートを気取る人々は首にひもをつけてでも働かせよ、というのが私の正直な意見です。
 そういえばラジオやテレビのキリスト教番組の有名なフレーズに「暗いと不平を言うよりも、進んで明かりをつけましょう」という言葉がありますが、この言葉を裏打ちするのが照屋さんの言葉だ、と私は理解しています。やはり、自分の心に灯をともしてくれるのは自分自身を置いてほかに居ないのです。
 地上で一番幸せな落語会は、演者の巧拙もさることながら「お客が前のめりで笑いに来ている」ような会です。私が、批評家気取りの「笑いに来ていない」カビの生えたような客ばかりが集まる、一部のホール落語会を嫌うのはそのためです。よく居るのです。「何を笑ったか」よりも「何を笑わなかったか」で自分を確認するようなショッパい客が(年齢に関係ないぞ!)!そういう人は不幸のどん底に落ちてしまえばいい、と、かねがね思っております。

 さて、そういうわけで、自分をどうやって導くか、ということですが、第二回では「なりきり」という方法をお伝えしました。しかも「背景つきでなりきろう」という事です。「漱石になったつもり」ではなく、たとえば「修善寺で血を吐いた後の漱石になったつもり」くらい具体的な背景を想像したほうがより「なりきれる」という事です。
 なりきってしまえば、半端なディティールは不要です。口調は背景から導かれたものであるべきで、いちいち作るようなものでもない。
 もっと動的局面からいえば、あなた自身の口調だって、場によって自由に変わっていいはずなのです。背景、状況は常に変わっています。1秒後のあなたはもう今のあなたではない。そして1秒後の自分の口調を作っているひまなんかないのです。重要なのは背景を自分によく反映させることです。
 ただ、たとえば何かを作っているとか、講演で喋らなければならない、とか、一つのキャラクターを一定時間維持しなければならないという時には、背景つきで、一時、キャラクターを借りてくればいいわけです。

 他人の人生を積極的に生きてみよ、という事です。
 楽しいから他人の人生を生きるのではなく、他人の人生を生きるから楽しいのですから。

【第三回】 心の履歴を自在に書き換えよ

 全ての存在にはシナリオ(過去→過去の結果としての現在→それらが導くであろう未来)がまとわりついています。もしあなたが「自分のシナリオ」を書き換えたいと思ったら、過去にさかのぼって書き換えなければ先につながりません。

 つまり、第二回で説いた「なりきり」を本格的に行うには、「なりきる」状況に至った過去に思いを馳せ、それがあたかも自分の身の上におこったように言い聞かせ、どっぷりと信じ込むことが大事だ、ということです。

 それを繰り返したところで自分を見失うことはありません。すべてのシナリオはつながっていますから、あなた一人がちょっと過去を書き換えても、時間がたてば周囲の力で戻されます。しかも、戻った場所は、あなたのちょっとした冒険のおかげでわずかに位置が変わっています。そこが「味」になるのです。

 心の中の履歴書だけは、書き換えても罪にはならないのです。

【第三回】 シナリオと嘘

 あらゆる物語は「進ませる力」と「止める力」の二つが作用しています。そして、これを使いこなすと、あらゆる物語を自由に止めたり、引き延ばしたりすることができるようになります。

●全ての存在には固有のシナリオがある

 まず最初に「全ての存在は固有のシナリオを背負っている」ということを理解して下さい。
 あらゆる存在には必ず「履歴・現状・未来」がワンセットになって取り憑いています。こんなことは当たり前だ、とお思いになるかもしれませんが、人間、そこを忘れやすい・・・いや、忘れるようにできている、と言った方が適切でしょう。

 ここに、パン屋のロコちゃん、お米屋のマコちゃん、うどん屋のトコちゃんという3人娘が居るとしませう。
 当然、3人にはそれぞれに過去と現状と未来、つまり「個人のシナリオ」がある。
 ただし、ここで言う「未来」は、あくまで「こうされたい、こうなりたい、あるいはそうあらねばならないと決められている」未来です。本当にそうなるかどうかわからないから「未来」なのです。
 つまり「過去の履歴、その結果としての現状」があって「その先に展開されるであろう未来」がある、というのがそれぞれ個人のシナリオなのです。過去と現状はセットになっており、未来は「過去+現状」を前提とした話。
 この「個人のシナリオ」がそのまま演じられればそれは「個人の物語」となります。しかし、シナリオの「未来」は裏切られることが多いので、物語とイコールになることはなかなかありません。

