Ⅲ かたちはこころ-本田宗一郎がくれた千字薬-第47話.「道」
名神高速道路開通30周年記念行事の一つ、「ヒューマン・ロード・フォーラム’93」のパネラーとして招かれた。30年前、名神が開通した日と全く同月同日の7月16日。もう一人のパネラーは奇遇にも、こちらも丁度30年前のその頃、私が車づくりの世界へ足を踏み入れるきっかけをつくってくれた小林彰太郎氏である。
小林さんは当時、自動車の評論にかけては超一級の存在。車づくりを志すものにとって、その高い見識はもとより、車への情熱とロマンが綴られたモーター誌の文面に接するだけで、胸を熱くしたものだった。
その1963年と言えば、私は大学4年生、東京の自由が丘で下宿生活をしていた。念願のホンダへの就職も決まり、今流に言うとルンルンの毎日。憧れのホンダはというと、鈴鹿サーキットを開設し、満を持して自動車事業への参入を発表した年である。東京オリンピックを次の年に控えていた。
日本の乗用車保有台数は100万台を突破。第1回日本グランプリレースが、オープンしたばかりの鈴鹿サーキットで華々しく開催された。そんな頃名神が開通したのである。当時のエピソードにこんな話がある。
日本の自動車メーカーは、各社一斉に名神を使って高速走行テストを開始。が、ほとんどの車が途中でエンコをしてしまったようだ。車について良く知っているうるさ方は、これを「日本性能」と呼んで冷やかしたという。その点オートバイの方は立派で、全車が見事完走し、さすがは「国際性能」と言ってもらえたそうだ。マン島レースを始め国際レースで鍛えられてきたからだいう。
その後、自動車メーカーの不眠不休の戦いが始まり、名神はさながら、草創期における日本の自動車各社のテストコースとも言える役割を果たした。そして半年後、全ての車が完走できるようになった。
鈴鹿サーキットをつくるに当たっては、社内に反対意見もあり、すんなりとはいかなかったらしいが、そんな中で本田さんは、「レースをしなけりゃ車はよくならん。観衆の目前でしのぎを削るレースこそ世界一になる道だ」と言って説得されたそうだ。
こうして出来た鈴鹿サーキットについて、小林さんは当時を回想してある雑誌に、「鈴鹿サーキットが生まれなかったから、今日のように盛んな日本のモーター・スポーツはなかったのはもちろん、日本の自動車工業自身が今日のような質・量と地位を獲得できたかどうか、はなはだ疑問と言わざるを得ない」、と書かれていた。






