「「「「いまさら「史観」なんて」なんて」なんて」」…
えー、ご無沙汰しておりましたが、
久々の登場、です。
あきれずにどうぞ、お付き合い下さい。
さて。
ポストモダンということを語る場において。
たとえば、「いまさらフォルマリズム絵画でもなかろう」みたいなことを言う人がいたとする。
一瞬、納得してしまいそうな気がするが、それって、やっぱりおかしいのではないか。
ポストモダン、という言い方が、ポスト中世やポスト近世とは違った意味を持っているのは、「進歩史観」に対する異議申し立てでもあったからではないのか。
…そんなことを思いながら、ふと。
この私の考え方って、それ自体が「史観」の呪縛を受けているのではないか?と。
「ポストモダンだって言うのに、今更、“あんた遅れてるよ”って言い分もないだろう」と思うことは、それ自体、「史観」に基づいているわけで。
どうも、私に限ってみれば、「共時的な歩み」ということが、無意識のうちにあったようだ。
例えば、これを「パンク」という音楽の態度に振り替えて見てみると。
すでにピストルズの時代でパンクは終わった、とか、いやいや、ピストルズが出た時点で既に終わってたんだ、とか。
「史観」に基づき、いろいろな見解が出てくる。
でも、たとえば、ピストルズがそのアルバムを出す頃には、まだ生まれるはるか前だった、という人もいるわけだ。
40歳までずっとバッハなどのバロック音楽一辺倒だったけれど、41歳になって「Never Mind The Bollocks」を初めて耳にして、「おーっ!パンクってこういうことか!!!」と新たな衝撃を受ける人もいる。
はたして、その人が、41歳にして急に簡単なコード3つくらいからなる演奏に乗って叫ぶようなパンクバンドを
結成したからと言って、「あんた、いまさら…」なのか?いや、そうではないのでは。
だれだって、いつの時点でも、初めてパンクに出会うことはできる。
人それぞれに、それぞれの歩みがあり、それぞれの人が、その時に出会うものが大事だ、と。
あくまで、全ての史観の土台にあるのは「個人的な史観」なのではないか。
そこを無視して、「普遍的な史観」があると錯覚してしまうのは危険なのではないか。
“歴史で既に辿ってきた道のりだから、それを踏まえた上で次の一歩を踏み出すべきだ”、そう言う気持ちももちろん、判るつもりだが。
それって、歴史を頭の中でザザーーーッとブラウズしてるだけなんじゃないか、とも思ってみたり。
音楽歴史年表で見る「ピストルズに代表されるパンクムーブメントが台頭した」というたった25文字を、頭で理解するのと、体験するのとはやっぱり違うんじゃないか、と。
そんなことを思いながら、「分析する」ということの意味と危険性を考えてみたりする次第。
重層的なカテゴリーを整理しているときにはとかく、自分はその重層を俯瞰的に見ている“神の視点”に
立ってしまいがちな気がする。
そこで常に潜在している“自己中心主義”へのアラートを発しつつ、自分が立っている場を踏まえ、「他者」と絶望的なコミュニケーションの場に挑む。
ちょっとカッコつけているけれど(笑)、生きていくというのはそういうことなのかもしれないなぁ、と。







