様々な制度や方法論が行き詰っている。やみくもに前に進んでいればそれなりにつじつまが合う時代は過ぎ去った。
時代は「編集」を求めている。
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A■編定(縮めて伝える) 編定・要約・凝縮・翻訳・結合 I■境界(区切りを変える) 境界・場面
B■原型(型にして見る) 原型・模型・適合・列挙・配置・意匠・装飾・図解 J■周期(リズムをつける) 周期・曲節
C■順番(繋げて較べる) 順番・規則・交換・競合・比較・共鳴 K■諧謔(おおげさにする) 歪曲・不調・輪郭・諧謔
D■暗示(含みを持たせる) 暗示・相似・擬態・象徴 L■形態(構造を見つける) 構造・形態・生態
E■引用(盗んで補う) 比喩・推理・引用・例示・補償 M■劇化(物語で遊ぶ) 筋道・脚本・劇化・遊戯
F■注釈(付け加える) 注釈・付加・削除・拉致・保留・代行 N■綜合(みんなまとめる) 総合・創造
G■模擬(測って調べる) 模擬・測度・強調・変容 △■編集思考素

2006年11月30日

Ⅱ 教育の現場から-39.プノンペン雑感

日本政策投資銀行での講演が縁で、JICAからカンボジアでの講演依頼がきた。日本政府が支援して、プノンペン王立大学の敷地内にできた技術支援センターの開所式で、記念講演を引き受ける。
カンボジアではホンダの知名度が高く、ことに、大戦後の荒廃の中から、世界のホンダをつくり上げた創業者・本田宗一郎の人気が高いことから、今回のことに繋がったようだ。
首都プノンペンのメコン河を見下ろす白亜のホテルにチェックインした。街は、裸足の人が歩いているかと思うと、メルセデスやランドクルーザーなどの高級車を乗り回すお金持ち、さながら日本の、敗戦直後と現在が混在しているような不思議な光景だった。
その夜は、通訳の女性との打ち合わせになった。彼女は、こちらの大学に留学し、卒業後もそのまま勉強を続けている。聞けば、初代シビックの発売した年に生まれたという。外国の地で、立派に自立している日本女性を見た。
初日は、フーセン首相の挨拶、続いてマハティール前マレーシア首相の講演。会場には、大勢の政財界や教育関係の人たちが、出来上がったばかりの定員500名というセンターの大ホールを埋めた。マハティール氏はスピーチの中で、マレーシアの驚異的な復興の手本は日本であったと。そして特にソニーやホンダを事例に、目標を高くして挑戦することの大事さを力説した。
次の日は私の記念講演。この日は、大学生の参加も多く立ち見の人も。ホンダのブランドの凄さに驚かされる。カンボジアの若者たちの質問攻めで、熱気のあるレクチャーとなり、彼らからエネルギーをもらった。
それにしても、聴衆はほとんどが若い人。後で聞いてみると、ポルポト政権の下、働き盛りの大勢の人たちが、死に追いやられるか精神的なダメージを受けたからだという。私の話を聞き入る、若者たちの明るい顔やきらきらした目からは想像し難い。
 今回の成功は、JICA,CJCCの方々の周到な準備のお陰と言ってよい。多くの日本の若者が外国支援で頑張っているのに驚く。特に、英語やカンボジア語を駆使しての、若い女性の活躍には圧倒された。それにまた、定年後はNPOに身を置き、これまでに培った知識や技術を活かし、支援活動に精を出している何人もの元企業戦士に出会い元気をもらった。これからも頑張れそうだ。

