様々な制度や方法論が行き詰っている。やみくもに前に進んでいればそれなりにつじつまが合う時代は過ぎ去った。
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2007年11月29日

Ⅲ かたちはこころ-本田宗一郎がくれた千字薬-第47話.「道」

名神高速道路開通30周年記念行事の一つ、「ヒューマン・ロード・フォーラム’93」のパネラーとして招かれた。30年前、名神が開通した日と全く同月同日の7月16日。もう一人のパネラーは奇遇にも、こちらも丁度30年前のその頃、私が車づくりの世界へ足を踏み入れるきっかけをつくってくれた小林彰太郎氏である。
小林さんは当時、自動車の評論にかけては超一級の存在。車づくりを志すものにとって、その高い見識はもとより、車への情熱とロマンが綴られたモーター誌の文面に接するだけで、胸を熱くしたものだった。
その1963年と言えば、私は大学4年生、東京の自由が丘で下宿生活をしていた。念願のホンダへの就職も決まり、今流に言うとルンルンの毎日。憧れのホンダはというと、鈴鹿サーキットを開設し、満を持して自動車事業への参入を発表した年である。東京オリンピックを次の年に控えていた。
日本の乗用車保有台数は100万台を突破。第1回日本グランプリレースが、オープンしたばかりの鈴鹿サーキットで華々しく開催された。そんな頃名神が開通したのである。当時のエピソードにこんな話がある。
日本の自動車メーカーは、各社一斉に名神を使って高速走行テストを開始。が、ほとんどの車が途中でエンコをしてしまったようだ。車について良く知っているうるさ方は、これを「日本性能」と呼んで冷やかしたという。その点オートバイの方は立派で、全車が見事完走し、さすがは「国際性能」と言ってもらえたそうだ。マン島レースを始め国際レースで鍛えられてきたからだいう。
その後、自動車メーカーの不眠不休の戦いが始まり、名神はさながら、草創期における日本の自動車各社のテストコースとも言える役割を果たした。そして半年後、全ての車が完走できるようになった。
鈴鹿サーキットをつくるに当たっては、社内に反対意見もあり、すんなりとはいかなかったらしいが、そんな中で本田さんは、「レースをしなけりゃ車はよくならん。観衆の目前でしのぎを削るレースこそ世界一になる道だ」と言って説得されたそうだ。
こうして出来た鈴鹿サーキットについて、小林さんは当時を回想してある雑誌に、「鈴鹿サーキットが生まれなかったから、今日のように盛んな日本のモーター・スポーツはなかったのはもちろん、日本の自動車工業自身が今日のような質・量と地位を獲得できたかどうか、はなはだ疑問と言わざるを得ない」、と書かれていた。

2007年11月24日

Ⅲ かたちはこころ-本田宗一郎がくれた千字薬-第46話.「スポーツカーか高級車か」

久しぶりに、本田さんがデザイン室を覗かれた。「これを見るのが目の保養、お陰で楽しませてもらっている。これが元気のもとだよ」と、とても80才を越えた方とは思えない。興味はなんと言っても高級車レジェンドである。
「上手くつくるようになったなあ」と褒めてもらってその気になっていたら、「まだ、私なら買わないねえ」と手厳しい。この頃丁度、レジェンドのモデルチェンジと並行して、本格スポーツカーのデザイン作業が始まっていた。が、こちらは全く見向きもされなかった。
終始にこやかに、若い連中を労い冗談を飛ばしたりながらモデルを眺めていた本田さんは、「さて、これでまた元気をもらった。どうもありがとう」と言ったあと思い出したように、「経営者じゃないから、こんなことを言う立場じゃないが」と念押しされ、「高くて何台も売れないスポーツカーでは会社が潰れる。高級乗用車がたくさん売れた方がよい。レジェンドをいい車にすることが先だね」と。
その後、本格スポーツカーの開発が完了し、そろそろ研究所の手を放れるという頃、本田さんに栃木のテストコースで試乗をしてもらうことになる。「わたしゃ年だから家内に免許を取り上げられてね。外(一般道)じゃ乗れないんだ」と笑いながら、屋根が低く若い者でも乗り込みにくい運転席に座られた。
しばらくは感慨深げにハンドルを撫でておられたが、隣に座る若い走行テスト担当の「どうぞ」の声にアクセルを。本田さんの操縦するスポーツカーは、快音を残して小さくなった。25年前、真っ赤なS500に乗り手を振っている本田さんの写真に出会って、入社を決意した時の思い出が重なり、遠ざかってゆく車がにじんで見えた。
このスポーツカーは、1年後ホンダ「NSX」という名で世に出た。発売当初は、折しもバブル絶頂期(いや、すでに翳りが見えていた)で受注が殺到し、1000万円に近い車の販売が、月に1000台を超えた。日産25台の手作りラインもフル稼働。ついに増産に踏み切り、本田さんの心配も外れたかと一瞬思えた。
しかしよく注視すると、投機的な買った人たちが多く、気を付けなければと思っていた矢先、バブルが崩壊した。受注の激減に生産対応はおおわらわ。私は4輪企画室長として、しばらくはその対応に追われることになる。
やはり本田さんの先見どおりだったかと。「レジェンドを良くすることが先」との言葉が耳に痛く残った。

