様々な制度や方法論が行き詰っている。やみくもに前に進んでいればそれなりにつじつまが合う時代は過ぎ去った。
時代は「編集」を求めている。
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C■順番(繋げて較べる) 順番・規則・交換・競合・比較・共鳴 K■諧謔(おおげさにする) 歪曲・不調・輪郭・諧謔
D■暗示(含みを持たせる) 暗示・相似・擬態・象徴 L■形態(構造を見つける) 構造・形態・生態
E■引用(盗んで補う) 比喩・推理・引用・例示・補償 M■劇化(物語で遊ぶ) 筋道・脚本・劇化・遊戯
F■注釈(付け加える) 注釈・付加・削除・拉致・保留・代行 N■綜合(みんなまとめる) 総合・創造
G■模擬(測って調べる) 模擬・測度・強調・変容 △■編集思考素

2010年06月25日

Ⅵ ホンダとともに                      第24話.時には振り返れ

「人間、困った時には振り返ることだよ、私も昔、藤澤さん(本田社長時代の副社長)からそう言われて勉強したことがある。品質問題で頭を抱えている時だったけどね。お陰で今があると思っているよ」と本田技研社長から。
4代目のアコードシリーズの開発がほぼ目途がついてきたものの、「これから先をどうする」と言われても、全く五里霧中という状況下にあった。ただ、このままの拡大は望めないだろうとの予測は容易につく。
前ばかり向いてここまできたが、一度立ち止まって、これまで自動車が辿ってきた道を勉強する良い機会かもと思い立つ。私なりに勉強を積んできた諸々を、過去から辿って整理してみる。
自動車の歴史は、馬車が馬から解き放たれ自らの足をもつことから始まる。馬に代わったのは産業革命を推進した蒸気機関、今から2世紀余り前のことであった。その後、約一世紀を経て、ダイムラーのガソリン機関は大きく自動車を進化させ、「馬なし馬車」と呼ばれる時代を迎える。20世紀に入り、貴族や大富豪たちの富と権力の象徴としてより豪華な車づくりへと進んだ。
この流れに、革命的とも言える変化をもたらしたのがT 型フォード。大量生産技術を背景に「ワンモデルポリシー」を掲げ、虚飾を廃し、実用主義に徹して、18年もの間アメリカ人の足として君臨した。
これに立ち向かったのがGMのシボレー。豊富なカラーやモデルバリエーションなどスタイリングの重視、大量生産と製品バラエティを両立させるシステムづくりで市場を席巻した。
第一次世界大戦は航空機を発達させ、これが自動車のデザインに大きな影響を与えて、馬車時代の様式と航空機からの新技術が見事に共生する「ビンテージの時代」の幕開けとなる。こうした趣味的高級車も経済恐慌という歴史の波にのみ込まれ、衰退が加速し「流線形時代」へと移ってゆく。
馬車時代の四角い箱から丸い水滴形への変化であり、アメリカがこの流れを新しいスタイルとして捉え、イタリアのカロッツェリアは積極的空力思想によって、形態をより単純化する進歩的スタイルを生みだす。このころ、やっと日本で自動車の生産が開始されたのである。
第二次世界大戦後、アメリカはその豊かさを背景に、より大きく、より快適に、よりスタイリッシュへと車の姿を大きく変え、50~60年代の黄金期を迎える。私が学生時代に、自動車のデザイナーになろうと憧れたのには、これらの車の影響が大きい。

2010年06月18日

Ⅵ ホンダとともに                      第23話.「隠し腹」

料亭「新玉」の会議から4年近くの時を経て、「栃木研究室」は「栃木センター」に大きく発展し、名実ともに3000人近い所員を抱える堂々とした研究所となる。いよいよデザイン室をどうするかという段階になっていた。
私は研究所常務として、デザインと商品戦略を担当し、4代目「ホンダアコード」の、企画とデザイン作業にとりかろうとしている頃である。
4輪研究所の、栃木への前面移転について室員に投げかけてみたが、誰一人、栃木に行こうとは言ってくれない。と言うより、みんなは私の心を見透かしていて、「銅像を建てますから、ここで」と迫られてしまう始末。しかし私としては、四輪担当の所員8割が移転を終えた中、もう年貢の納めどきだと覚悟を決めていた。
何かトップへの説得材料がないかと考えた挙げ句、大きな関東地方の地図を壁に貼って、室員それぞれが住んでいるところに「待ち針」を刺してもらうことにした。予想を違えて、都下を含めて東京都に刺した針は100人近い室員の中で、私を含めてほんの数本だった。
東京都に住んでいる室員が半数は超えていると思っていたのに、それも川越より北に住んでいる室員のなんと多いことか。こんな調子では揚げ足を取られるのがおちで、この手でお願いなどできないなと覚悟をする。
4年前、料亭「新玉」の会議で、国際空港をつくってもらえれば栃木に行っても良いなどとでかいことを言った手前もあり、「ままよ、自然体で」と思っていたら、「僕も一緒に」と研究所副社長が。100万の味方を得た思いだった。
副社長とともに、本田技研社長(4年前は研究所社長)ところに出向き、「ここ(和光市)でやらせて下さい」とお願いをする。
「どうしてだよ」と聞かれた。「自信ありません」「何故だ」と問答が続く。「私は27年ずっと東京に住んでいます。そして、社長に世界一になれと言われて、ここ(和光研究所)で、それを実現しました。ですから…」と、お願い半分脅し半分である。
社長は暫く腕組みのままだったが、「ところで、『隠し腹』をして来てるんだろうな」と。「はい」と答えた。話はそれだけで、デザイン室が和光にとどまることが決まった。「良かったね」と副社長。その後、社長にはますます頭が上がらなくなった。
それにしても、その後、私の銅像は建った話は聞かない。ちなみに隠し腹とは、江戸時代、お上に無理な頼み事をする時、すでに腹を切り、その上にさらしを巻いて臨むことを言う。