 「3人娘」というひとくくりの中にもシナリオがあります。当然です。過去と現状と未来があるもの(すなわち森羅万象)はすべからくシナリオを持っているからです。
 従って「3人は小学校からの仲良しで、明日の同窓会があるので、何を来手ゆくか相談している」シナリオもあれば「3人は全く見ず知らずであり、現在も全くかかわることがなく、未来永劫何かで一緒になる可能性はない」というシナリオもあり得ます。

 仮に三人娘が駅前の喫茶店「フウカ堂」で雑談をしていたとします。当然この喫茶店にもシナリオがあります。「昭和32年に開店。89歳の店長が未だにカウンターに立っている。いずれ店長の引退とともに店は閉店する」とか「昨日できたばかりの店で、ほとんど知られていないが、ケーキの種類が多いのでこれから流行るだろう」とか、勝手なシナリオがあるわけです。

 あ、もちろんこの「街」にも、喫茶店の前にある「駅」にもシナリオがあります。喫茶店の中を見回せば、カップにも照明器具にも砂糖壷にもシナリオがあります。

 さらに、そこにある存在同士の組み合せにもシナリオがあります。「喫茶店ではロコちゃんちからパンを仕入れている」「この辺一帯の飲食店はマコちゃんちのお米屋さんと取引がある」「この店の主人はトコちゃんちのうどん屋の常連である」なんてところからはじまって、「ロコちゃんとカップ」の関係、「駅とマコちゃん」のつながり、「89歳店長とトコちゃん」の友情、など、ありとあらゆるシナリオがある。また、さらにそれが重なって「同窓会と照明器具と駅」のシナリオもある。そうです! シナリオは無限に存在します。あらゆる存在にはシナリオが存在する、というのはこういう事なのです。

 ところが、人間はよくできたもので、全部のシナリオを把握することはできない。さらに言えば、すべての存在にシナリオがあることさえ「すぐに忘れることができる」ようになっているのです。そうでなければ、あふれかえるシナリオの渦で人間の頭はパンクします。
 

●シナリオ間の衝突があらたなシナリオと物語を生む

 さて、当然一本のシナリオが演じられれば、当然それはひとつのドラマになるわけですが、お気づきの通り、あらゆるシナリオは独立して運行できないのです。あらゆるシナリオは密度の高いハイパーリンクでつながりあっているので、一つのシナリオが運行される時、他のシナリオも同時に運行されます。ま、これを通常「世界」と呼び「世界はつながっている」と言うのですけどね。

 あるシナリオが別のシナリオの未来を妨害している。ああ、これはまさにドラマの始まりです。3人娘がもし別々の機会に共通の男性と出合い、恋をしてしまったとしたら、当然、互いのシナリオが衝突します。

 これがドラマの始まりなのです。いわば「3人の恋のさやあて」に関するシナリオが設定されたということになるでしょう。このシナリオには、3人の個別のシナリオに加え、男性と3人それぞれの「一対一のシナリオ」も絡みます。

 もし誰か一人だけが男性からネックレスを貰っていたとしたら、その持ち主とネックレスのシナリオ、男性とネックレスのシナリオ、男性と持ち主とネックレスのシナリオ・・・も存在します。

 はい、またもや「すべての存在にはシナリオが存在する」という話になります。


●気になる範囲の未来を描く

 さて、これで世界が無数の存在と無数のシナリオで構築されていることがお分かりになったでしょう。問題は「全ての存在にとって過去は全て解決されているが、未来は何も解決されていない」ということです。過去にシナリオが衝突した結果が現状ですから、現状は「受け入れるべき正解」としなければならないのです。好むと好まざるとに関係なく。