2007年11月15日

Ⅲ かたちはこころ-本田宗一郎がくれた千字薬-第45話.「身体が動けば心が動く」

「岡本太郎は、芸術は爆発だと言ってるが、だったらデザインは感動だな」と本田さんが。そしてすぐ厳しい顔で、「やってる者が感動できないモノを、人が感動できると思うか」と。「ホンダレジェンド」の最初のフルモデルチェンジ作業が進んでいた。
初代レジェンドの開発時は、外国との共同作業や未知領域への挑戦で、何をやっても刺激的だった。ところが今回は何となく醒めていて、なんだか他人事のような仕事ぶりになっている。データをもとに、このクラスのお客さんの嗜好はこれこれで、したがってこうすべきだなどと、頭で解かった気になっていたようだ。
以来、「感動」という言葉が心に残った。モノをつくる時、「お客さんの気持ちになれ」とよく言われる。「お客さんと一心同体になれ」ということだ。観阿弥が「一座建立」とする演者と観客の息があった様や、舞台で見せた初代水谷八重子の「成り切る」演技の中に感動を見る。
「感動」とは「心」が動くこと、自分から相手に「心」を動かすことである。「動物」はその名の通り、動きまわる生き物である。とりわけ人間は、自らの目的と意志をもって動きまわり、未知の人や物や物事に出会うことができる。
今はテレビや新聞などで、多くの情報がいながらにして手に入り、あたかも実際に体験したような気分になれるが、これらは疑似的な体験にすぎない。見たり聞いたりした体験は、テレビや新聞で知ったことの何倍もの感動を呼び起こすはずだ。当たり前のことだが、「身体」が動けば必ず「心」も動く。感動したければ身体を動かせばよい。
「百聞は一見にしかず」のごとく、庶民の旅行が難しかった江戸時代でさえ、人々は競って「お伊勢参り」に出かけた。「旅は道連れ、世は情け」のように、旅が人々の心を豊かにし、未知の土地での見聞が新たな感動を生み、知らず知らずのうちに江戸の文化を育んだ。
「心」は「知、情、意」で表される。「知」とは何かに出会い、「情」とはそれによって心を動かし、「意」とは心に決めることであるという。この知、情、意の心の動きこそが「感動」であり、この「動き」を、たくさん経験した人ほど心が豊かだと言われている。
名古屋国際デザイン会議で、「デザインで一番大切なことを一言で」と聞かれ、「?!」と答えた。そして、「何事にもつねに不思議がる(?)心を持って、それがわかった(!)ときは素直に感動する、これが一番大切なことです」と。