2010年06月10日

Ⅵ ホンダとともに                      第22話.幻の栃木デザイン室

和光研究所から北へ数キロほど行くと、武蔵野の面影を残す雑木林の中に平林寺という禅寺があり、その庭を借景にした「新玉」という料亭がある。同年輩の一家言ありそうな昨日ブロックを代表する連中10人余りが集められた。
3代目「ホンダシビック」シリーズの成功で元気いっぱいの頃('83)である。真昼間だから宴会ではない。昔から、頭を切り替えたり、新しい玉(技術の種)を生み出すためによくここが使われた。
が、今回はちょっと様子が違う。本当のところは、昼に出る鰻重が旨いので、文句を言わずはせ参じていたのである。見渡すと、各機能ブロックの主だったメンバーが集められているようだ。
招集方の管理室長から、研究所社長からだという主旨説明が始まった。「研究所を、栃木に移転したいという話は知っての通り。しかし、この件に関して、反対者が多いのは心得ている。特に今日集まってもらったみなさんは、その急先鋒であることも、百も承知である」、とかぶせてきた。
そして、「もし、ここにいるみなさんが喜んで行ってやると言ってくれれば、研究所全員、揃って行ってもらうことも可能だろう。なかでも、デザイン部隊が行くと言えば申し分ないところだ」と言って私の方を睨んだ。
急に優しそうな顔になって、「そこで相談だが、みなさん自身、『何』があれば行ってやっても良いと思うのか、一つだけ、遠慮のないところを言ってくれ。では、一人ずつ順番に」とのことであった。
設計部やテスト部隊からは、いろいろと意見がでた。例えば、作業スペースや設備の充実、生活や育児環境の保障など、おしなべて文化的、知的環境の充実に対する期待が大きい。ついに私のところに廻ってきた。
私は、デザインを東京から離れたところでやるのは難しい。しばらくの間は良いとして、そのうちに郷に入るのが。おちだどんなことがあっても行きたくないし、行くべきでないと思っている。だから、叱られるのを承知で、「国際空港をつくって下さい」と言ってみた。
これにはみんな驚いた様子。大いに反響があり、全員が「また、あいつか」という感じで私を見る。集められたメンバーは、この会議が終わると自動的に、研究所を栃木に移転させるための諮問委員になる予定だったらしい。
が、次の会議からは、私だけ呼ばれなくなっていた。のちに、管理室長から聞いた話では、社長に報告したら「ふーん」と言われたきり、コメントはなかったと言う。

2010年06月04日

Ⅵ ホンダとともに                      第21話.キュービックデザイン

2代目「ホンダアクティ」のデザインが急ピッチで進んでいた。初代アクティの数年間の販売を通じ、全国津々浦々の、さまざまな使い勝手に関するデータや要望事項が手元に集まっている。
居住性に関しては、限られた寸法の中で、誰もがびっくりするほどの広いスペースをつくり上げることを目標に、四隅のピラーは思いっ切り外に出した。足元を広く取るためにフロントパネル(ボディの前面)を20ミリ前に、併せて、足の出し入れにはドアシール(開口部)前部をできるだけ前方に出す。
乗り降り性では、牛乳配達の作業動作を徹底的に調べ、結果を反映した。また女性が楽に乗り降りできるようシートハイトを1ミリでも下げる努力をする。頭の抜きは、190センチの大男でも大丈夫なように、シールの上部を目一杯に上げることにした。
インテリアは、機能的なトレーインパネを採用し、ドアライニングと併せて「樹脂コンコン(硬い樹脂部品のこと。叩くとこんな音が出たから)」に見えないよう、形状から色つやシボに至るまで工夫を重ねる。
また使い勝手では、積み卸しを楽にするために、フロアを20ミリ下げて低床の実現を計り、あおり(荷台部分のサイドの縦板)などの開閉は、軍手のまま操作ができてかつ素手でも問題ないようにと、レバーや取っ手類の形状に細かい配慮を施した。荷台長は1800ミリ以上を確保し、荷物のモジュールを徹底して調べ、隅々まで使えるようにと工夫する。
最後まで悩んだのはルーフの扱いで、先代のもっていたノーマルルーフとハイルーフの2種類を、それら中間の高さに統一、バンとストリートを共通のルーフとした。1ミリを戦った低床の実現努力の賜である。結局、これによって生まれた大きなテールゲートが、このシリーズ最大の売りものになった。
そのほか細かく言えばいとまがない。売り出しに当たって、宣伝屋が「キュービックデザイン」と言ってその効用を謳ってくれた。「体」は「名」を表したと言うところか。一人ひとりは地味な連中だったが、やったことは凄い。底力を感じるチームだった。
予定で言うと、10年後(’90)、次のモデルチェンジを行うことになる。私はもういないだろうが、衝突安全や環境問題などを考えると、サイズが一回り大きくなり、姿かたちもすっかり変わるに違いない。が、次の世代が、こうした手間ひまかけるものづくりの伝統を、しっかり受け継いで行ってくれることだろう。


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