 モノガタリゼーションは未解決の「未来」をいじる作業です。
 結論からいえば「複数シナリオ間に衝突が起きれば物語は動き始め、その衝突を解決すれば物語は終わる」というだけのことです。
 ところが、シナリオは無数にあり、それがすべて関連しているのですから、本当に解決することはできないのです。
 しかし、幸い、人間は全てのシナリオを把握することはできないし、全てにシナリオがあることも忘れてくれる。つまり「気になる範囲のシナリオに関して、衝突が解決されれば、物語は終わる」ということですね。
 ですから「物語を終えよう」と思ったら、物語の推進力になっている個別シナリオの衝突を解決すればいいわけですし(圧倒的勝利とか、そういう無理矢理な解決も含めます)、まだまだ物語を続けたければ、解決しないようにゴネればいいのです。また、一度解決した衝突も、別の固有のシナリオをもってきて「まだ未解決の問題があった!」と提示すれば、再燃します。長寿ドラマの秘訣はここにあります。範囲を伏せたり拡げたりする効果はここにあるのです。


●物語は『綴じ』から始まる

 これは以前、作家・小松左京さんから伺った話なのですが、物語は「利害関係が綴じられた時からはじまる」のだそうです。たとえば今年再映画かされる「日本沈没」は「共通の祖国を失ってしまう」という利害の共有(綴じ)が物語の原点であり、それは古来人類が持っている「喪失の物語(例:ユダヤ人の故郷喪失など)」でもある、と解かれています。
 つまり「どの範囲の衝突(=体験の共有)に光をあてるか」が、モノガタリゼーションの肝要だということです。

 たとえば3人娘がそれぞれ共通の男性に関して抱く各々のシナリオに限定すれば、それは恋をめぐる活発なガールズトークになるでしょう。誰か2人が折れれば(あるいは3人が完全に決裂したり、男性が死んだりすれば)物語は終わりますし、そうならなければ物語は永遠に続く。もし終わってしまっても新たな固有のシナリオ・・・たとえば恋心の再燃、男性が出さずに残したラブレター、その男性の本当の恋人・・・を加えて「綴じれば」また物語は動き始めます。

 つまり、物語を進めたり止めたりするのが自由自在だ、というのはこういうことなのです。


●では、日常生活でこれをどう運用するか

 さて、物語作家になるならまだしも、この仕組みをどう現実の生活に活かしましょうか。そうです、この手がありました。

 人間は嘘をつくことができます。つまり「過去」を描き替えれば、固有のシナリオはいくらでも書き換えられるのです。過去を書き換えずに未来だけ作り替えようと思ってもそれはムリです。最近のテレビドラマではそんな演技ばかりですけどね。

 逆にいえば、自分の中で過去を書き換える・・・別の過去を持ってきて、その中を生きてきたと自分に言い聞かせて・・・たったそれだけのことで、あなたは自分の未来を書き換えられます。もちろん書き戻すこともできるわけです。

 別に詐欺をはたらこうというわけではない。
 それがいわゆる「なりきり」の極意です。演技派俳優の真骨頂です。

 もしあなたが、誰かにとって影響力のある存在になりたいと思ったら、まずは、朝起きた時から自分の過去を書き換え、それにあわせてあなた固有のシナリオを書き換えてみましょう。

 ただ、すべてのシナリオはつながっていますから、ちょっと過去の記憶を書き換えてもすぐに元に戻されます。現実の力はゴーインです。だから、書き換えたシナリオを補強する作業をおこないます。それはいつもと違う服、いつもと違う香水、いつもと違う食事・・・そんなレベルから、いつもと違う口癖、いつもと違う考え方、そんなレベルまでどうにでもなります。

 ピアニストの内田光子さんは永年ヨーロッパに在住のまま演奏活動を続けていますが、彼女は以前「みそ汁を食べた身体でモーツァルトを弾くのは不自然ではないか」という内容の事を言っていました。もちろんみそ汁を飲みながら欧州の神髄に至った指揮者の朝比奈隆さんのような例もあるわけですから全てが内田さんの言う通りではないと思うのですが、大事なのは内田さんが「森羅万象に固有のシナリオがある」ことに非常に敏感である、ということです。むしろそのシステムを積極的に利用して「欧州に身をひたすことで、自分のシナリオをより高度に書き換える」事を試みているのではないかと思うのです。