2007年11月08日

Ⅲ かたちはこころ-本田宗一郎がくれた千字薬-第44話.「長崎の出島」

ある日、「この辺りを走ってる車、みんな白いね。東京の真ん中で走ってるのは、みな黒いぞ。君たち分かってんのか」と本田さんが強い口調で。「この辺り」とは、デザイン室がある埼玉県和光市、川越街道を1キロも上れば東京という人も羨む場所。しばらく考えてから、そうかと気づいた。白い車とは大衆車か商用車、黒い車とは高級車かハイヤーだと。
軽自動車からアコードに至る今日まで、トントン拍子でやってきた。が、その上のクラスになると、初代「ホンダレジェンド」はアメリカでは成功したが日本では今一つ。ホンダが得意とする「走りや燃費」や「スポーティーなスタイル」では、どうも日本のこのクラスのお客さんには難しいようだ。
販売の人に聞くと、外観は「貫禄がない」、内装は「高級感が足りない」と決まり文句で耳にタコが出来るほど。努力はしているものの期待には応えていない。私は入社以来、渋谷の自宅マンションから研究所のある和光市まで通勤している。が、本田さんのような観察を一度もしたことがない。
最近各社こぞって「東京デザイン室」との計画を、特に後楽園にあるT社の巨大ビルは刺激的だ。それにこのところ元気な銀座にあるN社の本社ビルも、我々にとっては羨ましい存在であった。 
かつてオートバイメーカーが群雄割拠している時代に、本田さんはいち早く東京に進出し、そこから世界に羽ばたき、ついに「世界一」の座を。今日また自動車でも同じ様相が見える。
相談の結果、できて間もない青山の本社内にデザイン室をとの案が出た。早速、本田さんにその話を申し上げたら、「一度銀座に車で行って、一日過ごしてこい」と一笑に付された。
すぐ実践をと黒い車を手配。本田さん気取りで懸命に外を眺める。言われた通り和光市から銀座に向かう道中、車は白から黒に変わってゆく。人の数に服装に歩き方、ホテルの華やかさやオフィス街の活気、駐車場にある車の種類、どれをとっても「黒い車」に象徴されていた。
「銀座はしょっちゅう行っているのに」と脂汗が出る思いの一日。デザイナーにとって一番大事な「感度」を問われたのだ。まずはと言うことで、銀座にある超一流と言われるホテルの一室を借りて活動を開始。
それから2カ月後、銀座に近いビルの一室を借り、デザインの東京分室が誕生する。私はこれを「長崎の出島」となぞった。明治維新のエネルギーは、鎖国の中にあって、長崎の地で醸造されたと思うからだ。

2007年11月02日

Ⅲ かたちはこころ-本田宗一郎がくれた千字薬-第43話.「富士山」

「日本人は、どうして富士山が好きなんだろうね」と本田さん。咄嗟のことに「美しいからだと思います」と。「どうして美しいんだい」と聞かれ答えに窮した。2代目「ホンダレジェンド」の開発に着手した頃のことである。
小さい頃から、富士山の絵を随分と描いてきた。三輪山の優しい姿も大好きだが、富士山の厳とした美しさは年を重ねるほどに好きになった。美しい理由の一つは、「対称形」にある。それに、噴火という自然の力がつくった稜線の「放物線」、さらには飛び抜けて、「高く」、「目立つ」ことだ。
北斎をはじめ、時代を代表する一流の画家が惹かれたのもその辺にあろう。加えて、その変化の見事さにある。春夏秋冬、朝な夕な、雪月花、飽きることがない。本州の真ん中にあって百里離れた先からも眺められる。もっと凄いのは、「不二」と言いながら日本中に、おらが国のいろんな「富士」が一杯あることだ。
大戦後、西洋から見た日本のイメージは「ふじやま、芸者」であった。国際的でもある。こんな車が出来たらいいなと、本田さんはそういう気持ちで問いかけられたのだろうか。
「対称形」と言えば、「富士山」も「美」という字もそうである。「日月」も「木火土金水」も。日本人にとって大切なものに「対称形」が多い。対称形は見えない正中線を内在し、天と地を結ぶことで神々の降臨を予感させ、一種の安心感をも与えてくれる。
また、その正中線を軸に対称に描かれる放物線は、強さと美しさの現成と言えよう。それも力まかせではなく、しなやかな強さ芯の強さである。例えば、竹のしなりや城の石垣の稜線、私は最近、これらの要素が人の身体に似ているような気がしてならない。
「対称形」は言うに及ばず、身体の造りは、胴、腕、小手先、手先、指先と、まるで竹のようで、先へ行くほどに細く短くなる。水泳や体操の選手が鍛錬された動きの中、美しい「放物線」をつくる人ほど強いと言われる。それにまた、大きいとか強いとかは誰もが憧れるところだ。
北斎の絶筆は富士を超えて天に上る龍の絵である。彼は「富士」を「不二」と呼び、その気高い美しさを終生の目標としていた。「不二」とは「二つとない」という意味、「独自性」ということだ。日本人の富士山に込める想いは、こんなところにあるのではないか。私自身も富士の姿に憧れ、このようになりたい、そんな造形をしたいと想って久しい。これからもずっと、その想いは変わるまい。


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