様々な制度や方法論が行き詰っている。やみくもに前に進んでいればそれなりにつじつまが合う時代は過ぎ去った。
時代は「編集」を求めている。
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2006年02月24日

Ⅰ 企業から教育の場へ-5.東京、京都、行ったり来たり

西と東、二つの大学に通い始めたのだが、同じ客員教授と言っても立命館大学(以降立命館)と多摩美術大学(以降多摩美)では随分と様子が違っていた。
もちろん経営学部と美術学部では学生の資質が違っていて当然である。立命館は、前期は学部の3・4年生150名位、後期は博士前期課程30名位。多摩美は、学部の4年生30名位が対象。規模も違う。
立命館の学生は、欠席も少なく居眠りもなく面白そうに私の話を聞いてくれた。これに対し多摩美では、最初は大勢集まったものの、そのうち出席人数も少なくなり退屈そうな顔で聞いている。いささかショックであった。
後でわかったのだが、講義が単位としてカウントされるか否かの違いがひとつ。もうひとつは、これがのちのち私にとって重要な課題になってくるのだが、講義が面白いかどうかという問題であると気づく。「Design」の大事な役割の一つに「意思を伝える」というのがある。それができていないのだ。
私には企業で長年培った経験と実績がある。がそれは過去のこと、現在はただのリタイアマンだということを思い知った。
それでも立命館の学生から見ると、一流企業の役員を経験した者の話は講談を聞くようで面白かったようだ。しかし、一日も早く一世を風靡するデザイナーになりたいと願う美大生にとって、いかに早く最新の技術を身につけるかが重要な課題だったのだろう。
その他で言えば、立命館では相部屋だが立派な客員教授用の部屋が用意され、しかも博士後期課程の助手がつき研究費が出た。多摩美はそれらが全てない。良いとか悪いとかではなく、これほど環境の違うところを一年にわたって、「行ったり来たり」したということになる。異質との出会いが新しい発見を生む。
ともあれ、面白い授業に、いやそれだけでなく役に立つ授業に、しかし役に立つ話は、とかく耳に痛くて煙たがられるものだ。やれやれ。

2006年02月15日

Ⅰ 企業から教育の場へ-4.教育は「共育」なり

ミレニアムの年(2000年)、はからずも教育の場に身をおくことになり、私なりに勉強し自分に言い聞かせたことがある。
21世紀の日本はまちがいなく少子高齢化社会となり、少ない若者で多くの年寄りを養わざるを得ない。そこでは若者一人ひとりの「価値」を高めることが不可欠、まさしく「知恵」の時代となる。
「知識」を詰め込むだけの時代は終わった。「発意」によって初めて、「知識」が「知恵」に変わるということを知らねばならない。
幕末、吉田松陰が開いた松下村塾では、塾長の松蔭がものごとの道筋を忌憚なく示し、あとは塾生が自ら考えることによって育っていくというやり方をとった。ここから、新しい明治という時代をつくる幾人もの有能な人材が輩出されたことは周知のところである。
これからの教育は、「発意」をどのようにして引き出すかが課題となろう。educate(教える)から educe(引き出す)に変わるべきだと考えている。「教える」のではなく先生と学生が、一緒に考え行動し「共に育つ」ことが大切なのだ。わたしはこれを「共育」と呼ぶ。
南方熊楠が「もの」と「こころ」とでできる「こと」という不思議な世界があると言ってから100年、「物」の時代から「事」の時代へと言われるようになってからも久しい。
この「事」をつくるために大切となるのが「想像力(イマジネーション)」である。想像力を培うことで「創造力(クリエイティビティ)」が生まれる。
想像力のもとは「発意」であり、「発意」は、他を「想う」ことに始まる。

2006年02月08日

Ⅰ 企業から教育の場へ-3.定年前に・・・

話は少し前後するが、定年直前の状況を振り返ってみたい。
そもそも定年後は、待望の山小屋暮らしやゴルフ三昧で、しばらくはのんびり、と考えていた。また先祖の墓がまだ紀州にあり、長男でもあるし、なんとか自分の入る墓を東京につくろうとも思っていた。
そして少し落ち着いたら、「四国八十八カ所の歩きお遍路」に行って、これまで塗り重ねてきたキャンバスを一度真っ白にしてみるのも良いかと、送別会などで聞かれる度にそう答えてきた。
そこへ、長年公私にわたりお世話になった清水 博先生(東大名誉教授、「場」の研究所)から手紙をいただき、その中に「これからの3年間の過ごし方で、貴方のこれからの人生が決まる」という一行があった。心に痛く突き刺さった。一つぐらい何か習い事をと思い立ち、英会話を一から勉強しようとすぐさま長年憧れていた御茶ノ水のアテネフランセに申し込んだ
またそんな頃読んだ本に、森村誠一氏の「老いのエチュード」がある。そこには「定年後は、一つでもいいから何か新しいことを始めるべき」というくだりがあった。
この新しい「何か」を探していたとき偶然、松岡正剛氏から、氏が率いる編集工学研究所で新しい試みの編集学校を開設するので、一緒に楽しまないかという話が舞い込む。私はすぐさまその誘いに飛びついた。「セレンディピティ」のごとくにである。  
先生しますか?生徒やりますか?の問いに、当然生徒だと即断。すでに現在2500人以上の卒業生を輩出したと聞くが、学籍番号00-0001は私の自慢とするところだ。
こうして定年を迎えるときには、どれも手放さないで、同時進行の三つ巴四つ巴の新しい人生が始まったのである。