2006年11月23日

Ⅱ 教育の現場から-38.さらば立命館

2006年3月、立命館大学の客員教授を退任することになった。ホンダを定年退職した次の春、‘00年4月に就任し、あっという間の6年間で、気がついたら私も66歳になっていた。よくもまあこんなに長く努められたものだと、われながら感心している。お蔭さまで少々、京都通にもなったようだ。
週一回の新幹線・東京~京都往復は、年を重ねるごとに、だんだんきつく感じるようになっていた。が、得るものも多かった。個性的で素晴らしい先生方に出会うことができたし、学生たちも清々しく元気だった。そしてなによりも、大学そのものが活き活きとして、夢に向かって走っている感じがした。
最初の年は草津にある学部の3、4年次を担当し、続いて院生が加わり、淀屋橋の専門職大学院の立ち上がりに参画、最後の年は、草津校、淀屋橋校合同のMOTにも関わった。いずれの学生たちも、それぞれ熱心に私の講義を聴いてくれた。が、私の印象では、一度社会に出て、仕事を経験している専門職大学院の学生の反応が一番よかったように思う。職業はさまざまであったが、私の話を自分たちの体験に照らして、自分たちなりに役立ててくれることだろう。
BKCといわれる琵琶湖草津キャンパスは、東京から新幹線で京都まで行き、在来線で大津の方に20分ほど戻った南草津駅近くにある。広大な敷地は国から譲り受けたと聞くが、目を見張る規模。経営者がビジョンを持ち、目的・目標を明確にし、それをみんなで共有してことにあたれば、こういうこともできるのだと教えられた。
この秋、白川 静さんが亡くなられた。立命館大で学び、その後母校で教鞭を執られた漢字研究の大家である。哲学者・梅原 猛さんがその死を悼んで、「大変な勉強家で、普段は子煩悩な優しい人、真に男気のある硬骨漢をなくした」と日経紙面で語っていた。梅原 猛さんも確か、この大学で教授をされていたと記憶する。気骨ある進取の気性が、今もこの大学に生きているようだ。

2006年11月17日

Ⅱ 教育の現場から-37.定員1.5倍に

2005年秋、待ちに待った文科省の認可が下りた。生産デザイン学科プロダクトデザイン専攻は、定員を30名から1.5倍の45名に増やすことができたのである。’02年に始めた5カ年計画の中で、入試倍率を維持しながら、定員倍増を標榜して3年半が過していた。
立案当時、「もう拡大志向の時代ではない」「絵に描いた餅」などと、揶揄されながらの船出であったことを考えると、夢のようだ。予算のない中での、予備校廻りや科のカタログづくり、施設・設備の改善工夫や学外発表の機会さがし、すべて、額に汗し足で稼いだ成果である。
定員を増やすには教室を大きくする必要がある。結局、教室はかなり離れたところに、講評会用として一つと講義用として全学科共用のものを一つ、あちこちに頭を下げて調達した。一年間は不便を覚悟するしかないと心に決めた。
知恵を絞ってつくった大部屋研究室(先生全員が相部屋)も、隣にあるコンピュータ室の拡大のためスペースを削る。研究室が小さくなった上に、若手教員を一人増やしたので、私の席はなくなってしまった。可哀相だと言って若い教授は、椅子だけでもと、カーデザイナーのジュージアーロがデザインしたという先進的な椅子を買ってくれた。ありがたかったが貧乏性の私には、どうにもお尻が落ち着かないでいる。
教室が1.5倍の広さになったのは、学生たちには一目瞭然だった。1年生は一人当たりの面積は変わらなかったが、2~3年生のそれはかなりゆったり感じられ、学生たちの喜ぶところとなった。それもあって、3年生の編入、転部、転科も無理なく実施することができた。多くの希望者が殺到したが、厳選の上3人に絞った。何故か全員が女子学生である。
定員を増やすことでの一番の苦労は、「水割り」にならないようにすること。常に中身を濃くしながら、味を良くしながらの増員を心がけてきた。むしろ、中身を濃くすることを優先させてきつもりだ。予備校廻りや、カリキュラムの充実が効果を発揮した。このあと、目標である定員2倍の実現には、プロダクトデザインの領域拡大が鍵となろう。