 さて、仕事ばかりではありません。たとえば誰かとちょっと高い食事に出かけるような時は、このシステムを利用しようではありませんか。着る服、大好きな言葉、耳にする音楽、読む本・・・前日からちょっとシナリオを書き換えてみてください。きっと「別の味」がするでしょう。本来の自分の舌も働いていますから、文字通り「二枚舌」で料理を味わうことができます。

 自分に対して嘘をつくことを恐れてはなりません。より確信的、より技巧的に嘘をつくべきです。どうついたって、自分の心の中に嘘をついたという足跡を残さないなんて無理ですから、必ず嘘は解除することができます。でも、生涯美しい嘘をつき続けることも、素晴らしい事です。その嘘が誰かにとっての真実を構成してしまえば、ね。

 最近ドキュメンタリー映画になったようですが、終戦から近年までずっと現役をつらぬき通した横浜の有名な娼婦「メリーさん」(近年、故郷で没したとの由)にとって、娼婦の姿が本当のシナリオなのか、その白塗りに隠れた真顔が本当のシナリオの主なのか。それはメリーさんが決めればいいことなのだ、と言う訳です。故郷の親戚が娼婦であるということを受け入れられなかった、ということもひとつの固有のシナリオです。

 最後に。
 泣きそうな気分になったら、寝る前に、できるだけ大きな鏡の前に座って、さも一日が満足だったような顔をして、大きなスマイルを作ってください。そして、より大きなスマイルになるよう、その日一日の記憶を少しづつ書き換えてみて下さい。

 本当につらい時は、こんな方法もあるのです。

【第二回】 劇化の心得

●「笑うから楽しい」人は幸せになれる

「楽しいから笑うんじゃない。笑うから楽しいんだ」
戦後沖縄芸能の中興の祖・照屋林助さんの言葉であります。

はっきり申しましょう。「笑うから楽しい」人は「楽しいから笑う」人より幸せにはなれます。逆にいえば「楽しいから笑う人は、笑うから楽しい人より幸せにはなれない」というコトです。モノゴトは言い方一つで軽くも重くも響きますね。まあ、「楽しいから笑う」人は、不幸な人生とまではいいませんが、きっと幸せを沢山食べ残して死んでゆくんだと思います。まあ、勿体ないと思わなければソレハソレデイインデスガ。

劇化の恩恵を得ることは「楽しいから笑う」タイプの人にはムリです。なぜなら、劇化とは、まず自分を投げ出さなければならないからです。「気分がのったから劇化した」なんてのは劇化でもなんでもない。それは状況にダマされているだけのことです。そういう人がサギにひっかかる、といっても過言ではない。

現在のあなたは、過去のあなたの集大成です。「所詮、過去の集成でしかない」と言う言い方のほうがいいでしょうか。どんなに自慢したって、今の「あなた」はもう再現できないのです。今日のあなたはもう「ピーク」なのです。そんなものにしがみついていたら、それこそ、売り損なって暴落に巻き込まれた株主みたいな目に遭ってしまいます。ですから、自己に投資しましょう。自己の未来に、です。しかも、おカネではなく「智慧」を投資しましょう。

なんだかインチキ宗教家の演説みたいになってきましたが(笑)、わたしはこれを書いている瞬間、インチキ宗教家の気分になって筆をすすめています。もちろん、書き終わってから非インチキ宗教家になって(なんだか「非姉歯物件」みたいな言い方だ)修正はするんですが。


●今の自分は既に自分ではない

一瞬先の自分を「作る」こと、それが大事です。「自然な自分の姿」なんてのは「使い古しの過去の自分」でしかないわけです。もちろん、お古だから柔らかくて着心地はいいでしょう。体型にもフィットして。それ、その心地よさは認めます。疲れている時にはそういうビバークは必要だと思います。でも、そこに安住している人の言葉には夢中にさせるものがない。