2006年02月02日

Ⅰ 企業から教育の場へ-2.母校多摩美術大学に・・・

母校の多摩美術大学校友会の設立に関わり、理事を引き受けていた関係で、立命館大学からの話を学校側にしたところ、こちらも引き受ける結果となる。
こうして、「経営」と「デザイン」という違った分野を目指す学生たちに、同時に「モノづくり」について語ることになった。東京と京都を行ったり来たりの生活が始まったのである。
1年経って、生産デザイン学科長の定年退官で後任を頼まれる。客員教授と違って学科を請け負うというのは、教育に素人の私が俄かに出来るものではない。
荷が重いとして断り続けた。
ホンダでは役員になると「燃え尽きろ」と言われる。そんなわけで大学には、「燃え尽きていますから、もう火はつきません」と断ったところ、「あなたの卒業した学科は少子化と製造業の不振で、一昔前の40倍の倍率が半分以下になっていて、もっと下がったら危ないですよ」と迫られた。「私のせいでは」と言いたいところだったが、「危ない!」と言われると「ムラムラ」っときて、と言うのも、私のホンダ人生の中で3回はそんな時期があり、その度に悪戦苦闘して乗り越えてきた経緯もあり血が騒いだのである。
結局引き受けることになり、その後いろいろと調べて分かったのだが、その頃までの数年、受験者数、倍率とも激減する方向にあった。これはえらいことを引き受けてしまったと思った時は後の祭り。それこそ1年間は針の筵の上で、厳しい現状をいろいろと調べたり、その拠って来たるところを探ったりと、日々の対応に追われながら、半年を目途に対策案の作成にとりかかった。

Ⅰ 企業から教育の場へ-1.立命館大学へ

10年ほど前、私がホンダ四輪の商品担役員であったころ早稲田大学商学部で、企業の寄付講座として「商品(クルマ)つくり‐デザインの側面から‐」というテーマで話をした。  
のちにそれが「自動車産業のグローバル戦略‐挑戦から共生へ‐」として共著のかたちで出版され、その本を読んだ立命館大学経営学部の教授が、(社)日本能率協会の編集員とともに「デザイン・マネジメント」について聞きたいと訪ねてきた。マネジメントの研究者間では「いよいよ次はデザインだ」との認識だという。
バブル経済崩壊後苦境にあったホンダが、オデッセイをはじめとするRV車で立ち直りの兆しが見えてきた頃であった。
私は自動車産業に参入したばかりのホンダに入社し、以来30数年、自動車のデザインや商品開発のなかで本田宗一郎の薫陶を受け「モノつくり」を学んだ。 
そこで得たデザイン力で、ホンダの奇跡的復活に貢献できた喜びや、苦しくも楽しかった経緯などを熱っぽく語った。
間もなく定年退職という頃、くだんの教授から立命館大学の客員教授にとの要請があった。
立命館大学にデザイン学部ができたのかと聞いたところ、そうではなく、経営学部で経営にとって商品が如何に重要か、どのようにしてつくり出されるものなのかを、経営者の卵に教えてやってもらいたいという。私は、現場での実体験を話すので良いなら、という条件で引き受けることに。
定年間際までは思いもよらなかった新たな人生が始まった。もちろん、月に何回か京都に通うのも悪くないなという気持がなかった訳ではない。

はじめに

21世紀に入り、ここにきて日本の経済に多少の明るさは見られるものの、80年代終盤までの経済急成長下で進んだ「モノ溢れ」、その結果90年代に生じた「モノ離れ」やデフレ現象により、日本人の多くが、まだまだモノつくりに対する自信を取り戻せていない。
かく言う私でさえ、これまで自信を持ってモノづくりをしてきたかと聞かれると、いささか心もとないところがある。
がしかし、「自信」とは自らを信じることだと自分に言い聞かせ、つねに自問自答しながらモノつくりに励んだ30数年であった。
こうした実体験をもとに、ホンダの創業者・本田宗一郎がつくり上げた「デザインオリエンテッド」な企業経営のあり方を、薫陶を受けたひとりとして体系を立てて示すことで、モノつくりや企業経営を志す若い人たちにデザインの重要さを伝えていきたいと思う。
私のモノづくり人生は「かたちはこころ」という言葉に集約される。30代の後半、新しいデザインを生み出す苦しみの中から見いだした言葉である。
これについては後にあらためて述べたい。
企業を離れ、デザイン教育の場に身をおいて6年が経つ。牛歩のごとくというか、切歯扼腕の感は無くもないが、2003年、政府から出された製造基盤白書にも、デザインの重要性が強く謳われているのは心強い。
この6年間を振り返り、感じたことやってきたことを述べることで、これからの日本のモノづくり、ことにデザインを担い牽引していく人たちや、教育の場で日々の改革に携わっている方々のお役に立てばと念じている。


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