2006年11月09日

Ⅱ 教育の現場から-37.「美」をつくる

美術大学は、芸術大学にあるような歌舞音曲の分野をもたない。広辞苑によると、芸術であれ美術であれ「美的価値の創造」が目的とある。デザインはどうかというと、わが多摩美では、絵画、彫刻とともに美術学部に属す。従ってデザインも、「美の追求」が第一目的と言ってよい。総合大学の工学部に属するデザインとは、そこが違うのである。
清少納言の「枕草子」に、「小さきものは美しき」とある。この「美しき」は「可愛い」と同義語。日本人は古来より、「小さいもの」「美しいもの」「可愛いもの」を同じ意味合いとして扱ってきた。「いまの若者は、なんでもかんでも可愛いと言って片付ける。まったくボキャブラリーが…」と大人どもは嘆くが、存外彼らは、日本人らしい美意識のDNAをしっかり受け継いでいるようだ。
私のデザインした初代シビックを見て、「かわいい、かわいい」と言ってくれたのも、「小さくて、可愛いくて、美しい」と感じてくれたからだろうと、手前勝手に喜んでいる。小さいものを美しいとした先人のお陰だ。
ある日の授業で、「美しい」の定義付けを試みた。そこでまず、彼らがよく使う「美しい」「綺麗」「可愛い」の違いについて議論をする。3つの言葉に多少の違いは認めるものの、明確にその差異を定義できない。そこで「美しい人」「綺麗な人」「可愛い人」を、誰かに例えて名前を挙げてみることにした。結果、乱暴なまとめ方だが、「美しい人」はお母さん、吉永小百合。「綺麗な人」は彼女、小雪。「可愛い人」は赤ちゃん、上戸 彩となる。けっこう彼ら、当を得ていると思った。
「美」は羊が大きいと書く。多いことでもある。中国の人にとって、羊は美味で、大きくて多いと心が満たされたのであろう。「綺麗」は布(きれ)から来ている。糸が織られ綾をなし人の目を楽しませる。「可愛い」は愛すべき人のことで、本来はお年寄りを指し、そのうち幼児を指すようになり、同様に感じる花や動物にも及ぶようになる。「美しい」をつくるには、時間と努力が必要なのだ。

2006年11月03日

Ⅱ 教育の現場から-36.シビックが来た!

2005年10月15日、多摩美術大学は創立70周年を迎えた。私より4年先輩にあたる。多摩帝国美術学校として、図案家・杉浦緋水らが中心なり、東京都世田谷区上野毛の地に創設された。そして1953年、多摩美術大学となり、男女共学の私立としては最初の美大となった。
記念行事としてさまざまな企画が用意され、中でも、グラフィック学科卒である竹中直人のトーク&ライブ+映画「さよならCOLOR」の上映、日本画専攻卒のユーミンこと荒井由美のイベントはとりわけ出色である。プロダクトデザイン専攻でも何か面白い企画を、ということになった。
ユーミンや竹中直人と張り合っても勝ち目はない。科内での議論の挙句、卒業生のプロダクツ(製品)を、デザイン棟内のギャラリーで展示してはどうかという案が採択される。が、何十年も前のモノが、良い状態で保存されているかどうか。みんなが心配する中、若手教授が「初代シビックを借りて来よう」と言い出した。
そんなの無理だよと言ったら、私に任せてくださいと彼は、早速ホンダにいる多摩美の先輩(私にとっては後輩)に電話を入れた。どっちみち駄目だと思っていたら、たまたま偶然にもその頃、日本を巡回している「本田宗一郎・井深 大」展に出している初代シビックが東京に戻ってきて、2~3日なら使えそうだという吉報が入った。
初代シビックがきた! 30年余り前の、自分の若い頃の仕事にどんな評価が出されるのか、いささか心配であった。トラックから下ろす頃から、噂を聞いた学生たちが集まってきて、口々に「かわいい、かわいい」と。デザインした当人としては照れくさい限りであったが、「かわいい」という褒め言葉が嬉しかった。
美大生ユーミンがキャンパス中央の広場に現れた。彼女は降りしきる雨の中で、高価な音響機材を心配する事務局をよそに、歌った。みんなはそれを、雨も拭わずに聞き入った。「ルージュ伝言」、…そして「卒業写真」が始まると、みんな泣いた。雨か涙か分からないくらいに。現役も、ユーミンの同窓も、団塊の世代も、そしてわれわれ全学連仲間も、それぞれにみな、青春の真っ只中にいた。


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