もし、あなたの言葉で人を夢中にさせたかったら、まず現在の自分とオサラバすること(いや、本当は既にオサラバしているはずなのに未練の糸が切れないでいるだけのこと)。そして1秒おきにオサラバし続けることです。言うこと、考えることがどんどん変わってったって構いません。それで失うものがあるとすれば、あなたは既に「過去の人」だったのです。

ただ「過去の人」は捨てたもんじゃないのですよ。案外、殿堂入りのチャンスかもしれませんからそれはそれで「未来の自分」に見切りをつけるチャンスかもしれません。大事に見極めましょう。あ、なんだかひと昔前の株式コンサルタントみたいになってますね。私。

さて、現在の自分とオサラバする方法。それは劇化・・・モノガタライゼーションです。
自分を劇化することは自分を欺くこと、誤摩化すこととは何ら関係ありません。むしろ劇化を拒否する心の中に「より強いごまかし」があると、私は、思っています。


●自分をモノガタライズするには

「1秒おきにオサラバし続け」よ、と言いました。そして「言うこと、考えることがどんどん変わって」いい、とも言いました。しかし、当然それでは出来ない事があります。たとえば一定期間研究を続けるとか、誰かと電車の中でしばらく過ごすとか、コロコロ変わると不都合な場合もあります。そんな時のためにこそ自分をモノガタライズしてください。

自分をモノガタライズするということは、簡単にいえば「なりきる」ということです。「それはキャラクタライズではないか?」という突っ込みが聴こえそうですが、それは不勉強です。なぜならシチュエーションから切り離されたキャラクターなんてものは存在しないから、なのです。

日記を書く時、ちょっと「漱石」になりきって書いてみましょう。その時に大事なのは「『我が輩は猫である』を書いた時の漱石」になるか「修善寺で吐血した翌日の漱石」になるか、です。漱石という人物より漱石が置かれたシチュエーションのほうが重要です。言い方を変えれば「キャラクターを着ること」より「シチュエーションを着ること」のほうが大事だ、ということです。


●口調はシチュエーションの反映
落語の世界ではキャラクターによる声色の使い分けは「七色声」と言って、あまり良い事とはされていないようです。むしろシチュエーションによる口調の使い分けのほうが重視されるようです。熊さんも八っつぁんもご隠居もほとんど声色を替えずに喋っているのにちゃんと区別がつくのは、それぞれの人々が負ったシチュエーションと、登場人物が共有するシチュエーションとの間にうまれる「その時どきの口調」を演じているからなのです。

落語では、たとえばご隠居と八五郎の会話をするシーンがあるとして、ご隠居らしさ、八五郎(大工)らしさというものをあまりちゃんと描くと、2人のギャップばかりが目立ってしまいます。まあ、ギャップを問題にした噺ならそれでもいいのでしょうが、もし、2人が仲良く世間話をしているというシチュエーションを描くとするならば、2人の「それぞれの背景に根ざした口調」以上に2人が「共有するシチュエーションに根ざした」口調を演じるべきです。何やら似たような口調になってきます。

ご自分に置き換えてください。もしあなたが自分の喋り方の癖をよく知っていて、その喋り方にこだわっているとしたら、それはもうやめましょう。そんなものに価値はない。むしろ、その場、その場で、目の前にいる人の口調を少し頂いて、キャラクターの殻を溶かしましょう。いわば「自分のキャラを破れ」ということです。また、一人で文書を書くような時には誰かになりきりましょう。それも誰かの「極限状態」をこそ、着るべきです。

そうやって他人を着て毎日を過ごし、ちょっと疲れてきたあたりから、はじめて「あなた」が出てくるのです。そんなあなたに、人は最大の信頼と愛情を寄せることでしょう。悪人でも愛されるひとがいる、というのは、そのためなのです。

NAVIGATOR

デーブ川崎(川崎隆章)
職業は演芸番組専門ラジオディレクター、そして、放送史研究家。科学者を志すものの算数が苦手で脱落。寝台特急の運転手になりたかったものの暗いところが怖くて断念。あれこれ試しては断念することを繰り返すうちに、現在の職業となる。あとは本人に直接聞くのが吉。劇化(物語で遊ぶ)の達人であることは間違いなし。

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